SSブログ

第五百十二話 皺 [日常譚]

 皺というものは、歳を重ねると共に自然と増えていくものじゃが、おおよそ

よく動かす筋肉の端っこの部分には皺が多いわな。たとえば目尻とか、口

の端とかな。つまり、常に皮が伸びておれば皺にはならんが、 しょっちゅう

皮に筋が入っておるような場所には皺ができるわの、わかるじゃろ?人間

は、生まれたての時には、どこにも皺なんてなく、綺麗なつるっつるの皮を

持っておるもんじゃな、そうじゃろ?

 ところがそれ、たまに眉間に深い皺を刻み込んでおるものがいるじゃろ。

眉間というものは、そんなによく動かす場所ではないわの。というか、眉間

に皺が入るのは、しかめっ面か怒り顔くらいじゃないのかな? つまり、

間に皺が入っているときは、あまりいい精神状態ではないときだと言える

のではないかの? 眉間にしわが入る回数が多いと、次第にそこに皺が

刻み込まれており、しかめっ面をしていないときでも、眉間に皺が入った

状態になる。これは、あまり良くないのではないかな? 眉間に皺が刻み

こまれている人間は、いつも怒っていたり、悩んでいたり、困っていたりす

る、そういう癖を持った人物だといえそうじゃの。わかるかな?

 そう、常に眉間に皺が入っている人物の側で暮らす人間にとって、あま

り心地よいとは言えんわな。それに、その皺の持ち主自身にとっても、い

つも困っている、怒っている、悩んでいる、というのは、何か精神的によい

状態とは言えないと思うのじゃな。どうじゃな、みなさん。

 それ、森山くん、どう思うかね。君の眉間には、深い皺が刻まれておるが、

何か困った問題でも抱え込んでいるのかな?

 いえ、先生。違います。僕は、生まれ落ちたときから、既にこの眉間の皺

があったそうです。これが僕の顔なんです。

 ……そうか。すまん、森山くん。それはすまないことを言ったの。森山くん、

君は、生まれ落ちた時に、すでに怒ったり、困ったり、悩んだりしておったと、

そういうわけなんじゃな? 違うか?

                                   了


読んだよ!オモロー(^o^)(4)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百十一話 月 [文学譚]

「それは美しいものじゃった……」老人は、パオに住む若者たちに語りはじめ

た。ある者は目を輝かせて、またある者はどうせ年寄りの思い出話だろうと斜

に構えて、それでも老人の言葉に耳を傾けた。「十五夜と言うて、お月様のよ

うな団子を用意してな、まん丸いお月様が天に上るのを眺めるのじゃ。昔の家

の縁側に座ってお茶などすすりながらな」老人はプラネタリウムにも似たドー

ム型の天井を見上げて言った。若者たちも真似をして天井を見上げたが、むろ

んそこには染みだらけになったパオの布天井が見えるだけだった。

 老人は、目覚めてからまだ三年しか経過していない。老人が目覚めたときに

は、世界は大きく変貌してしまっていた。荒野は荒れ果て、文明は過去を遡る

ような事態に陥っている。何故、こんなことになってしまったのだ。老人は何

度も反芻するかのように思考を巡らせる。老人が冷凍睡眠装置に横たわった時

代にも闘争はあった。だが、必ず世界はいい方向に進むと信じて目を閉じたは

ずだ。ところが、老人が眠りについている間に、一部の人類がとんでもない暴

走をはじめてしまったのだ。核ミサイル実験。K国から発射されたそれは、意

外なほどの推進力を発揮し、軌道は大きくそれて空高く飛び上がり、大気圏を

も突破した。もはやコントロール不能になった巨大な核ミサイルが真空地帯を

突き進み、ついに地球の回りを公転していた月に到達し、燃え上がった。

 月の爆発は、それは美しいものであったという。だが、一瞬の花火のような

天体ショーの後、夜空は暗闇になった。人類は自らの手によって、美しい星を

ひとつ失ってしまったのだ。月の核爆発は、地上にも大きな悪影響を与えた。

放射線の雨が降り注ぎ、野は枯れ、海は荒れ、生き物の多くが死滅した。かろ

うじて生き残った人類は、いまこうしてパオの中でひっそりと暮らし、月が消

え去った暗い星空を眺めることになったのだ。

 一度失ったものは、二度と手にすることが出来ない。そう思い知った人類は

しかし、もはやなす術もなく、滅びのときを待つばかりなのだ。

                      了

続きを読む


読んだよ!オモロー(^o^)(3)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百十話 兄貴 [可笑譚]

「兄貴ぃ、だ、大丈夫なんですか、ここ」

 いい年をして怖がりの晋平は、ほんとうに情けない腰抜けだ。これしきのこ

とで腰が引けて、しかも声を震わして俺の身体を掴んでくる。

「ええい! 触るな、気色わりぃ。それに俺のことを兄貴というな」

「ええーだって、兄貴だけが頼りなんだからさぁ。そんなつれないこと、言わ

ないでくださいよぅ」

「だから、兄貴と言うな。俺はおめぇの兄でもなんでもないわ!」

 ついつい声を荒げてしまうのは、ほんとうは俺だって恐いからだ。わいわい

言いながら俺と晋平がいるのは、古いビルの中だ。ほとんど廃墟となりつつ

あるほど古いビルは、昼間でさえ薄暗く、日が暮れてしまうと、それこそ幽霊

屋敷のような不気味さが漂う。俺たちは、このビルに入居している親父から

金を返してもらうために来たのだ。昼間は留守だった。ドアのところに、用事

がある方は十時以降に、と書いてあったので、十時きっかりにやって来た。

 俺たちの会社は金貸し業、いわゆる街金だ。ここの親父に五百万の金を

貸したのだが、期日までに返済されないので、こうして何度も督促に来てい

るわけだ。親父は、家も売り払い、事務所にしていたこのビルに住み着いて

いる。家を売った金は、俺たちへの返済に当てられる前に、右から左へと消

えてしまったらしい。

「兄貴ぃ、親父、ほんとうに戻ってるんっすかねぇ?」

「知るか! そんなこと。それより、兄貴と言うなって言っているのに!」

「あ、兄貴。親父の事務所、灯りがついてますぜ」

「おお、ほんとうだ。帰ってるんだな」

 俺たちは親父の事務所、首藤ボクシング倶楽部のドアに手をかけた。ドアに

は鍵はかかっておらず、ギギィと音を立ててドアが開いた。事務所はシーンと

静まり返っていて、空気も冷たい。リングのある広間の灯りは消えたままで、

奥の事務所にしているパテーションの中から明かりがもれているのだった。

「おぅい! おやっさん、いるのかい?」

 声をかけたが、返事はない。奥に向かってゆっくrと歩いていく。リング横の

通路は薄暗く、足元にはゴミのようなダンボールやボクシング用具が積まれ

ているので、下手をすると躓きさおうだ。晋平がますます俺にしがみついてく

る。

「おいおい、そんなにくっつくな、鬱陶しい!」

 俺がそう言ったとき、晋平が大きな声を上げると同時に俺のシャツを掴んで

いる手に力が入った。

「なんだ?」

 通路を曲がったところに、天井から何かがぶら下がっていた。

「きゃぁ! な、なあに? いやぁ!」

 大声を上げてしまったのは晋平ではない、俺だ。俺だって、怖いものは恐い。

晋平には言えないが、俺は少しパンツの中に尿を漏らしてしまった。

「な、なんだ。兄貴、これ、サンドバッグですわ」

 晋平は、気が抜けたように言った。

「てっきり、親父が首でもくくったのかと思ったぜ」

 俺たちはサンドバッグの向こうにあるパテーションの扉を開けた。中は親父

が使っている社長室兼居室となっている。汗臭い空気がむーんと伝わってく

。俺は、こういう男臭さは苦手だ。たとえ男であろうとも、清潔性肝心だと思

っているからだ。汗臭い男とは、金輪際付き合いたくない。

「おい! 親父! いるか?」

 親父はソファの上で青白い顔で目をつぶって横になっていた」

「あ、兄貴ぃ。こいつ、死んでるんじゃ……」

「し、死んでる? う、うっそ〜。やめて! いやよ、そんなの! 俺、死体

なんか見たくないわ」

 俺は思わず目を背けた。

「親父! おいっ、親父!」

「う、うーん」

「な、なんだ。兄貴、こいつ、寝てただけですぜ」

「おや、お二人さん。来てたのかい?」

「来てたのかいじゃねえょ。今日は、金、あるんだろうな」

晋平の言葉に、親父がにんまりして言った。

「まぁ、そう急ぎなさんな。さ、そこにかけて。いま、茶でもいれましょうな」

 俺たちは、親父の様子がいつもと違って余裕なのを訝りながら、ソファに

腰を下ろした。

「まぁ、兄さん、あ、いや、櫻井さんは今日もお美しい。晋平さんが羨ましい

ですな、こんな美人が兄貴分だなんて」

「おいおい、おやっさんまで、やめてくれよ。俺はこいつの兄貴じゃない」

「そうですな、どうして姉貴とかいわないんでしょうな」

「それは、俺も断る。それじゃぁまるきり兄弟みてえだからな。そんなこと

より」

「ほっほっほ。今日は大丈夫だ。ちょっと、臨時収入があってね。ほれ、五百

万。きっちりあらぁな。あとの利息は、まぁ、もう少し時間をくれないかね」

「おお、どうしたんだ、急に。何か悪さでもしたんじゃねえのか?」

「とんでもない。それは綺麗な金だ」

「親父、偉いぞ。俺もこれで、社長に申し訳が立つ」

「櫻井嬢ちゃんも、大変ですな。エライ父親の娘に生まれちまって。こんな男

っぽい仕事の上に立っちまって。それじゃ、嫁にも行きにくかろう」

「うるせい! 俺は、こういうのが好きなんだよ。いまさら、なよなよしてアタシ

アタシだなんて、言ってられないのよ!」

 晋平は思った。そうだよ。兄貴は兄貴さ。俺は兄貴が男であろうが女であろ

うが、どこまでもついていく。こんな素敵な兄貴分なんtげ、そうは見つからな

いからな。ま、ときどきオカマ言葉になるのは、愛嬌だけどさ。

                               了


読んだよ!オモロー(^o^)(2)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百九話 ビクトリア [文学譚]

 風が凪いでいる。海辺に立つこの城は思いのほか小さく、とても家来などを

住まわせるような居室はない。海岸線に沿ってそびえる建築物の、そのほん

の一画がビクトリアの小さな城なのだ。

 朝になって目が覚めると、まずは海沿いの小路を散歩する。それが最近の

ビクトリアの習慣だ。そろそろ足腰が弱ってくる年齢に差し掛かっているので、

側近に勧められた通りに歩くことをはじめたのだ。時間帯によっては海風が

強く吹くが、足元までをすっぽりと覆い隠すようなロングドレスがばたばたと

はためくほどの強い風を、ビクトリアは嫌っている。裾が足元にまとわりつく

のが嫌だったし、長く伸ばした髪が顔中に張り付くように漂うのも嫌なのだ。

だから凪いでいるか、ほんのそよ吹くくらいの風がちょうど心地いい。

「ビクトリア!」

 帰り道の向こうからビクトリアを呼ぶ声がする。ウィリアムだ。彼はビクト

リアが長年連れ添って来た夫だ。かつてはばりばり執務を行う人であった

が、退官してからはすっかり老け込んでしまって、一緒に散歩をしようと誘

っても、足が痛いからとか言い訳をしてついてこないような怠け者だ。いま

だって、腹を空かしすぎてビクトリアを呼びに来たのに決まってる。

「あら? ウィリアム。どうかしたの?」

「どうかしたって? 心配して探しに来たんじゃないか。お前はすぐにどこか

行ってしまうから」

「どこかへって……私は毎朝散歩をするのが日課だって、あなたも知ってるで

しょ?」

「お前は、その散歩が危ないんじゃないか。いままで帰って来れなくなったこと

が何度ある?」

「まぁ、失礼しちゃうわ。私、帰れなくなったことなんて、一度だってありゃぁしな

いわ」

「まぁ、いい。とにかく帰って、飯にしよう」

「ほぉら。やっぱり、お腹が空いて呼びに来たんじゃない」

「……そういうことにしておいてもいいから、とにかく帰ろう」

 エントランスを抜けて、エレベータに乗る。三階で降りた目の前が二人の部

屋だ。ドアを開くと、もういい香りが漂っている。

「あら? 食事の準備が出来ているのね。今日はどの食事番が来てくれたの

かしら?」

「食事番なんていないよ、お前。わしが作ったんだよ、いつも通りに」

「ウィリアム。あなたいつからそんなことが出来るようになったの?」

「……前からだよ、美しいお前。ところで、そんおウィリアムという名前は、わし

にはくすぐったすぎる。止めてもらいたいんだが」

「あら? あなたをウィリアムと呼べないのなら、なんて呼べばいいのかしら?」

「ちゃんと、名前で呼べばいいじゃないか。昔みたいに」

「名前……あなたの名前はウィリアムですよ」

「違う。わしの名前は瓜蔵だ。忘れたのか」

「まぁ、おかしな名前だこと。瓜蔵だなんて。あなた、きゅうりか何かの親戚なの?」

「もう、いいから座りなさい、美嘉子。さぁ、朝食を食べようじゃないか」

 目の前には味噌汁と焼いたメザシ。卵焼きと漬物が並んでいる。美味しそうだが、

私が好きなのはオムレツとクロワッサンなのに。ビクトリアは思った。それに……

「私は美嘉子じゃないわよ。ビクトリア。あなた、変な事言わないで」

 彼女はいつからこうなったのか。そうだ、三年前から徐々に始まっていたんだ

なぁ。そのどこかで見せたあの映画がいけなかったのか。イギリスの女王を描

いたあの映画。かつて英国で最も長い年月君臨したという女王の映画。華美で

豪華で、誇りに満ちたビクトリア女王を演じていたのは誰だったっけ。美嘉子は

もともとああいう華やかな世界が大好きだった。すでにかなり惚けていた彼女

は、自分自身がビクトリア女王だと思うようになった。そしてこの老人ホームの

ある地を英国だと思っているのだ。

 だが、それで彼女が幸せを感じているのなら。幸せを胸に抱いたまま死んで

いけるのなら、それもまたいいのかもしれない。瓜蔵はそう思う。

「まぁ! この小さなお魚、美味しいわ。ウィリアム! これはなんというお魚な

の? ウイリアム! ウイリアム!」

 美嘉子は、このあとビクトリアとして三年間を生きた。

                                 了


読んだよ!オモロー(^o^)(2)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百八話 遺品 [日常譚]

 父は古い国産大衆車に乗っていた。当時百万を切るほどの車だが、濃いグレ

ーという配色も功を奏して、素人目にはあの豚鼻のドイツ車に見えなくもなか

た。父は、週末になると釣竿一式を車に乗せて、出かけていた。滅多に釣りの

成果を持って帰らなかったのは、坊主だったり、連れても逃がしているのだと言

い訳をしていたが、何回かに一回は大漁だといって、数匹のチヌやアブラメを持

ち帰り、自らさばいてみせたりもした。

 その父が脳卒中であっけなく急逝した。兄貴は既に車を持っていたので、父の

車をぼくが譲り受けた。すでに十年落ちの車だというのに、その十年間に父が乗

ったのはたった二万キロだった。十年落ちともなると、窓を開けるメカが不具合だ

ったり、年老いた父が凹ませた後部ドアがあったり、何かとガタは来ているのだが、

エンジンだけは、まだまだこれから走ってやるぞ、という調子の良さだった。

 車の中には、父が釣りにつかったのであろう浮きや重りが転がっていたり、トラン

クには釣竿が一本置き去りにされていた。ダッシュボードにもいろいろとガラクタが

入っていたのでそのほとんどを捨てたのだが、そのときにピンクのルージュが一本

出てきた。父の家には口紅を使う女性は母しかいない。だが、母が使うような色で

はなかった。兄嫁すら使わないような若々しいピンク。しかも兄嫁は兄と共に遠くに

住んでいて、父の車には乗ったことがない。だとすると、いったい誰の忘れ物なの

だろう。いまさら置いてても仕方がないので、ぼくはほかのガラクタと一緒に、ピンク

のルージュを処分した。

 半年ほど過ぎて、父の車で遠乗りをしたときに、後部タイヤがパンクしてしまった。

この車にも、代用タイヤがひとつ積み込まれているのを知っていたぼくは、路肩に

駐車してトランクを開けた。トランクの底板が外せるようになっていて、その下に代

用タイヤが埋め込まれている。ぼくはそれを取り出しにかかったのだが、底板を外

すと、代用タイヤの上にビニール袋が平たく置かれていた。

 はて、これは何だ? 袋を開けてみると、女性の衣類……下着上下と小花柄の

ワンピースがきれいに折りたたまれて入っていた。これは? どうみても年老いた

母のものではない。敢えていうなれば、兄夫婦の娘たちが着そうな衣類である。

なぜ、こんなものがタイヤ入れのところに、隠すように入れられていたのか。しか

も下着まで。母に訊ねても、おそらく知らないと言うだろう。それに、もしかしたら

母の気を落とさせることになるかもしれない。ぼくはビニール袋を元通りにして、

タイヤだけを交換した。

 あの女性服は、誰のものなのだろう。父が一人で趣味のために持っていた?

まさか。そうだとして、それはいったいどんな趣味なんだ? 父の車に同乗して

いた若い女性の持ち物だったという可能性の方が高いだろう。あのルージュも、

間違いなく同じ人物の持ち物だったに違いない。しかし、それはいったい誰? 

父とどういう関係が? 謎は深まるばかりだが、この秘密を知っているのは、亡

くなった父と、その誰だかわからない女性だけだ。

 ぼくは、ガソリンスタンドでタイヤを好感した帰り道、衣類の入ったビニール袋

を人知れずコンビニのゴミ箱に捨てて帰宅した。そしてすべてはなかったことに

なった。僕の頭の中以外では。

                                 了


読んだよ!オモロー(^o^)(2)  感想(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百七話 老前整理 [日常譚]

 二LDK、公団。十年前に夫が姿をくらましてから、私はずっと一人暮らし

だ。夫がいなくなった当初は、そりゃぁ大変だった。もう、そのときには愛だ

のなんだのということはなかったが、一緒に居なくなった人物とどうやら愛

人関係だったことを知って、愕然とした。なぜなら、その相手は、私もよく

知っている夫の同僚だったのだから。二人を探そうという気力もなく、五年

を過ぎて、離婚申請が出来る段になると、さっさと役所に届けを出した。

 それからの五年間を、私は自由気ままに暮らした。幸い、夫が私を気の

毒に思ったのだろう、私名義の貯蓄の中に、いくばくかの財産分与分を入

金してくれていたので、当座はそれで暮らし、以降は私なりに仕事を見つ

けて生活してきた。

 だが、ひとりで自由に暮らしていると、人間は自堕落になる一方で、キッ

チンのテーブル上にも、戸棚の周りも、者がいっぱいで、食事をするには

テーブルにほんの少しのスペースを作ってから食べるというようなありさま。

床の上も、文字通り足の踏み場もないという惨状で、誰かが遊びに来たとして

も床上に投げ捨てられた衣服やダンボール、インスタント食材などを足でよけ

ながら歩かなければならなかった。

「なぁに、これは? これじゃ、ゴミ屋敷寸前じゃない」

 数少ない友人の佳代子が陣中見舞いにやってきたときも、さんざんお小言を

聞かされるはめになった。

「あのね、ふみ子さん、あなたもいい大人だから分かっているとは思うけれど、

こういうのは、風水的にもよくないし、そうでなくても、精神がおかしくなっちゃう

わよ。いまはやりの断捨離を実践しなさいよ」

「なに?ダンシャリ?」

「そんなことも知らないの? 断捨離ってね、断、いらないモノが入ってくるのを

断つ、捨、いらないものを思い切って捨てる、離、モノへの執着から離れる、簡

単に言えば、そういうことよ」

「そんな、簡単にいうけど・・・」

「そうね、あなたの場合は、もう五十歳も過ぎてるんだから、断捨離というよりは、

老前整理って思ったほうがいいんじゃない?」

 また新しい言葉が出てきて、私は目を白黒させる。老前整理と断捨離は、行う

べきことは似たようなことだけど、手っ取り早く言えば、そろそろ老いに向かう自

と向き合って、いるものといらないものを整理して、片付けましょうという、少し

トーンの低い言い方らしい。佳代子は結局、モノを捨てることの手ほどきをあれこ

れ言うだけ言って帰っていった。

「老前整理といわれてもねぇ」

 改めて身の回りのモノを見渡すと、確かにほとんど使っていないものばかり。い

らないモノに囲まれて不便に住んでいたことに、我ながら驚いた。私は、怠惰な気

持ちを振り払い、一念発起して片付ける決心をした。思い立ったらなんとやらとも

いうので、その日から片付けに入った。

 あれもいらない、これもいらない。床の上に落ちているものは、食品以外はほと

んどが不用品。不用品なのだけれども、拾い上げるたびに、なにかしら思い出が

湧き上がるのだ。これはあの人が出張で買ってきたシャツだ。これは私が衝動買

いした安物のインテリア。これはずーっと昔に父が旅行で買ってきた民芸品。そ

んなノスタルジーに浸っていると、何一つ片付かない。出来るだけ目をつぶって、

手当たりしだいにゴミ袋に放り込んでいく。

 いっぱいになったゴミ袋が十ほど玄関に溜まって来た頃には、床の上もずいぶ

んとすっきりはしたのだが、同時に馬鹿らしくなってきた。こんなことをして何にな

るのかしら。今までだって、このゴミ袋の中味たちと一緒に暮らしてきた。それで

なんの支障もなかった。ちょっと佳代子に言われたからって、私ったらこんなに

必死になって片付けはじめて。どうせ私ひとりしかいないのに。どうせこの先だ

って、何も変わらず、老前整理なんてしたところで、また同じように日常品は溜

まっていく。賽の河原積みみたいじゃない。

 臭い臭いは元から絶たなきゃダメ! っていうじゃない。そうよ、こういうもの

だって、元から変えなきゃだめなんだわ。モノが溜まってくる元って……ゴミの

もとって……私は十個のゴミ袋の前に座り込んでしばらく考えていたが、ピン

と閃いた。こういうのが溜まるのは、全部私のせいなんだ。私がやっているこ

となんだ。私がすべての元凶なんだ。そう考えが至ったとき、私は十一個目の

ゴミ袋を開いて、静かにその中に身を投げ入れた。

                                   了

続きを読む


読んだよ!オモロー(^o^)(4)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百六話 扉の向こうに [可笑譚]

 恐い。理由もなく、ただただ怖いのだ。この扉の向こうにいるものが。

ために、内側の平穏な居空間を外の悪天候から遮断するためにあるもの

なのだ。だが、自らが外側にいるとしたらどうだろう。身を守るために作っ

たはずの扉が、自分を外敵側に置き去りにされる障害物と化してしまう。

目の前には行方を妨げる扉が堅く閉じられ、背後には怪物が迫る。そん

な恐ろしいことには金輪際なりたくないと思っていた。

 ところがいま、私が置かれている状況は、そういうことともまた違う。私

が扉の外側にいることには間違いないが、背後に怪物はいない。恐ろし

きものは、この扉の向こうにいる。そして扉の向こうにいる恐ろしきものを

乗り越えなければ、安穏の場所には決してたどり着けないのだ。

 私は相手に悟られないように静かに扉の向こうを探る。扉に耳をあて、

なにか物音はしないか、恐ろしき唸り声は聞こえないか、耳を澄ませる。

静寂。あいつは、いないのか? いまがチャンスなのか? しかし扉の

隙間からは微かな息づかいと、あいつが使っているであろう灯火の欠

片が漏れてくる。やはりいるのか?私が扉を開くのを、今か今かと待ち

受けているのか? いや、そんなはずはない。あいつは待ち伏せなど

しない。待ち伏せなどしなくとも、扉の向こうは狭い空間だ。どこにいた

ってあっという間に駆けつけてこれる。そして飛びかかることさえ可能

だ。ああ、どうしよう。このまま踵を返して、またあの危ういエリアに戻

るべきなのだろうか。しかし、いまこの扉さえ乗り越えることができた

なら、とりあえず今日のところは平穏に眠りにつくことができる。

 おお、神よ。我に力を与え給え。我に勇気を与えて、安息の時間

与え給え。私は意を決して扉に手を掛ける。あいつにさとられないよ

うに、静かに、静かに、扉の隙間を広げていく。

 ぎ、ぎぎ。それでも微かな音が、深夜の空気の中にこだまする。しぃ

っ! 黙れ! 音を出すな! 扉に念じながら身体ひとつ通れる隙間

を作ってなんとか扉の向こうに身体を移動させる。扉の向こうは暗闇

だ。感づかれていないようだ。

 と、突然私の存在を誇張するかのように、あいつの灯火が私を照ら

し出す。し、しまった! あいつに見つかった!

「こんな時間まで、どこで遊んでいたのよ! またあの女の店か? あ

んた、いい加減にしなさい!」

 恐ろしき野獣が吠えた。

                              了


読んだよ!オモロー(^o^)(3)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百五話 隣人 [怪奇譚]

 マンションの隣が空き室になって二ヶ月ほどたつと思っていたら、昨日、誰

かが引っ越ししてきたようだ。俺が出かけている間に入居を済ませたようで、

引っ越しゴミがゴミ捨て場に捨てられていた。いままで空き家であったときに

は、硝子一枚だった窓の内側には黒いカーテンが張られているようだし、玄関

外には、段ボール箱が二個置かれている。そのうち挨拶にでも来るのかなと思

いながら、夜を迎えた。

 深夜、眠っていると、隣から何かしらモノを切るようなギシギシという音が

聞こえる。それは微かな音であり、迷惑だと思うほどではなかったので、その

まままた眠りについた。

 次の夜も、今度は何かを叩くような、こつこつという音がする。これも微か

な音ではあるが、深夜の静まり返ったマンションのどこかからひっそり聞こえ

てくる音という物は、妙に気になるものだ。それから毎晩、深夜二時くらいに

なると、ギシギシか、こつこつ、新たにピシィッ! という破裂音、このいず

れかの音がするのだ。

 最初の夜には、引っ越し片付けのついでに何か工作事でもしているのだろう

暗いに思っていたのだが、連日連夜となると、あまりにも不自然な気がした。

いったい何をしているのだろう。まだ引っ越しの片付けをしているのか?それ

とも何かほかの、たとえば仕事だったり、趣味だったり、そういうことか?何

しろ未だに隣人の姿を見ていないものだから、いささか気持ちが悪い。うるさ

いと文句を言いにいくわけにもいかず、毎晩の音が気になって不眠症になって

しまいそうだった。

 ひと月ほど我慢をした。しかし、月が変わったのをきっかけに、明日こそ一

言言ってやろうと思っていたら、ぴたりと音が止んだ。ひと月間慣らされた音

が止んでしまうと、安堵の気持ちとは裏腹に、今夜はまたあの音が再開するの

だろうか。今夜こそ、またあの音がするに違いないと、今度は毎晩、静かな隣

に耳を澄ますようになってしまった。

 そんな夜が一週間ほど続いた後、マンションのエントランスで掃除をしてい

る管理人に、久しぶりに出くわした。俺は、そうだ、管理人なら隣の人物を見

ているに違いないと重い、訊ねてみた。

「おはようございます。ちょっとお伺いしたいことがあるのですが」

「ああ、おはようございます。どうしました?」

「あの、ウチの隣のことなんですけれど」

「お隣? ええーっとお宅は何号室でしたっけ?」

「ああ、私は四階の四〇二号室ですが」

「あ、なるほど、では、四〇一号室のことですね」

「そう、そうです。あそこに引っ越ししてきた……」

「は? 四〇一号室は、なかなか入居者が見つからないみたいでねぇ。お寂し

いですか?」

「え? あ、いや、隣は、先月どなたか引っ越しして来て……」

「あれ? そんなことありませんよ。あそこは、三ヶ月前にお住まいだった方

が亡くなってから、ずーっと空き部屋ですよ」

「な、亡くなった? お隣が? 引っ越していったんじゃぁないんですか?」

「あれ、ご存じない? あんまり言わない方がいいんでしょうけれど、室内で

変死されてたんですよ。」

「変死? それはどういうことです?」

「ああ、お隣さんに、こういう話をしていいものかどうか……わからないんです

が……自殺だということにはなってるんですが、なにか、ご自分で作られたんだ

と思われるんですが、ベッドからマットを取り外したような奇妙な機械に、自分

の身体を釘で打ち付けていて、さらに天井からつり下げられた振り子式ののこぎ

りで、自らの身体を傷つけるようにセットされていて、その仕掛けによって身体

がずたずたになって死んでいたのです。機械は、一種の拷問道具で、その人は自

傷癖が高じてそんなことになってしまったのだと結論されたそうです。死体の処

理をするために機械を動かしたら、ギイギイとか、こつこつとか、ピシィとか、

実に賑やかだったそうですが、お宅、そういう音を聞いたことはないのですか?」

 俺はそういう音を聞いた。だが、それは新しい入居者が入ってからだ。しかし

管理人は、隣には入居者はいないという。いったいどうなっているのか、わけが

わからなくなった。不動産斡旋会社に電話して確かめてみたが、隣室は、やはり

いまだに入居者を募集しているという。俺が聞いたあの音は、なんだったのだろ

うか。こうして俺は、今夜も隣室に耳を澄ませて夜を過ごす。

                        了

続きを読む


読んだよ!オモロー(^o^)(4)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百四話 ヒトノスコロリ [空想譚]

 夢のようなことが起きた。

 どのようにしてやって来たのかはわからないが、それは空から静かに舞い降

りた。公園の真ん中に、美しい仕様のプレハブ小屋が置かれたのだ。なんだこ

れは? 人々は最初、誰かが立てたのだろうと思い、不用意に侵入して訴えら

れでもすれば面倒だと、無視していたのだが、子供は無遠慮である。いつもそ

の公園で遊んでいる子供たちの一人が、中に入った。入り口には簡単な目隠し

の扉があるだけで、鍵もなにも掛かっていなかったのだ。しばらくすると、そ

の子供は金色の固まりを抱えて現れた。

「お前、それなんだ?」

 遊び仲間が訊ねた。

「なんか知らんけど、いっぱいあったよ。」

たまたま通りがかった親父が、それを見かけて、もしやあれは? と考え、子

供が出てきたプレハブ小屋に近づいた。なるほど、鍵はかかっていない。公園

は公共の場だ。公共の場にある建物で、鍵がないということは、誰でも入って

いいということに違いない。そう思って、おそるおそる中に入った。小屋の中

は天窓がうまい具合につけられているので、灯りがなくともとても明るい。清

潔でシンプルな室内の真ん中に、金色に輝く四角い物体が、きちんと積み上げ

られていた。「やはり」男は思った。これは、金だ。金塊だ。男はひとつを手

にしてみる。ずっしりと重い。

「こいつは、いただいて帰らないわけにはいかないが、いくつも持つのは無理

そうだな。

 男は持っていた鞄の中に二個詰め込み、もうひとつを小脇に抱えて小屋を出

た。とにかく、ひとまず持ち帰った。男の家は公園の近くだったのだ。妻はパ

ートに出かけて留守だし、子供も学校から帰っていない。男は三つの金塊を家

に投げ込むや、急いで車庫から車を出し、先ほどの公園に戻った。

 残りの金塊をもっといただこうと考えたのだ。だが、プレハブ小屋の回りに

は、すでに大勢の人が集まっており、しかも、しかもすごすごと引き返す人々

であった。しまった! もう皆に知られてしまったかと、念のために小屋を覗

いてみたが、やはりもはや金塊は跡形もなく消えていた。

 惜しいことをしたな、そう思って家に引き返し、金塊を戸棚の中にしまい込

んだ。男はそのまま知らぬ顔で会社に戻り、そそくさと仕事を済ませてから帰

宅した。

 妻も子供も帰っており、夕食の準備もできていた。夕食をとりながら、妻に

金塊のことを話すと、妻も、パートの帰りに別の公園でそういう小屋を見かけ

たが、中にはなにもなかったと言った。子供はまったく興味なさそうにテレビ

を見ながら食事を済ませて、自分の部屋に行ってしまった。

 その夜。男は、あれをどうやって金に換えるかなぁと算段しながら眠りにつ

いた。みんなが寝静まった頃、戸棚の中の金塊には異変が起きていた。金塊は

時間をかけて静かに溶けはじめ、溶けると同時に気体となって部屋中に広がり

はじめた。金塊が変容した黄色いガスは、夫婦の寝室にも、子供部屋にも、扉

の隙間から侵入し、眠っている家族の鼻から身体の中に忍び込んで、彼らの息

の根を止めた。

 翌日。平日だというのに、街は休日のように静かだった。何人かの住人が、

なにが起きているのか不思議そうな顔をしながら職場に向かっていたが、その

彼らが歩む道の真ん中に、どのようにして現れたのか、また別のプレハブ小屋

が天から舞い降りて来た。

                        了

続きを読む


読んだよ!オモロー(^o^)(5)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

第五百三話 祈り [怪奇譚]

 私たち日本人は無宗教な国民だ。もちろん、神も仏も祀られているし、冠婚

葬祭のほとんどは神前で執り行われてはいるのだが。「神様を信じています

か?」そう問われて、すぐに「はい」と答える人は少ないのではないだろうか。

 ところがアメリカあたりでは、多くの人が神を信じている。その多くがクリスチ

ャンでありその中でもカソリックだ。彼らは、食事の前に必ず祈りを捧げる。実

は、この祈りを捧げる習慣こそが、神を信じる気持ちを育んでいるのだと、私は

思う。 日本ではこのような習慣を守っている人は皆無に近いのではないだろう

か?

「今日一日私たち家族が平和に健やかに過ごせたことを感謝します」

山田一郎は、彼の家族と共に囲む食卓で祈りを捧げる。

「父よ、あなたの慈しみを受けて、今日のこの食事をいただける幸せ

に感謝します。ここに用意された食べ物を祝福し、わたしたちの心身

を支える糧としてください」

 日本では食事のときにこのような祈りを捧げる家族を見ることは稀

である。先週、山だけの隣に引っ越してくるや、すぐさま顔見知りにな

り、翌週には山田家の夕食に招待された。そもそも人付き合いは好き

な私は、遠慮なく申し出を受け、ケーキを手土産に山田家を訪れた。

しかし、出会って一週間ほどで食事の招待を受ける等、私の経験では

はじめてだ。食卓にはほっこりと湯気を立てている旨そうなシチューと、

分厚いステーキの皿が並べられている。そして山田の祈りはまだ続い

ている。

「父よ、こうしてまた今日だけでなく明日の糧まで用意いただいたことに

も深く感謝し、私はこれからもあなた様を信じて、あなた様の未来永劫

の繁栄に尽くすことを誓います。今宵の晩餐の終わりと共に、あなた様

にも血と命の生贄を捧げ、その残り物は明日の我が身に取り入れさせ

ていただけることに感謝します。オーメン」

 なんだか気味の悪い祈りだ。キリスト教に生贄などという儀式がある

のか? それに、アーメンではなく、オーメン? 何かおかしい。おかし

いとは思いつつも、それから始まった晩餐の旨さに忘れてしまっていた

が……ワインの酔いが回ってきたのか、私は不甲斐なくも……山田家

の食卓でフォークを握ったまま、子供のように眠りに……就いてし……

                   了


読んだよ!オモロー(^o^)(3)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。