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第五百九話 ビクトリア [文学譚]

 風が凪いでいる。海辺に立つこの城は思いのほか小さく、とても家来などを

住まわせるような居室はない。海岸線に沿ってそびえる建築物の、そのほん

の一画がビクトリアの小さな城なのだ。

 朝になって目が覚めると、まずは海沿いの小路を散歩する。それが最近の

ビクトリアの習慣だ。そろそろ足腰が弱ってくる年齢に差し掛かっているので、

側近に勧められた通りに歩くことをはじめたのだ。時間帯によっては海風が

強く吹くが、足元までをすっぽりと覆い隠すようなロングドレスがばたばたと

はためくほどの強い風を、ビクトリアは嫌っている。裾が足元にまとわりつく

のが嫌だったし、長く伸ばした髪が顔中に張り付くように漂うのも嫌なのだ。

だから凪いでいるか、ほんのそよ吹くくらいの風がちょうど心地いい。

「ビクトリア!」

 帰り道の向こうからビクトリアを呼ぶ声がする。ウィリアムだ。彼はビクト

リアが長年連れ添って来た夫だ。かつてはばりばり執務を行う人であった

が、退官してからはすっかり老け込んでしまって、一緒に散歩をしようと誘

っても、足が痛いからとか言い訳をしてついてこないような怠け者だ。いま

だって、腹を空かしすぎてビクトリアを呼びに来たのに決まってる。

「あら? ウィリアム。どうかしたの?」

「どうかしたって? 心配して探しに来たんじゃないか。お前はすぐにどこか

行ってしまうから」

「どこかへって……私は毎朝散歩をするのが日課だって、あなたも知ってるで

しょ?」

「お前は、その散歩が危ないんじゃないか。いままで帰って来れなくなったこと

が何度ある?」

「まぁ、失礼しちゃうわ。私、帰れなくなったことなんて、一度だってありゃぁしな

いわ」

「まぁ、いい。とにかく帰って、飯にしよう」

「ほぉら。やっぱり、お腹が空いて呼びに来たんじゃない」

「……そういうことにしておいてもいいから、とにかく帰ろう」

 エントランスを抜けて、エレベータに乗る。三階で降りた目の前が二人の部

屋だ。ドアを開くと、もういい香りが漂っている。

「あら? 食事の準備が出来ているのね。今日はどの食事番が来てくれたの

かしら?」

「食事番なんていないよ、お前。わしが作ったんだよ、いつも通りに」

「ウィリアム。あなたいつからそんなことが出来るようになったの?」

「……前からだよ、美しいお前。ところで、そんおウィリアムという名前は、わし

にはくすぐったすぎる。止めてもらいたいんだが」

「あら? あなたをウィリアムと呼べないのなら、なんて呼べばいいのかしら?」

「ちゃんと、名前で呼べばいいじゃないか。昔みたいに」

「名前……あなたの名前はウィリアムですよ」

「違う。わしの名前は瓜蔵だ。忘れたのか」

「まぁ、おかしな名前だこと。瓜蔵だなんて。あなた、きゅうりか何かの親戚なの?」

「もう、いいから座りなさい、美嘉子。さぁ、朝食を食べようじゃないか」

 目の前には味噌汁と焼いたメザシ。卵焼きと漬物が並んでいる。美味しそうだが、

私が好きなのはオムレツとクロワッサンなのに。ビクトリアは思った。それに……

「私は美嘉子じゃないわよ。ビクトリア。あなた、変な事言わないで」

 彼女はいつからこうなったのか。そうだ、三年前から徐々に始まっていたんだ

なぁ。そのどこかで見せたあの映画がいけなかったのか。イギリスの女王を描

いたあの映画。かつて英国で最も長い年月君臨したという女王の映画。華美で

豪華で、誇りに満ちたビクトリア女王を演じていたのは誰だったっけ。美嘉子は

もともとああいう華やかな世界が大好きだった。すでにかなり惚けていた彼女

は、自分自身がビクトリア女王だと思うようになった。そしてこの老人ホームの

ある地を英国だと思っているのだ。

 だが、それで彼女が幸せを感じているのなら。幸せを胸に抱いたまま死んで

いけるのなら、それもまたいいのかもしれない。瓜蔵はそう思う。

「まぁ! この小さなお魚、美味しいわ。ウィリアム! これはなんというお魚な

の? ウイリアム! ウイリアム!」

 美嘉子は、このあとビクトリアとして三年間を生きた。

                                 了


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