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第五百二十話 家なき親子 [文学譚]

 その親子は繁華街のはずれをゆっくりと歩いている。

「お父さん、お腹いっぱいになったね」

「そうだな、今日は結構食べ過ぎちゃったかもだな」

「ぼく、この町は好きだな。ねえ、お父さん、しばらくここにいたいな」

「そうかい? そんなに気に入ったのか? 別にそうしてもいいが、次の町はも

っといいところかもしれないぞ」

「そうか。そうだね、お父さん。次の町へ行ってみて、それからまたここに戻って

来てもいいんだものね」

「いや、戻ってくるのはだめだ。それは私のルールに反する。私は前にしか進ま

ない、そういうルールで生きてきたんだ。な、お前にも何度もそう教えただろう?」

「う、うん……人生は前向きに生きるもんだって、そうでしょ?」

「その通りだ。まぁ、いつかまた同じ町にやってくることはあってもいいんだがな」

「そうだね。じゃぁ、次の町を目指そうよ、お父さん」

「うむ。じゃぁ、そろそろ帰ろうか」

「うん」

 父親は「帰る」と言ったが、それは言葉の綾であって、どこか帰る家がその

辺りにあるわけではない。ひっぱっている小さなリアカーを駐車して、眠るこ

とが出来る場所を探すということなのだ。親子は、自分たちをホームレスだと

は思っていない。彼らの家はどこにでもあるのだ。今日いる場所が、今夜眠る

場所が、彼らの家になるからだ。あるときは公園のベンチ、あるときは橋桁の

影、あるときは商店街アーケードの中。天気がよければ道端の植栽の中でも

いい。雨の日はシャワーだと思って衣服を脱いで体中をきれいに洗い流す。

 みんな固定した住まいというものを決めて喜んでいるが、なぜそんなものに

固執するのか、この父親にはわからない。彼の鴨長明も「人の世も住まいも

仮の宿だ」と書いているではないか。何をひとところにとどまり続ける必要が

あるのだ? 父親はそう考えている。かつて親子は北の町で暮らしていたが、

母親が急逝したのをきっかけに、すべてを手放して、全国を歩いて暮らす放

浪旅の生活をはじめたのだ。七歳になる息子は義務教育を受けられないが、

そんな堅苦しい教育を受けるより、日々学びの生活をさせたほうが、数倍役

に立つというものだ。

 ときどき、すれ違う人が目に憐れみを浮かべて振り返るが、何を勘違いし

ているのだろう。私たちはホームレスではない。浮浪者でもない。人生の放

浪者であり、住まいはこの地上すべてが私たちの住まいなのだ。これほど

幸せな生活が、この世にあるだろうか。豊饒の時代、必要なものはいつで

もどこかで手に入る。ゴミ集荷場に行けば、一発だ。食物だって、高いお金

を払わなくても、ホテルやレストランの裏通りに行けば、新鮮で栄養たっぷ

りのディナーが放置されている。きれいなところだけをピックアップすれば、

親子は毎日ミシュランも驚くようあ食事を口に来ることが出来るのである。

 私たちは自由で豊かな放浪親子。地球が住まい。何の不満があろうもの

か。

                            了

 

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