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第七百六十五話 ネグレクト・ホテル [文学譚]

 腹が減った。幸一の身体の中のどこかがそう思った。もう長いこと何も口に入れてないような気がする。だが、最後に口に入れたのは何だったのか、そしてそれがいつのことだったのかさえ、ぼんやりとしてわからなくなっている。そんなことを考える力さえ残されていないのだ。ただただ、何かを食べなければどうにかなってしまうのではないかという恐怖感だけが身体の芯を疼かせる。
 腹が減った。そう思ったのは、身体の中のどこかであって、幸一の頭の中ではもうそんなことさえどうでもよくなっている。空腹感というものは、ピークを過ぎてしまうと麻痺してしまうものらしい。別にこのまま床の上に横たわっているだけでいいや。そのうちママが帰ってきてなんとかするだろう。麻痺した頭の中ではそう思っている。実際、ほとんど体力が残っていない幸一には指先ひとつ動かすことさえ大儀なのだ。もうどうとでもなれ。どうなってもいい。そんな投げやりな気持ちが幸一を支配していて、眼を開けることすら面倒くさい。しかし身体の中のどこかは、死体のように横たわり続けることを許さなかった。
 ほとんど死に近い状態の幸一の脳活動とは裏腹に、指先がぴくりと動く。その動きを腕が追いかけて、いつの間にか上向けで横たわっていた身体が反転する。そのまま足が痙攣するかのように腕を追いかけ、幸一の身体はじわりじわりと床の上を這いずっていく。床の上には菓子が入っていた袋やカップラーメンの殻、サンドイッチを包んでいたビニール、ジュースの空き瓶などが散乱していて、それらの下でうごめいていた一匹の黒いゴキブリが幸一の動きに驚いて飛び出していった。じわりじわりと動く肢体は食べ物のある場所を理解しているのか、真っ直ぐに冷蔵庫に向かっていく。冷蔵庫まではわずか二メートルほどに過ぎないのだが、ドアにたどり着くまでにはたっぷりと半時間ほどを費やした。
 冷蔵庫にたどり着いた幸一の身体は、そのままそこで休息を取りたいと呻いたが、手首はそれを許さなかった。無意識に腕が飛び上がり、掌で冷蔵庫の取っ手を掴む。唐突に扉が開いて冷蔵庫の内蔵が顕になる。薄暗い室内にほんのりと浮かび上がる冷蔵庫の薄ら赤い庫内灯。だが、赤い光の中には食べ物らしい物体はなにひとつない。ただの伽藍堂だ。網膜に映し出された伽藍堂の様子は瞬時に幸一の身体全体に行き渡ったはずだが、腕は、首は、しばらく固まったまま微動だにしない。そして次の瞬間、一気にその場に崩れ落ちた。
 無駄だ。無駄。この部屋にはもはや食物など何もない。この一週間で食い尽くしてしまったから。せめて水だけでも。だがもはやそれもかなわない。どういうわけか、数日前から蛇口からは何も出てこなくなっていたのだ。水道代を誰がいつ払ったのかなど、幸一の人生の中では一度も考えたこともない。ただ水が出ないという現実があるだけだ。
 ママはどこに行ってしまったのだろう。もう帰ってこないのかな。僅かに残った幸一の思考が同じことを繰り返す。ぼくはこのまま死んでしまうのかな? 幸一の頭の中に、またぼんやりとした恐怖が生まれる。まぁいいか。もはやぼくには生きていく自身がない。長く生きすぎたかもしれない。これはその報いなのかもしれない。
 冷蔵庫に頭をもたれかけ、九の字に折れた首の続きである肢体はだらしなく床の上に転がっている。もう子供じゃない大きな身体。まさかこの歳で餓死するとは。
 四十を過ぎたばかりの幸一の身体はそのまままた意識を失っていく。街で拾った女の部屋に転がり込んで女のヒモになり、そこをホテルのように住み着いて三ヶ月目の冬だった。
                                       了
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第七百六十四話 銀行サービス [妖精譚]

 近頃の店舗サービスは、どこもここもデジタル機器による省人力化が進んでいるようだ。最も早かったのは銀行のキャッシュディスペンサーではないかと思うのだが、そのうち電車の切符売り場やパチンコ店の貸し玉サービス、最近では映画館のチケットも無人になった。
 さらに驚いたのは、銀行窓口の遠隔サービスだ。そもそも銀行のサービスは家でパソコンによって操作できるようになって久しいが、住宅ローンの相談などは、やはり銀行員と直に会って話を聞きたいと思うのだ。だから最寄りの銀行に出向いて自動の機械から整理券を受け取ってしばし待った。すると、整理券ナンバーで呼び出されて、窓口のところに座ると、受付嬢ではなくテレビモニターが私を迎え入れた。
 モニターに「受付ボタンを押してください」と書いていたので、私は人差し指でモニター上のボタンを押した。しばらくお待ちくださいというメッセージの次に、ご相談内容をお選びくださいという文言が表示され、その下にいくつかの選択肢が提示された。
 1.一般ローンのご相談
 2.住宅ローンのご相談
 3.マイカーローンのご相談
 4.学資ローンのご相談
 5.その他のご相談
 私は住宅ローンの借り換え相談をしたかったので、素直に二番を押すべきだった。だが、生来好奇心旺盛な私が押したのは、五番だった。その他のご相談とはどういうものかを知りたかったのだ。その内容がわかれば、その時点でまた引き返して二番の住宅ローンを選び直せばいいと思ったのだ。
 五番を押すと画面が変わり、新たな選択肢が提示された。
 1.資産運用のご相談ですか? その場合は隣の窓口にお移りください。
 2.資産獲得のご相談ですか? 
 うん? 運用する資産など持っていない。どちらかというと、その資産というものが得られればいい。そう思った私は迷わず二番を押す。
 1.今すぐお金が必要ですか?
 2.宝くじを購入しますか?
 なんだこれは。そういえばこの銀行は宝くじも扱っているのだった。だが、当たったことのない宝くじ丹など興味はない。一番を押してみる。
 1.お金を借入れますか? その場合は最初の画面まで戻って「一般ローン」をお選びください。
 2.お金を奪いとりますか?
 なんだこれ。奪い取るって……そんなことできるのだろうか。二番を押してみる。
 1.何か武器をお持ちですか?
 2.丸腰ですか? その場合は上着のポケットなどに手を入れて、何かを持っているフリをしてください。
 二番を押して、左手を上着のポケットに突っ込む。
 1.全員床に伏せてもらう。
 2.全員手を上げて壁に沿ってならんでもらう。
 どっちでもいいと思ったが、一番を選ぶ。すると、モニターの後ろに広がる事務所の銀行員たちが一斉にデスクを離れて床に伏せた。その後もいくつかの選択肢を選び、気がつくと私は上着のポケットに突っ込んだ手をそのまま振り上げながら、銀行事務所の中央にあったデスクの上に仁王立ちになっていた。表がいやに騒がしい。パトカーのサイレン音まで聞こえる。なんだ? 一体何が起きているのだ? 
「銀行は既に包囲されている。直ちに人質を解放して籠城をやめなさい」
 表にいる誰かが拡声器を使って叫んでいる。どうしたのだろう。人質がいるのか? どこに?誰かが籠城しているのか? 私は一瞬ここがどこだかわからなくなったが、直ぐに銀行であることを思い出した。そうか、私は人質になってしまったのか? いつの間に? 犯人はどこだ? 私は元いたモニターのところに戻って、疑問に思ったことを検索してみようと思ったのだ。だが、モニター上に提示されている選択肢は二つだった。
 1.人質を半分解放して、逃走用の車を用意してもらう。
 2.直ちに人質全員を開放して、刑務所に入る。
 け、刑務所? 誰が? 私か? 私が犯人なのか? 震える指で一番を押す。
 1.食事と熱い飲み物を用意させますか?
 2.空腹のまま我慢しますか?
 そういえば腹が減っている。一番。
 なぜ、こんなことになってしまったのか分からない。私はいつの間にか銀行強盗籠城犯人に仕立て上げられてしまったらしい。いざとなったら最初の画面に戻って選び直せばいいと思っていた。だが、モニター画面には戻るというボタンはどこにもないのだ。私は一方通行の選択を続けてしまったらしい。ええい、ままよ。わけが分からないままとはいえども、自分で選んだのには違いない。このまま取れる金を奪って……いや、獲得して、人質と呼ばれている中の誰かを盾に逃げてやろう。きっとなんとかなる。いや、なんとかせねば。これは私がしでかしたことではない。銀行に仕立て上げられたのだ。そうならまんまとその手中に入って、役割を演じ遂げてやろうではないか。
 私は再び事務所中央のデスクの上に立った。床に伏せた銀行員が上目遣いにこちらを見ている。もう少し驚かしてやらないとな。
「金をよこせ! 一億、いや、三億だ!」
 ポケットに入れた左手を振り上げてできる限りの大声で吠えてみせた。
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第七百六十三話 嘘つき [文学譚]

 ほんとうに嘘付きだわ。由布子は思った。小さな嘘なら眼を瞑ってきたけれども、このところ、嘘はどんどん大きく激しくなっているような気がする。最初の頃はどこかの島に旅行に行った時に見た幽霊の話だとか、ライブハウスで学生時代の後輩に会ったとか、どっちでもいいような話だった。ところが最近では雪山で親友を死なせたとか、不倫相手が実は既に死んでいたとか、終いには人間そっくりのロボットに恋をしただの、ゾンビみたいな人と戦った経験があるだとか、ほとんど妄想みたいな嘘をつくようになった。もしかして、何か悪い病気にでも罹ったのかもしれない。最近よく聞く若年性アルツハイマーみたいな。そうだとしたら、早く病院に連れていかねば。
 そのとき、ドアが開いて夫が帰ってきた。また何か買ってきている。両手にガサガサと音がするスーパーのビニル袋を下げているのだ。
「今日は美味いものを作ってやる」
 機嫌よく話しかけてくる夫に私は愛想笑いで返した。またそうやって何かを誤魔化そうとする。今日は一体、何をしてきたのだろう。繁華街の怪し気な店で遊んできた? それとも私のあずかり知らないどこぞの女といい思いをしてきた? 夫が機嫌よく帰ってきて、私に何か美味いものをという時は、たいてい新しい嘘を私に聞かせようという魂胆のある時なのだ。それがわかっているから私は心から歓迎できないのだ。その新たな嘘に対して、どうしろというのだ。黙って話を聞いて、それからよかったねと言えばいいのか? あるいはさっき気がついた事を口に出せばいいのか? あなた、脳がおかしくなっているのではないかと。だけどたぶん、私はいつものように、黙って頷くしかできないんだろうなぁ。
 夫が作った夕食は、珍しく中華料理だった。鱶鰭スープ、青梗菜炒め、八宝菜、酢豚、天津飯。どれも美味しく、いつの間にこんな技を手に入れたのだろうかと思った。そして食べ終わった頃、案の定、夫は鞄の中から紙束を取り出して言った。
「新作だよ。読んでみて」
 やはり夫の嘘が綴られた分厚いプリントだ。なんでまた自分の嘘をこんな風に文章にして私に読ませるのだろう。思いついた嘘など、紙に書かなくても、たまになら聞いてあげるのに。表紙にはタイトルまで書いてある。
「問題、ありますか?」
 問題ありますか、だって? なんてタイトル。問題大ありだわ。私たちにとって。あなたは現実の問題を素人もしないで、そういう嘘話の中で、虚構の中で問題を探しているの?
「読んだらまた、少しでいいから感想聞かせてくれるかな?」
 夫はニコニコしながら言う。私は夫のにやけた顔を見ながら、どうしてやろうと思うのだが、どうしようもなく、黙って頷く。いったい、いつまでこんなことを続けるのだろうと思いながら。夫は食べ終わった食器を引いていく。それから細長いテーブルをどかす。私はそのまま後ろに倒れて枕に頭を沈める。手には夫に渡された白い紙束。夫は私が横たわるベッドの周囲を整え、静かに布団をかけてくれる。嘘さえつかなければ、とても優しい、いい夫なのに。私は横になったまま表紙をめくって、二枚目を読みはじめる。夫が嘘を書き綴った分厚い紙の最初の頁を。こうしてまた私は夫の嘘に毒されていく。ベッドの中に埋もれたままで。そうして人生が過ぎていくのだ。
                                   了
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第七百六十二話 井戸 [文学譚]

 そういう学校があるということは以前から聞いていたが、重い尻を持ち上げてそこに出かけて行ったのは一年前だ。とにかくどんな風なのか体験しにいったのだが、その時点で、まぁ一度そこで学んでみるのもいいだろうと決めてかかっていた。
 学校といっても義務教育とは違って老若男女さまざまな世代が集まっている。それにカルチャーセンターみたいなところとも違って、先生が教えてくれるわけでもない。学校に集まってきた者がそれぞれに努力をしてきて、学校で努力の成果を披露してみせる。同窓の仲間たちが、その成果を見ていろいろと意見や感想を述べ、披露した本人は仲間の言葉に学びを求め、自己研鑽を積み重ねる。そういうシステムなのだ。
 その最初のフォームがなってない。まったくド素人みたいだな。厳しい意見も投げられる。ああ、惜しいと思うよ、もう少し。なかなか完成度は高いんだけれども、まだ届かないね。そこそこ技術の高い者に対してはそれなりに褒め言葉も投げかけられる。だが、いちばんわかっているのは披露した本人であるはずだし、そうでなければならないと思う。
 同じ目的に向かっている者同士だとはいえ、果たして素人同士で意見を交わして何か意味があるのだろうか? 参加している一人に聞いてみたことがある。すると彼は、それは自分自身の問題だと思う、と答えた。他人から見ると、自分だけではわからなかったことが見えてくる。誰かの言葉を信じてもいいが、鵜呑みにする必要もない。そこから何かを学ぶか学ばないか、それは自分自身で決めることだ。だけど私はちゃんと技術を持ったプロフェッショナルにコーチされたい。そうでなければ意味がないと思う。どんなやり方が成功するか、そんなことは誰にも分からない。だが、プロフェッショナルなら技術の良し悪しくらいは判断できるはずだ。あとは自分自身の努力。他者の技を見ている暇があったら、自己研鑽を重ねたほうがいい。他者の言葉に影響されるくらいなら、ひたすら自分自身の心の声に耳を傾けたほうがいい。
 ジャンプ! ジャンプ! またジャンプ!
 代わる代わる高みに向かってジャンプする。出口はかなり高いところにある。あそこを出た者は数少ない。一度出て行った者は、もうここには帰ってこない。帰ってくる必要がないから。どのようにジャンプすればいいのか、どういうフォームで飛べばいいのか。踏み出すタイミングは? 腕の動かし方は? 声を上げたほうがいいのか悪いのか。息の吸い方、呼吸の仕方はどうか。飛んでいる間に何か動きを足すべきなのか。空中で行うべき技があるのか。
 あるとき、仲間の一人が一瞬だけど出口のあたりまで飛び上がって、外の世界を少しだけ垣間見たという。だけど彼はまだ飛び出せてはいない。次にジャンプするときには飛び出していくのかもしれないが。
 学校の披露会が終わると、みんなで飯を食いに行く。その席で最もらしい意見を言う者、ジャンプに関する受け売り情報を披露する者、酒を飲んでひとり盛り上がる者、それぞれの姿があるが、おおむね言えるのは、ジャンプしきれない者同士の傷の舐め合いだ。惜しかった。もう少し。きっと大丈夫。次回はまたジャンプできる。そして自己顕示。次は僕が飛び出す番だ。もうかなりのところまでできる自信がある。間違いなく次にはできる。そして自己嫌悪。ああ、やはり無理かもしれない。もう才能が……
 今日、私は飯に行かなかった。みんなが去ったあとも教室に残って頭上を眺めている。かなり上まで続く苔だらけの壁が私を取り囲んでいる。頭上に空が見える。空を丸く見せているあそこが出口だ。あそこまでジャンプしさえすれば外に出られる。外に出ることができれば、新たな世界が待っている。あそこまでジャンプするには、ジャンプするには……とにかく挑戦し続けるしかない。やり遂げる日が来るまで。あの出口を出たところで、きっとまた次のジャンプが求められるに違いない。井戸。そう、外の世界でここは井戸って呼ばれているらしい。井戸の中から飛び出すためにジャンプする。私は誰? 私は何?
 丸く切り取られた空にうっすらとした雲が流れていく。その向こうに見え隠れしているのは、きっと月と呼ばれているものだ。外に出ればあの輝きのすべてが見える。いまはほんの切れ端が見えるだけだけど。その切れ端をもう少し見たいと思って両足を踏ん張る。ゲロっつ。思わず声が出る。踏ん張って踏ん張って、できる限りの力を込めて高みに向かってジャンプした。
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第七百六十一話 神様が降りてくる瞬間 [怪奇譚]

 よく言うじゃないか、芸術家だとか演劇の俳優なんかのインタビューとかで。「芸術の神様が降りてくる」って。そうそう落語家やお笑い芸人も言うね。彼らの場合は「笑いの神様が降りてくる」って。俺、あれって本当だと思うんだ。才能に満ち溢れた芸術家でさえ、だぜ。努力? そんなもの意味がないんだよ。国際大会のアスリートが、一生懸命頑張りましたけど、ダメでしたとか、国際コンクールに出たアーティストが、精一杯やりましたけど、無理でしたって。そういうのは、その、神様が降りてこなかったからなんだな。努力だけではダメなんだよ。逆に言えば、努力なんてしなくても、神様さえ降りてきてくれればなんとかなるってことなんだよ。
「またそれ? あんたは額に汗するのが嫌だから、そんなヘコ理屈をこね回すのよ」
 そばで聞いていたカミさんが言った。またって……またって、それ……。大事なことだから何度も言うんじゃないかよ。
「あなたはね、そうやって賢こぶっているけど、バカじゃない? 自分に才能がないことをそうやって正当化してるだけ。ロクに努力もせずに、”神様が降りてくる、神よー! 降りてきてぇ~!”そんなこと言っている暇があったら仕事を探しに行けば?」
 なんだよそれ。仕事は探してるじゃねーかよ。探し当てても相手が雇ってくれないんだからよ、仕方がねーから小説家にでもなって稼ごうと努力しているのに、なんだよ、その言い方は。
「何よ。あんたみたいなアホが小説家になんてなれるわけないでしょ? それにあの頭がおかしい人が書いたような作文はなんなの? あんなものが売れると思う?」
 売れる? 売れるって? 俺はそんなことのために書いてない。文学賞を取って、その結果として売れるカッもしれないけれど。芸術家の志は金じゃないぜ。
「ああら。あんた芸術家なんだ。ゲージツ家! へっ。ゲージツじゃなくて、下の術、下術じゃないの? ばーか」
 おいっ! お前!
「お前、何よ。私の稼ぎで食ってるくせに。そういうの、ヒモって言うのよ。ゲージツだの神様だの言ってる暇があったら、一円でもいいから稼いできたらどうなの。しっかりしろや」
 カミさんはそう言うとベッドの中に潜り込んでしまった。しばらくすると寝息が聞こえた。カミさんの寝息を聞きながら、カミさんの言葉を反芻していた。毎日のように言われる。まるで言葉の暴力だ。お金。生活。稼げ。ろくでなし。ヒモ。ぐうたら。能なし。食わせてやってる。居候。バカ。アホ。頭がおかしい。たしかにカミさんが言ってることは正しいのかもしれないが……繰り返しているうちに、だんだん腹が立ってくる。毎度のことだ。なんでそこまで。女のあいつにそこまで言われなくちゃいけないんだ? 言ってるじゃないか。俺の才能だとか努力とか、そんなんじゃないって。神様が降りて来さえすれば……そうすれば……。
 やがて神様が降りてきた。俺は寝息をかいているあいつのそばに近寄り、黙って両腕を伸ばす。そうだ。そうすればいい。神様が囁く。俺の両腕は静かにカミさんの首を包み込んで力を込めて締め上げていった。
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第七百六十話 契約 [妖精譚]

  長い間使ってきた光回線を解約しようと思いついたのは先月のこと だ。光回線について、いまさら説明する必要もないかもしれないが、一応言っておくと、高速インターネット回線のことだ。昔は電話回線を提供していた事業者 が、いまはインターネットのための回線を提供しているというわけだ。
  当初は、電話回線をそのまま使用していたのだが、ISDNとかいう立 派な名称の割には、インターネットサイトを一枚見るだけでもすごく時間がかかった。それが今度はADSLという名前のものに変わって、少しだけ早くなった かなと思う間もなく、電話回線ではなく新たに光ファイバーとかいう太い電線か何かを使った光ブロードバンドというものが現れた。これは少し高額だったの で、すぐには普及しなかったが、いまやほとんどの人が当たり前のように光回線を利用するようになっている。私もそんな一人で、かれこれ十年近く光回線を 使ってインターネットにつないでいた。光回線が出た頃には高すぎると躊躇していたのに、いまは当たり前のようにその額を支払っているからおかしなものだ。 もっとも普及とともに少しだけ利用料金は下がってきたようではあるが。
  それにしても、このところのデフレのせいなのか、給料が下がり、景 気が悪いままの世の中で、貯蓄を食いつぶす日々が続いているのに、どうしたら改善できるのかなんて考えようともしなかった。考えても無駄だと思い込んでい たからだ。だが、家計の見直しを説いた小さな新聞記事の中に、本当に光が必要なのかということにふれられているのを見て、つい自分を振り返ってしまったの だ。懐の見直しをしなければ。
  光回線を契約している事業者MTTに電話をして、考えていることを相談してみた。つまり、もう光をやめてス マートホンに使っているモバイルWi-Fiだけでまかなうと何かトラブルが起きるかどうかを訊ねてみたのだ。すると、向こうの電話口で女性担当者が、非常 に残念そうな声ではあったが親切に対応してくれ、おかげで光回線の停止に踏み切る決意ができた。モバイルWi-Fiというのは、この三年ほどで急速に大刀 してきた新たな通信方法で、携帯電話のように、無線の電波でインターネットが利用できるというものだ。私はすでに三年前からこのモバイルWi-Fiを使っ ていて、どうも家の光とこのモバイルWi-Fiがダブっているような気もしていたのだ。
  光回線を止める。すると約五千円ほどが家計の中に 浮くことになる。これは大きいではないか。私はなんだかすっきりした気分で電話を切ろうとしたが、担当女性が最後に名残惜しそうに言うのだ。「また光回線 が必要になって、再加入するときには、今度は初期費用が丸ままかかってしまいます。そこで、一時中止状態にして回線はそのまま契約状態にしておかれる方も いらっしゃいます」それはどういうことなのか、お金はかからないのかと問うと、いえ、回線料は同じだけかかります。プロバイダー費用の千円ほどが亡くなる だけですねという答えに、なんだそんなのもったいないから、やはり解約しますと告げて、ついに電話を切った。
 とはいうものの、本当に大丈夫なのかな。長年使ってきたものを切るというのはとても不安なものだ。本当にWi-Fiだけで困らないのだろうか。いやいや、月五千円は大きいぞ。これでいいのだ。そう自問していると、電話が鳴った。
「もしもし、先ほどのMTTの担当、伯間ですが。ちょっと改めましてご提案があるのですが」
  伯間女史は言うのだ。実はMTTとは無関係なのだが、光回線に代わるもっとお得な回線を紹介できると。それは、IKARI回線と言って、ただ同然で利用で きるという。なんだそれ。もっと早く言ってよと言うと、いえ、MTTの回線ではないので、いまこうして個人的に電話をしてきたのだという。しかし、ただだ なんて、ちょっとおかしいのでは? いえ、ただではございません。ただ同然と申し上げたのです。ただ同然とはどういうことなのかと問うと、IKARI回線 の名前の通り、”怒り”でお支払いいただければよろしいのですと言う。
「怒りで支払う? それはいったい……?」
「お わかり にくいかと思いますが、人間の怒りは想像もつかないほどのエネルギーに満ちているのです。その人間の怒りエネルギーを糧とする者がこの世には存在するので す。人間が怒りを爆発させたとき、たいていそれらはその方にエネルギーを提供されることを目的にそうなっているのです」
「ははぁ、欲はわからないけれども、怒りのエネルギーっていうのはなんとなくわかる気がする。じゃぁ、たとえば私が怒りを発散させることによって、その回線がただみたいにして使えるというわけなんですね」
「その通りです」
「で、その怒りというのは、たとえば電車の中で足を踏まれたとか、自動販売機に入れようとした百円玉が指をすり抜けて足下の溝の中に落ちてしまって腹が立ったとか、そういうことでいいのでしょうか?」
「まぁ、おおむねそういうことですが、そのような小さなことではなかなか支払いには追いつきませんね。もっとエネルギーが出そうな、あるいは大きな怒りでないと……」
「エネルギーが出そうな、大きな怒り……?」
「そうです。たとえば……インターネットで誰かにブロックされて腹を立てるとか、あ、逆に誰かを怒らせてもいいのですよ。それも支払いの対象です。大きな怒りといえば……」
「政治家のやり口に腹を立てるとか、あ、そうそう隣国の核実験に怒るとか、他国から飛んできて降り注ぐ毒成分に怒るとか……?」
「あ、そうそう、そんな感じです」
「ところでIKARI回線っておっしゃいましたっけ。それってHIKARIと似てますよね」
「気がつきましたか。そうです。HIKARIから頭文字の”H”が取れているのです。”H”とは……」
「”H”とは?」
「HumanのHですね」
「ヒューマンのH、なるほど。つまり人間性を外すとIKARIになるのですか」
「理解が早いですね」
「ところで、担当いただいているあなたの名前は、確か……」
「伯間です」
「伯間さん……HAKUMA……それってもしや……」
「もしや、なんです?」
「頭文字から”H”を取ったら……」
「うふふ、本当に理解が早いのですね、お客様」
                       了
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第七百五十九話 ダイエット・ランナー [文学譚]

 最初はダイエットのために走りはじめたと言った。それで効果はあったのかと聞くと、体重は落ちたと答えた。
「へぇ、そうなんですか。で、どのくらい?」
「そうですね、走っていなかったときに比べて二キロは落ちたかな」
 たったの二キロ。そんなに毎日走っているのに、たった二キロだって? わたしは驚いて聞き返したが、そうだ、二キロ減ったと言う。あたしも最近体重の増加が気になっているので、毎日ジョギングでもはじめようかと思っていたのだが、二キロしか落ちないと聞いて、意欲が半減した。
「で、毎日走ってるそうですけれど、走らない日はないのですか?」
「それが、雨の日とか、どうしても走れないときはあります」
「走らないと、何か影響がでますか?」
「ええ、もちろん。一日走らないだけで、あっという間に体重が増えてしまいます」
「リバウンドですか?」
「うーん、こういうのをリバウンドっていうのかどうかはわからないけれど、一日走らないと五キロは増えてしまいますね」
「ご、五キロ? 二キロ戻るんじゃなくて?」
「そうなんですよ。もとに戻るのならともかく、一日休めば五キロ。二日休んでしまうと8キロは増えてしまいますね」
 なんなんだそれは。おかしいじゃないか。ダイエットのために走って、たった二キロ減らせて、走るのを止めたら五キロも増えちゃうなんて。いったいどういうことなんだ?
「どうやら、もう長いこと走り続けているから、そういう体質になってしまってるんですね。わたしにも詳しくはわからないんですけれど」
 男はこうして話している間も足踏みを止めない。わたしの前でタッタッタッタと細かく足を動かしているのだ。
「それ、そうやって続けていた方がいいんですか? こうして話しているときでも」
「あのですね、これ、止まってしまうとその時点から体重が増えていくんですよ。だってそうでしょ? 一日で五キロ増えることを考えればそうですよね。私は走るのを止めたら刻一刻と体重が増えていくんですよ。困ったもんだ」
 男はもうずーっと走り続けているという。食事をするときも、仕事をしているときも。眠っているときでさえ足を動かし続けているという。そんな馬鹿なと思ったが、男は嘘をついているとは思えないほど真剣な表情でそう言った。
「もういまは、こうして立ち止まって足踏みをしているよりも、走っていた方が、その、つまり動いていた方がずっと楽なんです。そういう身体になってしまった。ダイエットってそういうものらしいですよ」
 男はそういって入り去った。
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第七百五十八話 幸せの赤い木の実 [文学譚]


「どっちがいいかの?」

 目の前の老人がそう訊ねた。老人の掌には、右に赤い木の実、左に黒い木の実が乗っている。

「さぁ、あんた、この赤い木の実を選ぶかな?」

 老人は右手に持った赤い木の実を目の前に差し出しながら言った。

「そ、その赤いのは、なんなのです?」

「むふふ、これは、幸せの赤い木の実じゃ」

「幸せの……? 赤い木の実?」

「そうじゃ、幸せの赤い木の実じゃ」

「それは……どういうことなのです?」

 訊ねると、老人はもったいぶった調子でゆっくりと話しはじめた。赤い木の実は南のとある島で見つけた果実で、これを食べた者は、必ず幸せになれるという。では、左手に持った黒い木の実は何なのかと訊ねると、やはりもったいぶったゆっくりとした口調で答えた。

「これはの……赤い方が、幸せの木の実じゃ」

「それはもう、伺いました。そっちの黒い木の実は、どういった……?」

「そう、これは幸せになれる赤い木の実じゃ」

 いやだからそうではなくて、黒い木の実は何なのですか、いやこの赤い木の実は、だからその黒い方のことを聞いているのです。こんなやりとりを何度か繰り返しているうちに、爺さん、惚けてるのではないのかと思いはじめたころ、ようやく老人の言葉が変わった。

「お主、こっちの黒い木の実に興味がおありか。わしはどうかと思うがの。教えてやろう。この黒い木の実はな、哲学の木の実と言われていおる」

「哲学の木の実……

「そうじゃ。哲学の黒い木の実じゃ」

「で、それは幸せになれるのですか?」

「いや、これは決して幸せにはなれない」

「幸せになれない? どうして?」

「どうしてかと、お主は聞いておるのじゃな? だからわしは言いたくなかったのじゃ」

「そういうわけでしたか」

「そうじゃ。黒い木の実を食すると、妙に賢くなるんじゃ。人間賢くなるとな、いろいろ考えはじめる。どうして自分はここにいるのかとか、人間は何故生まれてきたのかとか、人間の存在理由は何かとか……

「なるほど、それこそ、哲学に向かうわけですね」

「その通りじゃ。だからこの木の実は哲学の木の実と呼ばれておる」

「哲学を考えるようになったら、幸せにはなれませんか?」

「なにしろ、哲学には答えがないからのう。そんなもの、誰がいくら考えても、無駄じゃろう。違うかな?」

「さぁ……それはなんとも……

「では、この哲学の木の実を食してみられるかな?」

「そ、それは……どうでしょう。本当に幸せにはなれませんか?」

「わしはそう思うぞ。下手に哲学に踏み出すよりは、こっちの赤い木の実を食した方が良いと思うぞ。わしはいままで同じことを何度も何度も口にした」

「なるほど。では、赤い木の実を食べると、幸せになれるというのは、どういう理由からなのでしょうか?」

「それは……わしは言えん。それを言うと、幸せにはなれなくなるからのう」

「幸せになれなくなる? どうして」

「もう、答えることは何もない。まぁ、ひとつ教えてやるが、黒い木の実は賢くなって哲学者になってしまう、だから幸せにはなれないのじゃ。だとすると、こっちの幸せの赤い木の実は……わかるじゃろ?」

 わたしは、老人の手から赤い木の実を受け取り、口に入れた。すると、幸せがやってきた。

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第七百五十七話 充電時間 [文学譚]

 もう電池が三十%以下になっている! どうして? 今日は朝から一本も通話をしていないのに。
 携帯電話というものが普及してまだ二十年にもならない。なのに今や携帯電話を持たない人間を見たことがない。小さな子供ですら携帯電話をバッグに入れている世の中だ。私自身もそんなひとりで、この十数年というもの、常に携帯電話を持ち歩いている。会社に行けば会社の、家には家の電話があるというのにだ。誰かと通話する、あるいはメールでやりとりをする。その大半が手持ちの携帯電話で行っている。だから携帯電話を持ち忘れたりなどすれば、落ち着かないことこの上ない。
 それほど四六時中肌身離さない携帯電話なのだが、この便利な道具には大きな弱点があるのだ。それは、電池が消費されていくということだ。特に使わない日でも、夕方になるときちんと電池が減っているのだ。ちょっと前の型なら、一週間くらいほおっておいても電池が切れてしまうことはなかったのに、最新型のスマートホンという名の端末に変えてから、毎日のように充電をしてやらないと、すぐに電池がなくなってしまうのだ。これはどうしたことなのかと思うが、そういう仕組みになっているのだから仕方がない。通話を長くしたりなどすると、あっという間に電池を消耗してしまう。だが、それは端末を仕様したのだから仕方がないと思う。だが、使ってもいないのに消費してしまうとはどういうことかと思うのだが。
 電池が少なくなった携帯電話をコンセントにつなぎながら、ふと思った。そうか、これは人間と同じなんだと。つまり、人間は動き回ると腹が減って、エネルギーに換わる食べ物を入れてやらないと動けなくなってしまうのだが、じっと静かに横たわって何もしていなくても、やはり腹が減って食事を摂ることになる。つまり、通話をしなかった携帯電話と同じことだ。なんだ、自分と同じじゃないか。そう思うと急にただの道具でしかなかった携帯電話が愛しく思えてきた。そうかそうか、腹が減ったか。じゃぁ、充電してやらないとな。
 しばらくすると携帯電話の充電状態は少しずつ増えているのがディスプレイに現れている。それを眺めながらぼんやりと思う。なんだか私も空腹になってきた。おっと、充電が切れてきたようだな。ひとりごちながら私はベルトを少し緩めて、尻の真ん中に収納しているコードを取り出して、携帯電話をつないでいるコンセントの横の差込に繋ぐ。おおー、満たされていく、と安堵しながら。
                                    了
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第七百五十六話 かくことがない [文学譚]

  毎日文章を書いていると、遂にネタ切れ感を感じて筆(実際にはキーボードだが)が止まってしまうことがある。パソコンを開いたままうーんうーんと考えてい ても何も出てこないものだから、席を離れて部屋の中をぶらぶらあるいてみたり、トイレに行ってみたりして、頭の中を切り替える。するとあるとき、ぽっと頭 の中にひらめく瞬間がある。あ、これなら何か書ける! そう思って慌ててパソコンの前に戻るのだが、運悪くそのタイミングで電話がかかってきたり、誰かに 声をかけられたり、意識をそらされる何かが起きたりするものなのだ。だが、素晴らしいひらめきは、何が起きても頭の中に残っているはず、そう信じているの に、改めてキーボードに指を乗せてみると、先ほどひらめいたモノは、きれいさっぱりと消え去ってしまっているのだ。そしてまた、思考は暗闇の中に。
  こんなことを繰り返しているうちに、あることを思い出してしまった。小学一年生だった私の姿だ。小さな机が並ぶ教室の中で、全員が作文用紙を配られて一生 懸命に鉛筆を動かしている。私は真ん中より少し後ろの席で、鉛筆を持ったままじーっと白いままの作文用紙を見つめている。何を書けばいいのか。どう書けば いいのか。そもそも書くことなんかあるのか。たぶんそんなことをぐるぐると思っていたに違いない。先生が近づいてきて何かを言ったかもしれない。私は小学 一年生の授業時間といえば四十分くらいだったと思うが、そのほとんどを紙を見つめたまま過ごし、最後の数分間で、なんとかタイトルと数行の本文を書いたよ うな気がする。そのときのタイトルを鮮明に覚えているが、それは「かくことがない」だった。まだ漢字も知らないので、「書くこと」とは書けなかったはず だ。
  数日後、父兄懇談があったのだか、わざわざ呼び出されたのだか忘れたけれども、先生は私の母親に、その作文の授業のことを話した。そしてその日のうちに母 は私に日記帳となるノートを買い与え、それから毎日日記をつけるようになった。先生の提案で、私の作文能力を高めるために、日記をつけることになったの だ。その日記は毎日先生の手にわたり、先生はそれを添削して帰り際に返してくれる。二年生になっても担任は持ち上がりだったので、日記の添削は続いた。い ま考えると偉い先生だったなぁと思う。ただひとりの生徒のために、二年間も日記添削を続けたのだから。日記の習慣は三年生の担任にも引き継がれ、持ち上が りの四年生まで続いた。さすがに五年生の担任には引き継がれなかったが、それから私は少なくとも高校までは毎日日記を書き続け、大学に入る頃に、徐々に書 く事を忘れていった。その後も思い出したように日記を書き始めたが、大抵は一週間も続かなかった。
  ふっと思い出した日記にまつわる記憶と共に、あの担任の女教師の顔が瞼に浮かぶ。古川先生。まだ元気にされているのだろうか。あの頃、まだ二十代だったろ うか。だとすると、今頃は……。きっとまだご存命のはずだ。急に会いたくなってくる。だがきっと、私は会いにいくほどのパッションを発動させないだろう。 それが私なのだ。
  こんな昔話を思い出しながら、それでもなにもいい文章ネタが思いつかない。千一話物語はまだ四分の一が残されているというのに。もう枯れ果ててしまったの だろうか。こんなとき私はどん底まで落ちぶれたような気持ちになってしまう。人に乗せられやすい性分の私は、同時に自己嫌悪にも陥りやすい。もうだめだ。 もう無理だ。もうやめよう、こんな千一話物語なんて。こんなことも継続出来ないなんて、私は最低の人間だ。生きていく価値なんてないのではないか? いや 価値のない人間だ。もう嫌。もうダメ。首をくくろう……思考だけは極端に走っていく。それは中ば妄想。
  かくことがない? そんな馬鹿な。書くことなんて、いくらでもあるはず。それが分からないというのなら、もうこの世にお別れをしなきゃ。でも……そんな覚 悟があるの? 自分で自分に問いただす。覚悟なんて……なんで急にそんな。覚悟とか……ない……なぁ……。わたしはここで、はっとする。
  あの日の私は、今日のこのことを予測したのだろうか。今日の私があの日の事を思い出すことを知っていたのだろうか。悩みに悩んだ私が死を妄想し、そして死 ぬことに対して「覚悟とかない」ことに思いいたることを。あの日、私は「かくことがない」と書いたと記憶しているが、そんなことで母親が担任から呼び出さ れるだろうか。あの日私は「覚悟とかない」と書いたのではなかったか。そしてその後に死にまつわる数行を書いたから、担任は驚いて母を呼び出したのではな いだろうか。
 母が亡くなってしまったいま、もはやこのことを確認する手立てはない。古川先生を探し出す以外には。
                                   了
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