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第五百十七話 麻酔 [日常譚]

 急に歯が痛み出した。虫歯というものはおかしなもので、昨日までは何とも

なかったのに、あるとき突然に痛みだすのはどういうわけか。口の中に残った

糖分とか酸性の物質とかが、少しずつエナメル質を溶かし、象牙質を溶かして、

歯の中に存在する神経を露出しはじめるのだと歯医者は言う。

「これは、少し削って、神経を取りましょう」

 医師はそう言って、注射器の準備をはじめた。

「少しチクッとしますからね」

 最近の注射針は、随分と細くなっていて、歯茎に突き刺してもさほどは感じ

ない。昔の針はもっと太くて、医師が無理矢理に歯茎に差し込むので、ギリギ

リギリっと音がして、その音だけでも痛みを感じたものだが、いまのはほんと

うにチクッとするだけで、その後はあまり痛みを感じない。それでも私は、針

が歯茎に刺さっているという事実を想像するだけで怖いのだ。

「いまから削りますので、痛かったら左手を上げてください」

 私は口を開けたままにしているので、喋れない。だから左手で合図をしなさ

いと言うわけなのだ。恐がりの私は、ちょっとぴくっと痛みがきただけで、左

手が勝手に上がる。それを見た医師は、わかりましたと言って、また注射針を

患部に突き刺すのだ。

 麻酔というものは不思議なものだなと思う。痛みを感じさせなくして、患部

を削ったりちぎったり掻き出したり。そんなことをされても、麻酔がきいてい

る間は、本人は平気だ。だが、もし、痛みを感じない体質なら? これはもう

麻酔なしでも平気なのだ。逆に言えば、痛みさえ感じなければ、痛い治療をさ

れても平気だ。痛みを感じているときは、それだけでもう、死んでしまうので

はないかとさえ思うのに、痛みさえ感じなければ、どんなにひどいことをされ

ても死んでしまうことはないのだ。

 実は私は痛風か神経痛か、なんだかわからない痛みが関節という関節にある。

だが、だからといって歩けないとか、死んでしまうようなことはない。ただ、

痛いのだ。ならば、この痛みさえ感じないようにすれば。

 私は歯医者から帰ってすぐにインターネットで検索して、治外法権な海外医療

ルートで麻酔薬を探し出した。こういう方法で、国内では認知されていない薬や

医師免許が必要な薬品を、素人でも入手出来る昨今だ。私が購入申し込みをした

注射器と麻酔薬一式は、一週間で到着した。

 私は早速包みを開けて、麻酔のセッティングを行った。身体の関節と言う関節、

痛いところに次々と麻酔薬を注射すると、ついさっきまできりきりと痛んでいた

節々から手品のように痛みが消えた。これからは、もう痛みに耐える必要はない。

麻酔セットを鞄に入れて持ち歩き、麻酔が切れる度に、それを関節に注射した。

 麻酔が効いているからといって、神経の中枢にまで麻痺がとどいているわけでは

ないので、歩けなくなったりはしない。表面的な痛みが消えるだけなのだ。私はこ

うして痛みから解放されることを知った。快適な一日を終える。だが、家に帰って

風呂に入るときに少し違和感を感じた。いやに簡単に衣服が脱げる。するりと脱ぎ

さったシャツの下から出てきた左肩。その先にあるはずの腕がない。

 そういえば、夕方帰り道で何かにぶつかった気がした。振り向くと、車が走り去

って行くところだった。私は痛くも何ともなかったので、そのまま帰宅したのだが、

あのとき、左手を車に持っていかれたのだ。しまった。私の左腕は、今頃あのあた

りに落ちているのだろうか。

 麻酔の力は恐ろしい。痛みがないから、自分の身体に起きているサインにすら気

がつかないのだ。明日は、もう片方の腕、あるいは脚も失ってしまうかも知れない。

                        了

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