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第九百四十九話 面倒臭い話 [日常譚]

 土曜の朝、先に目が覚めた俺が二人分の朝食を作リ終えた頃、いいタイミングで妻が起きてきた。寝ざめのよくない妻はおはようも言わない。それはいつものことだ。妻はすぐに食卓にはつかず、洗顔をしながら洗濯機を回し、身の回りを整えた。あ~あ、目玉焼きが冷めるんだけどなぁ。思うが余計なことは言わない。

 ようやく食卓の椅子に座ろうとした妻が言った。

「もう! いまから食事っていうのに、こういうのを片づけないあなたがわからないわ!」

トースターに入れた朝食パンの包み紙が、食卓の上に放り出したままになっていたのだ。だってそれは……妻はよくパンを残すので、残った場合にまた包まなきゃあと思って置いたままにしていたのだが、そんなことはどうでもいい。だけど、気持ちよく食事をしたいのに、のっけから文句を言われるのは気分が悪い。

「そんなこと……そう思うんだったら、気がついた君が片づければいいじゃないか」

 しまったと思った。これで喧嘩にでもなればまだいいのだが、たいてい妻は黙りこんでしまうのだ。自分が思ったことは口に出して人にダメだしをするくせに、人から指摘されるともう駄目だ。俺がごめんとでもいえばよかったのだが、反論したことに、それも割合正当な反論をされたことにカチンとくるらしい。これはもう毎度のことなのでいまさらどうしようもないが、今回はもっと攻めてみようととっさに考えた。

「ほーら、また黙り込んでしまう。そういうのが一番いけないんだぞ。腹が立つならそうだと口にすればいい。話をしなけりゃなにもはじまらない」

 俺がなにかを言えば言うほど妻はかたくなになって顔をそむけてしまう。

「だからさ、そういうのがダメだっていつも言ってるんだよ、ほんとバカみたいに」

 バカと言う言葉に反応した。

「バカ? なによバカって。どういうことよ」

「……バカみたいにって言ったんじゃないか」

「いーや、バカって言ったわ。なんだと思っているの。バカなんて言われて黙ってられないわ」

「ちょっとちょっと、そういう低次元なことで喧嘩はよそうよ」

「低次元?」

 妻はそれを最後にまた口を閉ざした。たいていは俺が言った言葉に過剰反応して怒る。その言葉は悪意を持って言った言葉じゃない。素直じゃないなとか、もっと勉強すればとか、良かれと思って言った言葉に腹を立てることが三分の一。残りはおよそ想像もつかないことを勝手に思い違いして怒る。たとえば壊れた機械に向かって「どうなってんだ?」と言ってしまったとき、それが自分に向けられたものと思われた。アカをバカと聞きちがえたり、聞き違いをキチガイと思いこんだり、アベノミクスを阿倍野神輿と聞きちがえたり。それでなんで怒るんだと思うまったくわけのわからない場合もあるのだ。

 いったいどうなってるんだ。どういう性格なんだ。こういうの、ほんと最低だと思うよ。喧嘩するのはいいと思うんだ。でも普通はあんたのここがいや、ここがダメと言いあって、ときには物を投げつけて、それで終わり、翌朝にはけろっと仲直りってのが夫婦ってもんじゃぁないの? うちの場合は違うな。こうなったら最後、最低でも一週間、へたすりゃ一カ月も口をきかなくなる。そりゃぁあんた、夫が折れて謝らなきゃ。そういうかもしれないけれど、話しかけても返事もしないんだから。取りつく島もないってやつ。

 特に盆正月みたいに長い時間一緒にいて、なにかを楽しんだ後にこうなることが多い。ふた月に一回、下手すればひと月に一回、こんなことになる。で、一週間からひと月口を利かないんだから・・・・・・こりゃもうほとんど黙りこくってることになるな。一年三百六十五日そのうち三百三十日くらいはこんな冷戦状態なんじゃないかな。結婚してもう十年になるけど、最初からこんな感じだったから……ということはつまり仲良くしてるのは一年のうちひと月分くらい。それが十年だから十カ月、三百日ほどになるな。

 今度こんなことになったら俺は断固言ってやる。もうこんなことは疲れる。面倒くさい。金輪際お断りだと。

 先週そう決意したばかりなのに。また今回もそこまで言えずにひたすら我慢してしまうんだなぁ、これが。

                                                了


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第九百四十八話 最後の夏休み [文学譚]

 長かった夏休みもいよいよあと二日。いいわねえ小学生は。お母さんなんか学校出て、社会人になったはじめの頃はね、なんで夏休みが五日間しかないのって、とっても不満だったわ。夏休みのない夏になかなかなじめなかったわ。あなただって大人になったらそういうことわかると思うけどね。

 それにしてもお休みはあと二日しかないっていうのに、まだ宿題が出来ていないなんて、どういうことなの? 夏休みがはじまったときにあれほど言ったのに。毎日少しづつ宿題していきなさいよ、計画立ててねって。お母さん、そう言ったはずよ。まぁ、ドリルのほうはだいたいやってるようだけど、問題はこの科学課題ね。夏休みはじまってすぐの頃、あなたは昆虫採集するっていってたけれど、上手く虫が採れなかったのね。そうよ、だいたい無理よ。だってあなたは虫が嫌いだもの。お母さんと似てるわね。わたしは嫌いっていうより、怖いんだもの、あんな足が六本もあってもぞもぞ動く生き物なんて! 気持ち悪い。足がなくっておねおね動く青虫とか、もう最悪! そうでしょ。あなたに虫採りなんて出来るはずがないっていったでしょ? もう、そこから挫折。結局なにもしないままここまで来ちゃって。今頃になって植物採集にするって? どうすんのいまから? そう言ったらあなたはいまから集めて来るって。

 最初に集めてきたのがこれね。ハコベ、ウシハコベ、ノミノツヅリ、ナズナ、タネツケバナ、ホトケノザ、ヤエムグラ、センダングサ、ハキダメギク、イノコヅチ、ヤブガラシ……もうこれだけ集めたのね。近所の裏山の方に行ったんだっけ。それでこれだけ集めて、押し花にしまがら名前を調べたんだわ。これだけあればもう充分じゃないってお母さん言ったのに、あなたはもう少し集めたいって。次の日に朝から出かけていったわ。川の方に行くって言ったっけ。野山の草花と川辺の草花って、分類するっていう考えは素敵だと思ったよ。

 だけどあなたは押し花をしかけて途中でほっぽり出して、植物採集に行ったきり。どういうつもりなの? あなたの居ない間にお母さん、ほら、ここまで仕上げてあげたけど。これでいいんでしょ? あとのはどうするつもり? 川辺の草花集めてきてもいまから押し花にして間に合うのかしら。もう二日しかないのに。いったいいつまで植物採集し続けるつもりなの?もう一週間経つわよ、あなたが川に行ってから。もう、ほんとうにいい加減なんだから。早く帰ってきて、お母さんと一緒に、ほら、ここまでできてるんだから、残りの押し花を仕上げてしまいましょうよぅ。ね、お願いだから。早く帰って……早く、早く……。

                                                  了 


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第九百四十七話 半身世紀がやって来た! [可笑譚]

 君は面白いから適任だ、代表で参加してきてくれ。課長からそういわれて異業種交流会っていう物に参加することになった。こういう知らない人が集まる集会っていうのは苦手なのに、なにを間違って適任だと思われているんだろう。案内状にある地図をたよりに会場を訪れると、ちょうどはじまろうとしているところだった。会議室程度の広さの部屋に、二十人ほどの男女が集まっている。司会者が挨拶してビールで乾杯した後、自己紹介がはじまった。

 普通のサラリーマン風の若い男、大学院の研究者、大手企業のOLなど、ごく普通の自己紹介が続いた後、私の隣に座っていた外国人らしき若い男が立ち上がった。

「ぼくはパーキンソンといいます。芸能界代表です。こう見えて日本語しか話せません。アフリカ系のハーフなんです。だからみんなぼくに英語で話しかけるんですが、ぼく、英語は全然ダメなので困るんです」

 その後もパーキンソンは小学生の頃に野球サークルに入れられたこと、英会話教室に行ったこと、実家が和食店であることなど、延々とハーフであるがために起きたトラブルの話をして座った。彼の話にみんな大爆笑で、会の雰囲気がとても和やかになった。今世紀に入って、いやその前からかもしれないが、国際結婚がどんどん増えているために、こうしたハーフが増えている。いまや五十人にひとりはハーフという時代なんだそうだ。だけど、こんなに面白い自己紹介の後だなんて、なんて運の悪いことか。私は気おくれしながら立ち上がった。

「あのう、半部たけよです。実は私もハーフなんです……」

 会場はすっかり和んでいるので野次が飛んだ。

「まさか、ニューハーフじゃないだろうね?」

「まさか……違いますよぅ。でも、さっきの、パーキンソンさんですか? ハーフって言うけど、その言い方っておかしくないですか? 私、彼みたいのはハーフ&ハーフって呼ぶべきだと思います。と言うのは……」

 私はみんなに事情を話した。私は二十年前に実験段階でとん挫してしまった政府のプロジェクト「人類1/2計画」で生まれた子供なのだ。つまり、いずれ来る食糧難に備えて人間のサイズを小さくすることによって現存する食糧を実質二倍にしようという研究の具体化段階で行われたものなのだが、生まれてきた私たち1/2人間の赤ん坊を見て、不安になった人々が大反対して実験は中止になった。

「ね、私とはじめて会うと、みんな子供扱いします。でもれっきとした大人なんです。サイズはみんなの半分ですけど……だから私、ほんとうの意味でハーフなんです」

 みんなどう対応したものかと押し黙っている。するとひとりの男が立ち上がった。

「実は、ぼくもハーフです! ほら」

 言い終わってくるりと回ってみせると、彼は右半分しかなかった。その理由を言う前に別の人が立ち上がった。

「私、半分人間、半分魚……人魚ですもの」

「ぼくもだ……頭が魚だけど」

「俺なんて、下半身は馬だぜ」

 やれやれ、なんて時代になったんだ。

                                                  了


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第九百四十六話 人生蝉しぐれ [文学譚]

 命は儚く、人生は夢のように短いとは、誰が言ったのかわからないけれども、近頃になってそうでもないような気がしている。赤ん坊だった頃のことは皆目おぼえていないけれども、幼かった頃、確かに一日は無限のごとく長いような気がした。まだまったく一人前ではない幼生の身体で、穴倉に閉じ込められたような生活がいったいいつまで続くのだろうか、大人になれる日はほんとうにくるのだろうかと、まるで永遠に子供であり続けるのではないかと思ったこともあった。夜明けから日暮れまで遊び戯れる時間は終わることがないのではないかと思えたし、こんな長い一日をなんど数えたらいいのかと心配にさえなった。

 しかしいま思えばあの子供のころの記憶はまるでトンネルの中で眠っていたかのように遥かな思い出にしか過ぎず、ほんとうにそんな永遠の時間を生きてきたのかと信じられないくらい薄れはじめている。そう、過去の記憶というものは鮮明いおぼえている部分もあるけれども、忘れ去ってしまった時間の方が圧倒的に多い。この失われた時間はほんとうに土の中で生きてきたのではないかと思えるほど闇の中でぼんやりと暮らした記憶に変わってしまっていて、自分でもそれがほんとうに生きた時間なのか、それともずっと眠っていたのではないか、あの日々は眠っている間に見ていた夢なのではないかなどと訝ってしまう。一方鮮明に覚えている記憶だけを集めてみると、さほど大量な時間にはならず、その結果、なんと短い人生なんだろうと勘違いしてしまいそうになるのだ。けれども、実際のところは長い長い時間を生きてきたはずなのだ。

 しかし比較的最近のこととなると話は違う。長い暗黒時代を乗り越えた後にようやく陽のあたる場所に出ることができたそのときから後のことはしっかりとおぼえている。ある時期に私は地上に這い上がってまさに一皮剥けて世間に声を発し続けた。それは周囲からは人生の終盤になって命のエキスをすべて吐き出そうとしているように見えたことだろう。この世に生を受けてはじめて表舞台に立つことができた喜びで私は歌い続け吠え続けた。しかしその華やかな人生は穴倉の生活に比べるとほんとうに短すぎる。あっという間に精魂尽き果てていま最後の時間を終えようとしているのだ。

 小さな頭脳を生涯の記憶が交錯する。そこではじめて長かった闇の時代を微かに思い出しては、そういえば長い時間を暗いところで過ごしてきたのだなぁと実感する。短か過ぎると思った人生は、陽の光の下の人生だけだ。その前にはうんと長い時間が流れていたことにようやく気付く。みんみんとまだ元気に歌い続けている仲間の声を聞きながら、あまりにも長かった私の人生が夏とともに終わろうとしているのだ。

                                                                                           了


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第九百四十五話 大阪のおばちゃん [文学譚]

「はい、四百十万円」

 俺は黙って金を払う。そういえば、このおばちゃんは前からこんなことを言ってたなぁ。急に昔のことが懐かしく思い出される。

 おばちゃんがやっているたばこ屋は、以前は駄菓子なども売っていて、俺たち近所のガキどもは格好の顧客だった。学校帰り毎日のように立ち寄っては長い時間をかけて菓子を物色し、その日のお楽しみを手に入れるのだ。お金を払う段になって決まっておばちゃんは大阪ならではの言い方をする。

 もはや全国的にも有名な話だが、大阪のおばちゃんはお金を請求するときにどんなものでも万円という言葉を付け足す。

 飴玉かい、ほな十万円。

 アイスキャンデイね、五十万円。

 チョコレートかえ? 贅沢やな、百万円。

 はじめて言われた東京人なんかはびっくりしてしまうかもしれないが、これが普通の言い方なのだ。馬鹿げているけれども、慣れてしまうとン万円と言われないと気持ちが悪くさえなってしまう。

 では本当に万単位の品物の場合はいったいなんと言うのだろう。百万円の車とか、セーブルの毛皮とか。百万万円とでも言うのだろうか。しかし心配には及ばない。このおばちゃんの店でそのような高額な品物を扱うことは金輪際ないのだから。

 ところが、ところがだ。おばちゃんもあんな年寄りになってしまってから困難にぶつかろうとは思ってもみなかったに違いない。長期に渡る経済低迷に続く円高とデフレ。そして二千十三年にはじまった新体制内閣が打ち出した経済対策か功を奏してすべての経済が正常化に向かうと考えられたが、どこをどう間違ったのか、円は急速に価値を下げ、あっという間に超インフレとなってしまった。こうなるとデノミ政策しかないのではというのが現状らしい。なんせいまや十円だったものが十万円、百円だったものが百万円、つまり一万円札は昔の一円の価値しかないという事態に陥ってしまったのだ。

「はい、ライター百万円」

 おばちゃんは昔と変わらぬ軽さでお金を要求する。そう、なにも変わっていないのだ。むしろおばちゃんは時代を先取りしていたと自慢に思っているのではないかと思えるほど自信満々のにこやかさで百万円と告げてくるのだ。「百万円でおま」

                                                了


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第九百四十四話 ふたり [脳内譚]

 私たちはいつも一緒だった。同じ音楽を聴き、同じ風景を眺め、同じ人と会い、同じ学校へ通った。たいていは双子みたいに同じように感じ、同じようなことを考えたが、しばしば対立することもあった。まるで反対の行動をとろうとするのだ。私が左手を上げるとあっちは右手を上げる。右に行こうとすると、左に行こうとする。それならお互いにそのように好きにすればいいのだが、あまりにも寄り添いすぎている私たちは混乱し、足をもつれさせてしまう。そんなときは口に出して文句を言う。考えているだけでは相手にわからないからだ。それでも私は口に出すのを我慢することが多かったが、向こうはイラついてすぐに口にした。我慢することを知らないのだ。こんなところにも性格の違いが出るのだろう。

「ちょっともう、いい加減にしてよ」

 いい加減にしてはお互い様なのに、まるで自分だけが正しいかのように言うのだ。まるでわたしが悪いように言われると我慢していた私もさすがに腹が立つ。腹が立つから、いい加減にしてとはこっちが言いたいわと思うのだが、それを口にすると喧嘩になってしまうのは目に見えているので口をつむぐ。黙ってしまうにだ。そうなるともうなにも言えなくなってしまう。私が黙ると、相手も黙る。さっきまであんなに仲良くしていたはずなのに、もはや一言も言葉を発しない。

 一緒にいるのに相手を無視し続けるというのは案外しんどいものだよ。そこにいるのにいないように振る舞うのだから。たとえば私が食事の用意をしても、食べようとしないから困る。ひとりでは食べにくいもの。逆にあっちが用意するときはさっさと自分の分だけ作って食べてしまうから腹が立つ。こんな風に食事ひとつとっても喧嘩をしていては生きにくいのだ。一週間、二週間と黙り込んだまま過ごすのだが、あまりの過ごしにくさにどちらともなく音を上げてようやく元に戻ろうとする。ごめんねなんて絶対に言わない。だってどっちも意地っ張りだから。

 いつからそんなことになったのかというと、たぶん生まれつきとしか言いようがない。特に事故に遭ったとか病気になったとかいうことはないからだ。病気じゃないから医師に相談したこともないが、図書館で調べてわかったことがある。たぶんそういうことなのだろうなと憶測しているに過ぎないのだが。

 人間の脳は右と左に別れていて、それぞれは左半身、右半身と対応している。右脳と左脳は普通、脳梁と呼ばれる神経束で結ばれているが、なんらかの原因でこの脳梁が分断されてしまうと、右脳と左脳はあたかも別人格として機能しはじめる。実際に事故で脳梁を切断されてされてしまった人間が片目を塞いでしばらく過ごしたあと、塞ぐ目を反対側に変えると、その間に出会った人のことがわからないという実験は有名だ。

 ひとつの身体を分断された右脳と左脳が共有している、私たちはふたごでも姉妹でもなく、ひとりの中のふたりなのだ。

                                         了


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第九百四十三話 ねじれた噂 [文学譚]

 夏休みが開けて新学期がはじまるとすぐに妙な噂が流れはじめた。女子ばかりの高校だからか噂が広まるのは思いのほか早く、気づいたときには全校生ばかりか職員室の中にまで広まっていて知らないのは本人だけという恐ろしい状況になっていた。話を教えてくれたのは親友の恵子でもクラス委員の山本さんでもなく、密かに憧れている年若い担任教師だった。生徒指導室の重苦しい空気の中で教師が静かに息を吸い込んだあと校内に広がっている噂を知っているかと問うので、知らないと答えると夏休みの繁華街で中年男性と仲良さそうに腕を組んで歩いている君の姿を見かけた生徒がいるのだ、憶測が憶測を呼ぶというのだろうがよくない話として広まっているのだと告げ、まさか援交をしているのではないとは思うがというようなことを言った。援交という言葉に耳まで真っ赤になりながら断じてそのようなことはないと答えた真面目な女生徒の目を覗き込んだ教師は黙って大きく頷きながら信じるよと言った。気まずく長い数秒を数えた上で、誰かが見たのはきっとお父さんと歩いているところだったのだろうねという言葉に一瞬どう答えようかと迷ったが、私は教師の顔をまっすぐに見ながら静かに顎を引いた。すでにおかしなことになっている話をいっそう複雑にしたくないと思ったからだ。夏のあの日、母と一緒にショッピングを楽しんでいる姿を見られたに違いないとはとても言い出すことができなかったのだ。

                                                                            了


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第九百四十二話 嘲笑 [文学譚]

 めずらしく何日も降り続ける雨も、降りはじめの頃はいいお湿りじゃぁないですか、これで今年は水不足にならなくて済むかも知れませんなどと前向きに話し合われていたのだけれども、こう毎日降り続けると外に出るのさえいちいち雨具を使わなければならないことを思うと億劫になり、そろそろ晴れ間が見えてきてもいいのになどと思ってしまうし、そもそも気持ちが内向きになってしまう天候であるのに人となど会うべきではなかったのに違いなく、実際、永らく私を悩ませ続けてきたことがこんなところでおかしな方向に向いてしまったのも、間違いなくこの意地の悪い雨粒のせいに決まっているのだ。

 音もなく降りしきる雨の窓枠を背中にした富井先輩に顔を覗き込まれながら、福沢課長なんだろ、君が欠勤している原因は? と訊ねられ、否定するより先に、ああ、社内ではそういうことになっているんだとようやく最近のみんなの視線の意味がわかり、検討はずれな先輩の言葉に思わず頬が緩んで小さく笑ってしまった。「ああ、やっぱり」どう思ったのか先輩は心得たような相槌を打ってから、ゆっくり休んで気持ちを整理するといいよと言い残して伝票をつかんで立ちあがった。違うのに。あなたなのに。伝えたい想いと迷惑という言葉が往来する頭の片隅で、この歳になってまだこんなに追い詰められた気持ちになるなんて、少女じみた心の残りかすのことを思うとひとりでにまた笑いがこみあがってきた。             了


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第九百四十一話 疑似餌 [空想譚]

 釣りに関しては詳しいわけではない。学生時代の友人がブラックバス釣りにはまっていて、様々なルアーを集めていた。ルアーとは、湖のブラックバスや海のスズキなんかを釣るときに使う疑似餌と呼ばれるもので、魚の形をしたプラスチックのものもあれば、鳥の羽根なんかを利用して虫に似たものまでいろいろあった。友人は主に羽根のついた虫に見たてたルアーを集めていて、それがなかなか美しい造形だったのでぼくも興味津々だった覚えがある。実際の釣りには付き合ったことはないが、釣り糸の先につけた疑似餌を空中や水面で飛び跳ねさせて魚を誘導し、食いつかせるというやり方だけはなゆとなく教えてもらった。

 疑似餌のことを急に思い出したのは、それと同じようなものがスボーツウェア売り場のディスプレイに使われていたからだ。そこは釣り道具の売り場ではなかったが、マリンスポーツ関連のウェアのセール中で、水着姿の女性マネキンの横に立つ男性マネキンが着ているポロシャツの胸元につけられていた。なるほど、そんな風におしゃれ小道具として使う方法もあったんだなと少しだけ感心して眺めていたら、後ろから声をかけられた。

「それって、ルアーなんですよね?」

 ぼくより少し若い年頃の女性で、釣りやスポーツなど似つかわしくないような都会的なスタイルに身を包んだ賢そうな女だった。一目見てぼくは好みだなと感じた。

「ええ、そうですね。こんな使い方もあるんですね」

 ぼくの答えに満足したのかどうかわからなかったが、とにかくにっこり笑い返す彼女の態度に、すっかり打ち解けた気分になってしまったぼくは大胆にも軟派しようという気になった。

「あのう、ぼくはルアーにはあまり興味はないのですが、美味しいコーヒーは好きなんですよ。よかったら一緒にいかがですか?」

 一瞬ピクリと動いた彼女の表情に、失敗したかと思ったが、すぐに彼女は笑顔で答えた。

「あら素敵。いいですね。ぜひお供させてくださいな」

 やった、心の中でガッツポーズをしたぼくが彼女の背中に手をあててエスコートしようとしたその途端、ぼくは彼女と共に瞬間移動をはじめた。どうなっているのかわからないが、身体が重力を失って、どこか高いところへ飛びあがっている。彼女は笑顔を凍りつかせたままその手でしっかりとぼくをつかんで離そうとしない。いきなりぼくは理解した。そうか、ぼくは釣り上げられたんだ。彼女と思ったこれは何者かによって人間そっくりに作られた疑似餌だったんだと。

                      了


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第九百四十話 自らに鋏を [文学譚]

 花梨がいなくなって二週間が過ぎようとしている。失踪に気がついたとき、彼女が行きそうな場所は何度も探した。だが、予想できる行き先はさほど多くはないのだ。彼女の行動範囲が狭いからか、あるいは私は彼女のことをあまり知っていないのかもしれない。とにかく考えられるところはすべて探したし、彼女のことを知っている知り合いには電話をかけて訊ねまわった。だが、誰一人として見かけた者は見つからなかった。

私は花梨になにかしただろうか。彼女が嫌がることを言っただろうか。なにも思い当たらない。それどころか私は毎日彼女の満足を満たすためになんだってしてきたはずた。それなのに私を捨てていなくなってしまうなんて。日を追うごとに心のどこかに空いた穴が大きく広がっていく。そしてそれはもはや耐えられないほどの大きさに到達してしまっている。

 しかし実はこれほどの空虚感に襲われることははじめてではない。心の耐性が弱いのだろう、私はしばしば耐えきれなくなった気持ちを鎮めるためにある儀式めいたことをする。こんなことで気持ちを鎮めることを覚えたのは中学校で長らく虐めの渦中にあった頃だ。親にも教師にも相談することができず、私は自分の身体の一部に刃物をあてがうことで気持ちを紛らわせることに成功したのだ。その後も受験に失敗したとき、就職し損ねたとき、女に振られたとき、ようやく手にした仕事で大きなミスをしてしまったとき、数えあげれはきりがないほど、精神がやられてしまったときに私はいつもこの方法で自らをなだめ、空虚感を高揚させることにむしろ快感を覚えるようになった。

 自傷癖。専門家はそんな名前で呼ぶのだろうか。この癖について医師に相談したことがないので、正しい名称まではわからないが、確かにそのようなことではないかと思う。

道具はいろいろあるのだが、私は鋏を使う。鋏ではそんなことうまくできないだろうと思われそうだか、慣れればそうでもない、私の場合はむしろこの方がうまくやり遂げられる。両手、両足全部を一気にやってしまうのがむしろ気持ちいい。その順番はどうでもいいのだが、右手に鋏を持ってがやりやすい左手からやってしまうのが常だ。切れ味のいい鋏じゃないと大変なことになったしまう。一度切れない鋏を使ってしまったときには思い通りに切れない上に、切り口があまりにも汚くなって往生した。それ以来、決して切れない鋏は使わないようにしている。

 右手でしっかりと鋏をつかみ、左手のそこにあてがう。静かに鋏を握ると、ぶちんと音がして身体の一部が離れ落ちる。もう一度、もう一度。左手の次には鋏を持ち替えて右手を。そして両足を。すべての爪が短くなったのを確認してようやく私は安心する。

 丁度そのとき、花梨が戻ったようだ。どこでなにをしてたんだ、馬鹿野郎。私が言うと、花梨は答えるでもなく声をだした。みゃおぅ。

                    了


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