第九百九十七話 最後の日をいかに迎えるか [可笑譚]
あと一日しか残されていないとわかったら、人は何をして過ごすのだろう。
「今さらジタバタしても仕方がない。残された一日を有効にするか無駄に終わらせるか、それはお前自身の問題だ」
そう言って先生は部屋から立ち去った。
確かにもはやどう足掻こうが決まってしまっていることだ。時間を止めることなどアインシュタインにだってできはしない。非力な人間はただその時が来るのを待つことしかできない。刻々と近づいてくる運命を帰ることはできないのだ。
いや待てよ、先生が言った通りかもしれない。時を止めることはできないが、そこに至るまでの自分の有り様を変えることはできる。貴重な一日を泣いて過ごすこともできれば、なにが大切なことなのかを考え、その大切なことのために一日を費やすことはできる。
たとえばいままで味わったことのないほど思い切りリラックスしてその時を迎えることもできれば、だれか大切な人と共に過ごすことだってできる。そのどちら を選んだところで結果は同じじゃないかというニヒルな答えが返ってくるかもしれないが、それでもいい。その時に自分自身がどれほど満足できるか、これで良 かったのだと悔いを残さずにいられるか、結局それが生きている人間の証なのだから。
こうしている間にも小一時間も過ぎてしまった。さてどうするのだ。わたしにとって大切なことってなんなのだろう。
答えが見つからないままにまた小一時間も過ぎてしまう。家族? 最後の時間を過ごす? 残念だがいまの私に家族はいない。父も母も早くに亡くなってしまっ た。兄弟姉妹もいない。では恋人と過ごす? これも無理だ。つきあっていた男と別れてもう三年にもなる。なんということだ。私には最後の時間を共にできる 大切な人がひとりもいないのだ。
もちろんそんなことは最初からわかっていた。親も恋人もいない、だからこそその時がやってくるのがいっそう恐ろ しいのではないか。同じその時は全人類に同じようにやってくるのだなどという言葉は何の慰めにもならない。人それぞれに環境が違うのだから。わたしが満足 してその瞬間を迎える手だてなどないのだ。ひとりでリラックスしたところで何も変わらない。そんなことでわたしは変われない。
あれこれと悩んで いるうちにどんどんと時間は過ぎていき、ほとんどの時間を潰してしまった。もう間もなく日付が変わってしまう。せめて先生に頼めば良かった。今夜だけでも 一緒にいてはくれないだろうかと。しかし先生にだって家族はいるのだし、そんなことは頼めなかった。それにわたしだってあんな老人と貴重な時間を過ごすく らいなら一人の方がましだと思った。
そしてついに二本の時計の針が頂点に達して日付が変わってしまった。その日になってしまったのだ。
三十路。誕生日を迎えてしまったわたしは美容術の先生から忠告を受けたにもかかわらず、二十代最後の一日を無為に過ごして大台を迎えてしまった。十代から 二十歳になったときに感じたそれ以上に、もはや中年の領域に突入してしまったという喪失感は強く、鏡の前でもう若くはない肌を眺めながら、もうこんな年齢では恋人もできないのではないかしらとい う大きな不安が押し寄せてくるのだった。
了
第九百九十六話 中身が肝心 [可笑譚]
面接会場に到着した時には汗まみれになっていた。決められた時間に遅れそうになって走ったからだ。
あんまり暑いのでスーツの上着を脱いでいるところで番号が呼ばれ、そのまま面接室に入った。上着を着ればよかったのだがまだ汗が治まってなかったので、袖を通す気になれなかったのだ。三人の面接官が並ぶ前に五人の学生が並ぶ中で、上着を着ていないのは僕だけだったから、いっそう目立ってしまったようで、いきなり右端の面接官に注意された。
「大事な面接で上着を着ないのが君のルールなのかな?」
両隣から失笑の波動を受けながら慌てて上着を羽織ったのだが、面接官が追い打ちをかけた。
「そういう意欲が感じられない者を採用する会社があるとは思えんね」
結局数日後には不合格の通知を受けた。
「たぶん、あのことが原因なんじゃないかなぁ」
食事どきに報告するともなくあのときに話をすると、黙って聞いていた父が箸を置いた。
「おかしいんじゃないか、そんなことで不合格にするなんて。お前は成績はいいんだろ? 人柄だって俺の息子だ、悪いわけがない。そりゃあ遅刻しそうになったのはあまりよろしくないが、それだって遅刻したわけじゃないんだ。むしろ遅れないように努力した結果がそれとは!」
言いながら次第に言葉に力が込められた。父は話しているうちに感情が高まっていくタイプの人間なのだ。最初は軽く注意をするだけのつもりが、諭しているうちにだんだん感情が高まって怒りに変わっていくというような。その企業に対する父の疑問は怒りに変わり、その怒りは僕への励ましに転嫁した。
「まぁ、だめだったものは仕方がない。むしろそんなことで人を判断するような会社はこちらから願い下げだ、なぁそうだろう?」
僕はよくわからないままに頷いた。
「人間は外見じゃない。いくら立派な格好をしていてもダメな人間はいくらでもいる。いくらきれいに着飾っても心の薄汚れた人間もな。いいか、お前ならわかっているだろうが人間は外見じゃない、中身だ。中身だけで勝負できる人間になれ、わかったか?」
どうやら父の考えでは人間は外見と中身が一致しないことの方が多いようだ。だから外見などどうでもいい、中身を大事にしろということのようだ。
「自分の中身を大事に育てろ!」
さらに付け加えられた質の言葉に僕はいたく感動した。日ごろ僕が思っていたことと合致したように思えたからだ。
他の人は見た目と中身が一致しているのだとばかり思っていた。誰もそんなことを話題にしないから知ることもなかったのだが。しかし僕自身は小さなころから外見と中身がバラバラのような気がしていたのだ。でも、そんなことを考えている自分は馬鹿なんじゃないかとか、笑われるんじゃないかとか思えて、誰にも、家族にも言えずに今日まで生きてきたのだ。それが就職面接をきっかけに父からあのような励ましを受けるとは。眼から鱗が落ちるとはこんなときに使う諺だったんだと僕は思った。
翌日、目が覚めたときにはと手も気分がよかった。二十数年間にわたる靄が突然晴れたようだ。ベッドを出て爽やかな気分で階段を下りて食卓に向かった。父も母もすでに朝食に取り掛かろうとしているところだった。
「おはようございます!」
いつもより丁寧に挨拶をすると父は少しだけ驚いた顔をして返してきた。
「おお、おはよう。なんだかご機嫌だな」
「はい、お父様。だってわたし、すっかり目が覚めましたもの」
「なんだそのしゃべり方は」
「昨夜のお父様のおかげですわ」
「なんだそれは、オカマみたいな……」
わたしは少しシナを作りながらにっこり笑って答えた。
「昨夜、おっしゃったじゃありませんか。自分の中身を大事に育てるようにって。だからあたし、そうすることにしましたの」
父に話している間じゅう、今日はじめてこの世に生まれ出たような爽快な気分だった。
了
第九百九十一話 寝っ転がってかく [可笑譚]
テレビというもののせいなのかどうか、はっきりとはわからないのだが、気がついてみるとリビングのソファの上で寝転がっている。三人掛けのソファはひと一人の胴体を横たえて両側にある肘起きのひとつに頭を持たせかけ、もう片側には足首あたりを乗せるのにちょうどいいのだ。頭はいささか急な角度で折れ曲がりがちであるがそれはもう慣れてしまった。足先は胴体より少し高いところに持ち上げることによって血流が心臓に帰りやすくなるのでいいという記事をなにかで読んだことがある。テレビのせいかわからないと書いたが、たいていはなにかの番組や映画がつけっぱなしになっているけれども、必ずしも見ていないし、場合によってはスイッチを入れていないこともあるからだ。いずれにしてもソファのこの位置がわたしの定位置になっていて、用事がないときはここで過ごしている。
怠惰な性格は当然ながら怠惰な生活態度を形成するもので、いったん横になってしまうとなかなか起き上がることができない。だからソファの横に背の低いテーブルを置いて、飲み物や書籍、タブレットなど必要なものをそろえて置いてある。手を伸ばせばおおかた満足できるというセッティングだ。
だが、横になってしまうとまず眠気が襲ってくる。睡眠不足なわけではないけれども習性というものだろう。本を手にしても数行のうちに瞼が落ちてくる。眠気がくると体温が上がるらしいが、体温が上がるから眠くなるという逆の説もあるようだ。体温が上がると身体のここそこが痒くなる。ぽりぽりと無意識のうちに尻を掻く。寝っ転がって掻く。床の上では愛犬も同じようにして後ろ足で身体を掻いているのを見ると、ああ自分もこ奴と同じ動物なんだと妙に感心する。少しアレルギー体質な私の皮膚は過剰に反応して掻いたところが赤くなっていっそう痒くなる。痒くなりながら眠気に呑まれて転寝をする。
十分くらいなのか一時間ほど過ぎたのか、そもそも睡眠不足なわけではないからすぐに目が覚める。夕方の転寝というものはとても気持ちがいいものだが、目覚めたときについ寝ぼけてしまうことがある。これがとても不思議な感覚だ。夜なのか朝なのか、光の具合が奇妙に感じて、一瞬、起きて仕事に行かなければと思い、次にはなんだここはどこだベッドじゃないじゃないかと気がつき、いまは夜なのか朝なのかと混乱する。しばらくしてようやく、ああ居眠りしてたと気がつく。
ソファの反対側にベランダがあって大きな窓があるのだが、目隠しにしているブラインドが開いたままになっている。ベランダの向こう側は広い道路を隔ててこちらと同じくらいのマンションが建っているのだが、同じ階同士だと少し大声で話せばコミュニケーションできそうな距離だ。向こうのベランダに人が立つと、こっちの様子がまるわかりになってしまう。だからいつもブラインドで目隠ししているのだけれども、今日に限って閉め忘れている。窓の向こうを見ると人影があって、どうやらだらしない姿を見られてしまったようだ。外から帰ってきて上着どころかシャツまで脱ぎ捨てて横たわり居眠りしてしまった私のあられもない姿。大通りを隔てた視線にどのように映ったのか想像するだけで血が逆流しそうだ。私は寝っ転がって、それだけで恥をかいてしまったようだ。
寝っ転がって恥をかいたことを悔やんでもしかたがない。テーブルに手を伸ばしてタブレットをつかむ。ほんの少し前まで手書きだったものがワープロになり、パソコンになり、それでもまだ机の上でモノを書いていたのが、スマートフォンやタブレットという最新機器が登場したおかげで、机を離れても読書以外のさまざまな知的活動ができるようになった。たとえばなにか文章を書くということも、背筋を伸ばさなくてもできる。一説によると、手書きで書く文章とパソコンで書く文章では違ったものになるというのだが、こうして寝っ転がって書くというのはどんなものなのだろう。当然ながら上体を起こしているのと横たわっているのとでは脳への血の巡りも違うだろうし、気持ちの入り方も違うだろうとは思うのだが、私自身は自分の頭の中で起きていることになんら変わりはないのではないかと思っている。
あと十話分で終わってしまうというこのタイミングでこのようなことを話題にするのはどうかと思うけれども、こういう普通のことを書いてみたかったので書いている。これが小説といえるのか、いやいやこれはエッセイだ、いや駄文だと、意見は分かれるところであるが、萩原アンナや高橋源一郎のような立派な書き手でも駄洒落やコメディを書いていることを思えば、こんなものを書いてみるのも面白いかな、しかも寝っ転がって、と思うのである。
寝っ転がって書いていると、やはり多少の弊害はある。またしても眠気がくるのだ。自分で書きながら眠いなんていうのはいかに駄文であるかを証明しているようなものではあるが、眠いのだからしかたがない。タブレットを膝のあたりに角度をつけて置いているから膝が曲がっている。つまり立膝状態で居眠りをする。こうした場合、ありがちなのが眠っている間に膝が落ちるという現象だ。眠っていて膝が落ちたりすると、心地よく見ている夢の中で崖から落ちるという経験をして目が覚めたりするものだ。カクッ! 寝っ転がってカクッ! ああ、びっくりした。
どんなオチかと思ったらこんなオチって。読んでるあなたにとっては、よしもと芸人じゃないけれども、まさに寝っ転がってカクッ! なことだとは思う。
了
第九百八十五話 お・も・て・な・し条例 [可笑譚]
二千十三年九月八日、二千二十年の東京オリンピック開催が決定した。日本へのオリンピック招致 を実現したのは招致委員会全員の努力の賜物なのだが、中でもIOCを中心とした海外の委員たちの心に響くプレゼンテーションに成功したと評価されたのがフ ランス語を見事に操って語った滝川クリスタルで、そのキーワードとなったのが「おもてなし」という言葉だったことは記憶に新しい。
東京開催が決定した後、政府は開催に向けて様々な施策を考案し、オリンピックの成功に向けた事業に取り組んだ。その中でも後に賛否わかれることになる「お もてなし条例」が施行された。これは海外から訪れる観光客を最大限のホスピタリティで迎えようというものでそれ自体は悪くないのだが、そのキーワードにあ のプレゼンテーションの言葉が用いられたことが国内に大いなる混乱をもたらした。
人々はすべからくあの日の滝川クリステルのポーズを真似ておもてなしを語り、おもてなしを実践した。
「ご注文はお決まりですか?」
「この力うどんをお願いします」
あるうどん屋での会話である。
「ああ、すみません。どういうわけか今日はそのメニューが大人気でして、肝心の具材が切れてしまいまして……」
「え? 具材が売り切れ?」
「はぁ、そうなんです。つまり、お・も・ち・な・し。お餅なし」
店主は客に向かって両手を合わせた。
隣の喫茶店では、若いカップルがもめていた。
「ねぇ、私のこと邪魔だって思ってるでしょう?」
「そ、そんなことないよ。なに言ってるんだ」
「うそ。最近とても冷たい態度はおかしいわ。私がいなくなればいいと思ってるでしょ!」
「ばかな! 俺がそんなこと思うわけがない」
「いいや、思ってる!」
男は顔の前で左手でなにかをつまむようなポーズで言って、両手を合わせた。
「お・も・て・な・い。思てない」
女の田舎では母親が胡瓜を漬けていたのだが、いつもの桶に糠と胡瓜を入れたものの、重しにしている石が見当たらない。
「ねぇ、あんたぁ。いつもの石、知らない?」
「石ってなんだよ」
「ほら、漬け物石よう」
「知らんなぁ。わし、そんなもの触ったことないぞ」
「おかしいわねえ、ないのよ。何か変わりになるものないかしら?」
夫はしばらく考えてから、顔の前に左手を突き出して言った。
「お・も・し・な・し。重しなし」
大阪の寄席では若手の漫才を見ていた常連客があくびをしながら左手を顔の前に持っていって言った。
「お・も・ろ・な・い。オモロない」
こんな具合に、日本中がどんどん滝川ポーズに毒されていって、元来あるべきホスピタリティの精神はどこへやら、人々はおもしろがって、いかに「お・も・ て・な・し」をもじった言葉を編み出すかに血道を上げるようになってしまったのだ。本来のおもてなし施策はすっかり裏の施策に陥ってしまった。
世の中の情勢を知った首相はこんなことではいけないと、急遽記者会見を開いた。この以上な事態を収拾するために、国民になにをどう語ればいいのか迷いに迷った首相は、テレビカメラの前でひと呼吸おいてから口を開いた。
「国民のみなさん。おもてなし条例が間違った方向に傾いてしまっています。こんなことではオリンピックに向けたこの条例が無意味なものになってしまうと危惧しています。いまのままでは、このおもてなし条例は……」
首相は左手を顔の前に突き出して言った。
「お・も・て・な・し。表なし」
首相は両手を合わせて頭を下げるのだった。
了
第九百七十九話 踊るように生きろ [可笑譚]
社長でありインストラクターであるトミーの目の前で、麻子はギクシャクしながら手足を動かしている。足と手は交互にリズミカルに動かさなけれならないのに、どうしても同時に同じ方向に動いてしまうし、トミーのカウントとまったく合わない。
ワントゥスリーフォー、ワントゥンタタン、ワントゥスリーフォー、ワントゥンタタン。
かっくんかっこんずれるずれる、ぴんすここんすこんんととと。
「おいおい、まだできないか?」
トミーは業を煮やしてカウントをやめる。なんでこいつはこうもリズム感がないんだ。しかし、なんとかしてやらないとなあ。
トミーがダンスをはじめて三十五年。若い頃はダンサーに徹していたが、三十を過ぎた頃から自分のスタジオを持つようになり、いまではいくつものダンススタジオから数々の若手ダンサーを世に送り出しているスタジオの経営者だ。ダンスが義務教育に取り入れられて、ますます生徒も数を増やしてすべてが順調だ。
ところが最近、麻子という二十歳になる叔父の孫の面倒を見てくれと頼まれてしまった。麻子はダンスインストラクターになりたいそうで、これまでも町のダンス教室でレッスンしてきたが、どうも上達しないというのだ。できれば、トミーのスタジオで事務員として雇いながらダンスを教えてくれないかという無茶な注文だった。叔父には昔、出資してもらった手前、断ることもできない。まぁちょうど古い事務員が辞めたところだったので、軽く引き受けてしまった。
麻子は短大を出ていて頭はいい方だと思うのだが、計算をさせても書類を作らせてもどうも要領が悪いというか手が遅い。丁寧だというのならまだしも、ミスも多い。ダンスだってレッスンを受けていたようには思えないのだ。
事務所で計算をしている後ろから覗き込んでみると、なんだかもたもたしている。
「麻子ちゃん、もっとこうーなんていうか踊るようにできないかな?」
「は? 踊るように、ですか?」
「そうだ。ワントゥスリーフォーってリズミカルに電卓が叩けないか?」
「リズミ……カルですか?」
麻子の電卓は、たんたった……た。た……たったんたた……た、と、ちっともリズミカルじゃないことに、本人はさっぱり気がつかない。
「あのな、踊るようにすればどんなことでも上手くいく、おれはそう思ってる」
「はぁ」
そんなこと言われても、麻子にはさっぱりだという顔をする。
コピー機と悪戦苦闘しているときでも同じことを麻子は言われた。何枚もの書類を複写していたのだが、きちんと複写しようと思うと一枚一枚手間取ってすっごく時間がかかっている。その様子を見ていたトミーは後ろから近づいて、ほら、こういうのでもタンタタタンたんたたたんってリズムをつかんで踊るようにやってごらん。貸してみろとコピー機を使ってみせる。トミーの動きは、それは見事に踊るようなスマートさで、しかも正確にスピーディに複写が取れていく。
むろん、麻子はトミーとは違う。同じ人間ではないのだから、まったく同じようにはいかないだろう。だがコツさえつかんでくれたら、どんなことだって踊るように気持ち良く楽しくこなせるのに。
「先生。トミーさん、わたし、やっぱり上手く踊れません。なにかコツみたいなもの、あるんですか?」
麻子は汗が滲んだTシャツの首元をタオルで拭いながら聞いてきた。だからさぁ、何度も言ってるけどね、トミーは思う。
「どんなことだって、ダンスだって同じだ。何度だって言う。いいか、よく聞け」
トミーは真剣な眼差しで麻子の顔を覗き込んで言う。
「上手に踊るコツはな、踊るように踊るんだ」
了
第九百五十七話 鎧があるから大丈夫 [可笑譚]
アニメに出てくるモビルスーツのような分厚く派手なものではないが、確実に身を守ってくれる鎧を身につけている。もちろん相手の武器によってはこんなものでは役に立たないのはわかっているが、通常の生活の中ではこれで充分だ。むしろサーベルやマシンガンをも防げるほどの頑強な鎧は重厚すぎて、日常生活に支障がある。うんと軽くて装着感もほとんどないくらいのこの鎧が日常的につけておくにはちょうどいい。これで充分に身を守ることができる。
誰かが近づいてきた。敵だ。これ見よがしな武器は持っていないようだが、どんな手で攻撃を加えてくるかわからない。油断は禁物だ。私は頭をぐっと下げて見つからないように隠れた。敵は目の前まで来ると何かを探しているように視線をそこらじゅうに泳がせていたが、目的のものは見つからなかったのか、そのまま歩き去った。ほっと息を継ぐ。できれば無用な闘いなどしたくはないのだ。その後も何度か敵に遭遇して危うい場面はあったのだが、今日のところは一度も争うことなく実務を終えることができた。正直言って、戦場ではできる限り目立たない方がいい。下手に手柄をあげようと敵に挑みかかると、手痛い傷を負うことになるのがわかっている。自分だけが無傷で勝ち残るなどということはまずあり得ない。奴らが勝手に争って倒れていくのを傍観し、ひとり生き残ることによって勝利を手にするというのが最も賢い方法だと思う。それは卑怯だと、人によっては思うかもしれないが、そんなこと知ったことか。何も卑怯な手など使っちゃあいない。何もしていないだけだ。それが現代人の戦い方ではないか。
無事に家まで帰りついてはじめて鎧を脱ぎ捨てる。やはり裸に近い姿が身軽で気持ちいい。少なくとも一人暮らしをしていたときは、帰宅後は鎧なあいで存分に手足を伸ばしてくつろいでいた。だが、どういうわけでこうなってしまったのか、いまは女房というものがいる。もちろん、結婚当初は自ら望んだわけなのだが、まさか望んだはずの生活がこんなことになろうとは。食卓の上に飯はあった。女房が作ってくれているのだが、これが曲者だ。飯を食いながら缶ビールを開け、ふた缶めを開けようとすると女房が言った。
「あなた、今日くらいは一本だけにしとけばどうなの?」
ああ、面倒くさい、ほっといてくれ。
「休肝日ってこともあるし、ビール代だって毎日のことだからバカにならないのよ」
またはじまった。ここからだ。給料が少ないだの、家のローンがーどうしたこうした、そろそろ冷蔵庫の調子がおかしいとか、友人はヨガをはじめたのに自分にはお金のゆとりがないとか、しまいには働きが悪いのではないかなどと言い出す。家に帰ってまでも総攻撃がはじまるのだ。私は飯を食いながら先ほど脱いだばかりの鎧をもう一度静かに身につける。こうすれば安心だ。女房の攻撃くらいやすやすと防ぐことができる。私は鎧に感謝しながら黙々と飯を食べ続けた。
了
第九百五十五話 常識の絆 [可笑譚]
涼太は自宅に帰ると靴を脱ぐのと同時に上着を脱ぎ、他の衣服も次々と脱ぎ棄ててリビングに向かった。かつては家に帰ってすぐに服を脱いだりなどしなかったのだが、あるときからそういう習慣で暮らすようになった。
家ごとにあるいは個人個人に習慣というものがあって、そうすることが当たり前だと思っているのだが、その習慣を他人がみれば驚いてしまうという話はままあることだ。たとえば卵焼きはソースをかけて食べるとか、ご飯にマヨネーズをかけるとか、カレーの肉は豚肉に決まっているとか、うなずく人もいれば首を横に振る人もいる。食べ物だけでもたくさんあるが、そのほかどんなことでも、ある人にっての常識は別の人にとっては非常識であったりするものだ。
地域や家庭や、異なる環境で生まれ育った男女が一緒に暮らしはじめると、こうした習慣や常識の違いが顕わになる。トイレを出たら必ず手を洗う人とそうでもない人、使ったバスタオルは一回で洗濯する人しない人、家の中では裸足がいいかスリッパが必要か、穴のあいた靴下を履き続けるか捨てるか、歯を洗うのは食事前か後かあるいは洗わないか……数え上げたらきりがない。
新婚夫婦がもめたりするのはこんな違いによることが多い。なんで味噌汁が白みそなんだ? 脱いだ下着は洗濯機に入れてよ。なんで朝飯を米にしないんだ。トイレは扉を閉めてしてください。ペーパーなくなったら補充しといてよ。便座は必ず上げてね……またしてもきりがない。夫婦の間のこうした常識の違いはお互いに歩み寄るほかはないのだが、もしかしてどちらもが頑として譲らなかったりするとたいへんなことになりかねない。
うちの場合がそうだった。籍を入れた嫁は裸族だった。家の中ではずーっと裸だ。冬でもパンツ一枚はかない。「だってその方が気持ちいいし、健康的なのよ」そうは言うが、そんな習慣のない僕は受け入れられなかった。ほかにもある。家庭内でおはようとかおかえりとかの挨拶をしない。声をかけられても返事をしない。風呂は夜沸かして朝入る。空腹になるまで食事をしない、つまり嫁の腹が減るまで僕も食べられない。トイレで出た成果の報告を必ずする。人前では絶対に放屁をしない、してはいけない。こうしたことはどれもこれも僕には受け入れられないことだった。だからしょっちゅう言い争いになるし、どちらかの機嫌が悪くなる。最初は文句を言ったり、それはおかしいと指摘をしていた僕だったが、そのうち面倒になり言わなくなった。僕が我慢をするようになったのだ。
だが、長らく身についた常識に反することを我慢し続けているうちに、胃に穴が空きはじめた。痛っ! 痛たた。医者に行くと初期の胃潰瘍だった。ストレス性だろうと言われた。そりゃぁそうさ、この非常識な生活がストレスにならないわけがない。嫁に言おうと思ったが止めた。どうせ言ってもその程度のことで改まるわけがない。なんか別の原因よと言うに決まってる。しかし、このままでは……。
ある朝僕は気がついた。そうか、いつまでも非常識だと思っている僕がいけない。僕の習慣が常識で、あいつのは非常識だと思っていたが、それは思い込みだ。なんだってどっちが正しいなんてことはないのだ。ただ単に僕のが正しいと思い込んでいただけだ。僕は開眼したのだ。悟りの境地に入ると、後は簡単だった。どんなことでも受け入れられるようになった。いまここで、この家で起きていることをすべて常識として受け入れるといいのだ。
そう悟って実行しはじめてから、嘘のように胃が治っていった。いらいらしていた頭の中もすっきりした。そんなわけでいまの僕は裸族だ。フルちんだ。挨拶もしないし返事もしない。風呂は夜沸かして朝入る。食事は自分が空腹になってから食べる。うんちの報告は必ずするし屁はしない。ほかにもある。借りた金は返さない。割り勘はしない、相手に払わせる。絶対に謝らない。決して相手に迎合しない。腹が立ったら実力行使をする……(以下省略)。
あなたが常識と思っていること、それはほんとうに常識なんですか? もしかしたら非常識ですよ。
了
第九百四十七話 半身世紀がやって来た! [可笑譚]
君は面白いから適任だ、代表で参加してきてくれ。課長からそういわれて異業種交流会っていう物に参加することになった。こういう知らない人が集まる集会っていうのは苦手なのに、なにを間違って適任だと思われているんだろう。案内状にある地図をたよりに会場を訪れると、ちょうどはじまろうとしているところだった。会議室程度の広さの部屋に、二十人ほどの男女が集まっている。司会者が挨拶してビールで乾杯した後、自己紹介がはじまった。
普通のサラリーマン風の若い男、大学院の研究者、大手企業のOLなど、ごく普通の自己紹介が続いた後、私の隣に座っていた外国人らしき若い男が立ち上がった。
「ぼくはパーキンソンといいます。芸能界代表です。こう見えて日本語しか話せません。アフリカ系のハーフなんです。だからみんなぼくに英語で話しかけるんですが、ぼく、英語は全然ダメなので困るんです」
その後もパーキンソンは小学生の頃に野球サークルに入れられたこと、英会話教室に行ったこと、実家が和食店であることなど、延々とハーフであるがために起きたトラブルの話をして座った。彼の話にみんな大爆笑で、会の雰囲気がとても和やかになった。今世紀に入って、いやその前からかもしれないが、国際結婚がどんどん増えているために、こうしたハーフが増えている。いまや五十人にひとりはハーフという時代なんだそうだ。だけど、こんなに面白い自己紹介の後だなんて、なんて運の悪いことか。私は気おくれしながら立ち上がった。
「あのう、半部たけよです。実は私もハーフなんです……」
会場はすっかり和んでいるので野次が飛んだ。
「まさか、ニューハーフじゃないだろうね?」
「まさか……違いますよぅ。でも、さっきの、パーキンソンさんですか? ハーフって言うけど、その言い方っておかしくないですか? 私、彼みたいのはハーフ&ハーフって呼ぶべきだと思います。と言うのは……」
私はみんなに事情を話した。私は二十年前に実験段階でとん挫してしまった政府のプロジェクト「人類1/2計画」で生まれた子供なのだ。つまり、いずれ来る食糧難に備えて人間のサイズを小さくすることによって現存する食糧を実質二倍にしようという研究の具体化段階で行われたものなのだが、生まれてきた私たち1/2人間の赤ん坊を見て、不安になった人々が大反対して実験は中止になった。
「ね、私とはじめて会うと、みんな子供扱いします。でもれっきとした大人なんです。サイズはみんなの半分ですけど……だから私、ほんとうの意味でハーフなんです」
みんなどう対応したものかと押し黙っている。するとひとりの男が立ち上がった。
「実は、ぼくもハーフです! ほら」
言い終わってくるりと回ってみせると、彼は右半分しかなかった。その理由を言う前に別の人が立ち上がった。
「私、半分人間、半分魚……人魚ですもの」
「ぼくもだ……頭が魚だけど」
「俺なんて、下半身は馬だぜ」
やれやれ、なんて時代になったんだ。
了
第九百二十二話 船上パーティ [可笑譚]
二十五人乗りの小さなクルーザーだが、出来あいのクルージングパックではなく、みんなで酒と料理を持ちこむという手づくりによる船上パーティは、想像以上に盛り上がった。なにしろバーを経営している閑ちゃんと、レストランの若い経営者である俵町が主催しているから、この二人が用意した料理もワインも不味いわけがない。夕刻のスタート直前、スコールのような雨に見舞われたもののすぐに止み、むしろ気温が少し下がって過ごしやすくなったかもしれない。例年以上に気温が高いと言われている今夏だけに、市内の運河を涼風を浴びて巡るクルージングパーティは、前半大いに盛り上がった。
市内の運河はまっすぐ東西に延びる土佐堀川と、そこから幾筋にも枝分かれしている川によって構成されていて、今回は土佐堀川を往復した後に、南方の繁華街を貫く支流へと展開される予定だったのだが、デッキの前部でマイクを持った船長が詫びのコメントを伝えた。
「みなさん、申し訳ありません。少し手違いがありまして、南に向かう支流へと運航することが出来なくなってしまいました。誠に申し訳ありませんが、本日は残りの時間もこの同じ川を出来る限り航路を変えて往復させていただきます」
正直、川の上を走る船の上で酒を飲むだけで十分なのだが、予定されていた道筋が出来なくなったというそのこと自体が気にいらない男がひとりいて、船長に文句を言った。この男、小さな会社を経営しているからか普段から高飛車な物言いをするタイプの人間で、閑ちゃんの店の常連客ながら、一部反感を感じている客も少なくなかった。
「おいおい、船長さんよ、これって船上パーティーだろ? そんな同じ一直線の川を行ったり来たりだなんて、それじゃまるで船上じゃなく、線の上を行く線上パーティじゃないかよぉ」
言われた船長はもともと強面の顔を少しむっとさせたものの、頭を下げてもう一度謝った。男の方も頭を下げられた事と、周囲にまぁまぁとなだめられてとりあえずは口をつぐんだ。しばらく行くと、川の真中にある川洲に設けられた公園の横に船がさしかかった。この公園には川に向かって大きく散水する噴水が設けられていて、夜になるととりどりの光によってライトアップされるのが美しいが、川に向けられた散水のは近くを行く船に水しぶきをぶちまけることになる。先ほどの男、噴水を眺めることもなく缶ビールをぐいぐい飲んでいたところを、運悪く水の塊が意図したように男目がけて降り注いだ。
「ぷあっ! なんだこれは?」
頭から水を被った形になった男はひとりだけびしょぬれ。突然の災難に、周りの者は笑い出した。男は他の乗船客は何ともないのに、なんで自分だけ? そんな目をして数秒間茫然としていたが、すぐに我を取り戻して言った。
「おいおい、線の上行く線上パーティかと思ったら、違うのかい。これは俺様を洗う洗浄パーティなんかい!」
男はなぜか船長に詰め寄り、船長も浮かれた笑いを顔の上で固めた。この男、なにをカリカリしているんだ? 固まった笑いの端からそんな感情がこぼれ、「あんた不運だな。こんなこと滅多にあるもんじゃぁない」と言った。男はこの不運という言葉に一層刺激されたらしく、酔いも手伝って船長の胸倉をつかんだ。
「おいおい、てめえがそうしておいてよくも不運なんて言ったなぁ。ええ? 会社を経営してる俺はその言葉がこの世で一番嫌いなんだよぅ!」
胸倉を掴まれた船長もまたいきなり激昂した。
「おいおい、なんだてめえの言い草は。わかった。これはもう船上パーティでも線上でも洗浄でもないわ。あんたのその言葉によって煽情パーティに変わったわい!」
船長、自分の船に隠していたライフルを取り出して夜空に向けて一発撃ちはなった。初老のこの船長は、若いころアメリカに渡って軍の外人部隊に参加したことがあり、もともとは血の毛の多い人間だったのだ。
「もう我慢ならん。おめえらみんな血祭りだ!」
当然ながら船上パーティーは、線上でも洗浄でも煽情でもなく……もうおわかりですね……いきなり戦場パーティと化した。
了第九百十一話 48 [可笑譚]
会場は思っていたよりも小さく、集まってくるゲストたちも思いのほか少ないな。レイは内心そう思いながら、しかし昔とは違うんだと自分に言い聞かせた。アスカが口元に笑みを表しながら両手にシャンパングラスを持って近づいてきた。
「思ったより盛況ね、そう思わない?」
レイとは反対のことを言うアスカの言葉にあやふやに答えて差し出されたグラスを受け取った。
「まぁ、そうかしらね……」
二人は、他の仲間たちともそうだが、もう長いつきあいになる。これまでも充分に仲がよかったのだが、これから先もこうしたついあいを続けていけるのだろうか。ふと浮かぶ不安をこれまで何度打ち消してきたことか。しかしそのおかげで今日があるようなものなのだ。
ここはホテルの宴会場。通常は結婚式等に使われることの方が多いのだろうが、百人程度を収容できるくらいの広さに仕切られていて、開場から三十分以上は過ぎているのに、会場にはまだ五十人くらいしかいない。プレスの人間だってもっと多いかと思っていたが、二組ほどしかいないようだ。つまりもはや今日のパーティーはその程度の価値しかないということなのだ。
かつては日本中を揺るがすほどの人気を誇っていたアイドルグループAKC48だったが、あれから三十年も過ぎてしまった今では、グループが存続していること自体がミラクルなのであって、これであの人気が持続していたとしたら、それはもはや怪奇現象といわねばなるまい。第一、グループの名前が表すように、当初は四十八人の女の子が所属していたのだが、脱落していく者、卒業と称して独立していく者などが続出して、オリジナルメンバーで残っているのは五人にも満たない。結成十年後には人数も減りはじめ、現在ではオリジナルメンバーの五人だけがAKC48のメンバーなのである。司会者がステージ端に立ち、グループの発起人であるプロデューサーの春本に挨拶を促した。タキシード姿の春本は既に八十歳という高齢に達しているが、死ぬまで現役だと宣言して表舞台にでているのだった。
「みなさん、AKC48の結成三十周年パーティーにようこそおいでくださいました」
春本は昔と変わらぬハリのない話し方で一通りの挨拶をしたあと、咳払いをして皺だらけの表情を少し動かした。
「既にみなさんもお気づきかと思いますが、AKC48が今日まで存続し続けてこれたものの、実質のメンバーは既に五人のみとなっております。これではもはや四十八を名乗るのには無理があるのではないか、そんな声も多々いただいております。そこで今日は、私からひとつ提案とともに新たな宣言をさせていただきます」
春本は会場を見渡して、また咳払いをした。
「AKC48は、リネームして一層のアイドル活動を極めていくことを宣言します!」
春本の後ろにたらされている緞帳に上から垂れ幕が下りて来た。
「レイ、アスカ、アツコ、サシフラ、ゴン、五人のメンバーは、今年揃って四十八歳になりました!つまり、48は人数ではなく年齢を意味することになったのです。五人は揃っていわゆるマル高。ご覧ください、新しい名前は……」
降りて来た垂れ幕を指さしながら、春本が叫んだ。
「へーケーシー・フォーティエイト! 今後ともよろしくお願いします!」
拍手喝采される中、ステージに向かいながらレイは小声で毒づいた。失礼しちゃうわ。私はまだ閉経していないのに!
了