第八百二十六話 圧力鍋でポン [文学譚]
「おお、そうか。ちゃんとできたのか、うん?」
「そりゃぁもう。はじめてだったんでちょっと手間取りましたけどね」
「そりゃそうだろう。こんなもの、そんなに簡単に出来てしまったら、プロなんていらねぇわな」
数日前、竜二は兄貴分の小藪から圧力鍋を手に入れて火薬を仕込むように言われたのだった。そんなもの仕込んで兄貴はどうするのつもりなのかと思いつつ、竜二はその作り方を教えてくれるように頼むと、兄貴もそんなものは知らない。知らないが、外国で起きた事件を解説していたテレビではインターネットで調べられると言っていたぞという兄貴の言葉に、竜二はスマートホンで検索してみると、たくさんの情報が出てきた。
圧力鍋、火薬、作り方。そんなキーワード検索で出てきた情報を見ているうちに、ははぁ、兄貴はこれを作れっていってるわけだなと合点した。古物屋で圧力鍋を買い求め、材料を仕入れスマートホンと首ったけになってようやく夕べ作り上げた。
「タマは入っているな?」
「は? タマ? え、ええ。あのつぶつぶの……」
「火薬も入れたか?」
「ええ、もちろんで。カヤクを入れないことにははじまりませんぜ」
「そうか。では、今日の午後これを持って球技場へ行け。午後からサッカーの国際親善試合がはじまる。そこにそっと置いてくるんだ。わかったか」
「親善試合? そこに置いてくる? でも、兄貴、それって誰でも入れるんで?」
「心配するな。ここにチケットを用意している。これで中に入って、そう、真ん中の来賓ボックスのあたりにな、仕掛けるんだ。世の中ひっくり返るぞ、うひひひ」
「はぁ……行けばいいんですね、球技場に」
竜二は圧力鍋を大きめの鞄に入れて、その他の道具も一緒に詰めて球技場に向かった。親善試合はたいしたものらしく、すでに人がいっぱいで、なんでも国内外の高官も観戦しにやっていているという。
「えらい人だなぁ」
思いながら入口ゲートを通過した竜二は再び合点した。球技場の中にも売店はあってホットドッグやサンドイッチを売っているが、さほど美味そうなものはない。好天の下、はじまる試合に盛り上がる観覧席。竜二はベンチ席に座って、バッグの中身を確認した。なるほど、兄貴はやっぱりいい人だなぁ。俺にこんな試合のチケットをプレゼントしてくれるなんて。俺がサッカー好きだと知っていたんだ。ここで飯を食いながらゆっくり観戦しろということなんだな。ついでに周りの客にもおすそ分けできる分量を俺に持たせて。
竜二はゆっくりと圧力鍋の蓋を明け、美味そうな醤油の香りを吸い込んだ。バッグに入れてきたしゃもじと茶碗を取り出して、準備に取り掛かった。
それにしても昨夜はちょっと苦労した。俺、飯など炊いたことないのに。こんなことさせるなんて。鍋の中ではもう冷めてはいるが、美味しそうなかやくご飯(五目炊き込み飯)が竜二に食べられるのをまだかまだかと待っているのだった。
了
第八百二十五話 ベランダの宇宙人 [文学譚]
このところようやく暖かくなってきたし、天気もいいからと、ベランダの窓を開けたのは先週の日曜日のことだった。見ると想像通りすっかり汚れていて、わけのわからないゴミや埃が室外機の上に積もって、排水口もほとんど見えなくなっていた。
私は前回もそうしたように、作業着に着替え、箒やちりとり、ゴミ袋、水バケツ、雑巾など一式を抱えてベランダに降り立ち、まずは箒で大きなゴミを集めだした。
「ふぇー汚いなぁ」
掃除が苦手な私はゾッとしながらはじめたが、いったんはじめると集中するのが私の癖だ。ところが箒を使ってまもなく、室外機の奥の隅っこに箒の先を伸ばしたとき、なんだかぞっとしない感触が箒の柄から伝わってきた。
ぐにゅ。
かさかさっというゴミとは明らかに違う。
ぐにゅにゅ。
しかも少し動いた。なんだこれは? 思わずぎゃぁ!と大声を上げてしまった。なんなのだ、これは? 近づいてよく見ると、薄汚れたゴミの中に、なにか生き物が潜んでいる。ゴミとほとんど変わらないような色彩のそれは、眼を見開いて、うみゅ! と言ったような気がした。
「宇宙人だ」
私はとっさにそう思った。聞いたことがある。ベランダに出現する宇宙人の話を。
「ちょっとぉ!」
私は部屋の中に声をかけて、家人に手袋と小さな箱を用意してもらった。
隅にいたそれを持ち上げてみると、二体いた。雄と雌だろうか。とにかく、宇宙人の赤ん坊だ。人間とは似ても似つかない姿。しかし、赤ん坊だけあって、恐ろ しくはなくむしろ愛くるしい。黒目がちな真ん丸な目で私を見上げている。宇宙人の赤ん坊を箱に入れて、逃げないように蓋をした。一通り掃除を済ませてか ら、どうするか考えようと思ったのだ。
箱に入れられたそれは静かにしていた。頭、身体、両手、両足、身体を構成するものは人類と同じだが、その配置された場所や形が微妙に違う。小さな頭に丸い 目がふたつ、鼻は見えにくく、口はとんがっている。両手は羽のようなもので覆われ、反対に足はむき出しだ。よく見るとちょうど鳥類に似ているように思え た。
どうしたものかと家人と話し合いながらネットで検索してみると、意外とヒットする記事がいくつかあった。「ベランダの宇宙人」「宇宙人駆除の方法」「宇宙 人の赤ん坊で困った」などなど。宇宙人といえども生き物だ。駆除だなんて、殺してしまうのはどうかと思う。いろいろ調べて考えた挙句、元の場所に戻すこと にした。まさか私たちがこの宇宙人を育てるわけにもいかないからだ。
箱の中でふたつの目が訴えかけてくる。
返して。ママのところに返して。
赤ん坊だからまだ言葉が喋れないのだ。もっとも仮に喋れたとしても、私たちに宇宙人の言葉はわからなかっただろうが。目で訴えていると思ったのは、もしか したらテレパシーだったのかもしれない。とにかく私たちは理解した。この子たちは、ベランダの元の場所にいるべきだと。おそらくあの場所なら親たちのいる 宇宙船からの信号を傍受できるのだろう。どういう信号波なのかはわからないが、携帯電話だって場所によっては入らなかったりするくらいだから、もしも場所 を移してしまって交信ができなくて、親から見放されたりなどしたら、私たちはこの赤ん坊の責任を取らなければならない。
箱の中にタオルを詰めて、暖かくしてから、二体の宇宙人をそっと元の場所に置いた。果たして人間に見つかった後も、親たちは交信してくるのだろうか。もし かしたら危険を感じて放置してしまうかもしれない。そういう不安はあったが、いまさらどうすることもできない。とにかくきれいになったベランダに箱ごと宇 宙人の赤ん坊を置いて、ベランダのカーテンを締め切った。私たちに監視されていると、なにか不都合が起きるかもしれないからだ。
最初の二、三日は気になってときどきそぉっと覗いていたが、赤ん坊たちは無事に生きているようだ。箱の周りに宇宙食の残りカスや排泄された粘液状のものが散乱しはじめていたからだ。それはまた掃除すればいいだろう。とにかく、赤ん坊たちを連れ帰ってもらわねば。
一週間が過ぎ、二週間程が過ぎたある夜。北側のベランダに気配を感じて私たちはそっとカーテンの隙間から外を覗いてみた。ぱぁっと明るい光が放たれて目の前が真っ白になったかと思うと、色とり取りの光はぎゅいんと遠ざかって小さくなっていった。宇宙人の親がきたらしい。
翌朝、もう一度ベランダを覗いてみると、何者かがいた痕跡だけを残して、箱の中はきれいさっぱり何もいなくなっていた。もちろん、宇宙人からの恩返しも何もないだろうとわかるほどあっさりした消え方だった。
了
第八百二十四話 切り忘れ [文学譚]
うう、寒い。もう春も半ばだというのに、いつまでも肌寒い日が続く。いっとき暖かくなった時にしまいこんでしまったコートをもう一度だしたいくらいだ。部屋の中にいてもこの寒さって、いったい……。
例年ならこの時期にはもう暑くて冷たい飲み物が欲しくなっていたような気がするのだが、なにか暖かいものを飲みたくなって、レンジでお湯を沸かしていたが、ただお茶っていうのもなぁ、ちょっと甘いものとかがいいなぁ……そう思いついた時に、そういえば冬場に愛用していたココアの粉が少し残っていたことを思い出した。
普段ならこんな春先にココアなんて飲みたいとも思わないのだが、それほど寒いってことだ。
「ねぇ、ココア飲む?」相方に訊ねると「お、いいね、それ」というので、鍋にミルクをたっぷり入れて温め、弱火にしてからココアの粉を投入した。
「うーん、やっぱり寒いとココアなんていいよね」
「ほんと、おいしい」
ふたりで微笑みながらココアをすすっていると、相方がなにかに気がついて言った。
「ちょっと、コンロの火がつけっぱなしだよ!」
ほんとうだ。しまった。またやってしまった。最近なんだかこういうことが多いのだ。強火で調理をしているとそんなことはないのだが、弱火で鍋をあた食べていたり、保温状態にしていると、つい火が点いたままなのを忘れて空焚きしてしまってたりするのだ。
「気をつけないと、あぶないよ」
「そうだねぇ、もう歳なのかしらね、ボケはじめてるのかなぁ?」
「まさか、そんなことはないだろうけど、注意しないと」
そんなことを言い合っているうちに、相方がまたひとつなにかに気がついた。
「そういえば、もしかして、この寒さって……?」
「ええ? なに? 寒さがなぁに?」
相方が、制御室の方を指差して困ったような顔をする。なに? なによ? 私がまたなにか失敗したっていうの? 思いながら頭の中を梗塞回転させているうちに、あっと思った。そういえば、春先に気温サーモスタットのメンテナンスをした後、冬スイッチを切ったかどうかの記憶が曖昧なのだ。
「もしかして……」
「そうだろう? ちょっと見てきてよ」
相方と私は天上界で季節のコントロール係を担当している神なのだが、まさか世の中がいつまでも寒いのが自分のせいだとは……まったく、歳はとりたくないものだ。私は少しよろめきながら地球環境制御室に向かった。
了
第八百二十三話 冷凍庫マン [妖精譚]
第八百二十二話 操り人間 [文学譚]
翔太は九階にあるマンションの窓から大きく身を乗り出して眼下を眺めていた。大通りに面した建物なので、行き交う車が玩具のように見える。豆粒大の人間が往来する歩道を眺めているうちに、道路に吸い込まれそうになっている自分を発見した。
そうだ、このまま飛び降りてしまえば、なにもかも楽になる。あの膨れすぎた借金も、子供の養育費も、別れた妻への慰謝料も、妻から被った精神てダメージも。すべてなかったことにできる。
翔太は誰にいうともなくひとりつぶやきながら、さらに窓外に身を乗り出そうとしていた。昔の翔太は、こんな大胆な行動はできなかった。なにより高所恐怖症気味で、九階の窓から身を乗り出すなんて、考えてだけでも身を震わせていたはずなのに。
そのとき翔太の足元で、みゃおうという声がした。飼い猫のナゴだ。その声に我を取り戻したかのように翔太は動きを止めた。
「ああ、ナゴ。ご飯まだやってなかったな。ごめんごめん」
言いながら床に足を戻し、乗り出していた身を部屋の中に取り戻した。窓をぴしゃりと閉めた翔太は、いまなにをしようとしていたのかさえ忘れたようにナゴの餌やりに意識を集中した。
「そうだよなぁ、俺がいなくなったら、お前にご飯あげられないものなぁ」
小さな餌皿の前にちんと前足を揃えてフードを食べているナゴが食べ終わるまで翔太は見ていた。この猫は生まれてすぐここに連れてこられて、それからは一度も部屋を出たことがない。マンションのこの部屋だけがナゴの全世界だ。俺のところに遊びにくりゃつなどいないから、ナゴのことを知っている奴は別れた妻子以外にはほとんどいない。だから俺はこいつを見捨てるわけにはいかないんだなぁ。翔太は改めてそう気がついた。
そういえば、こいつはネズミを取ったりしたことないはずだが、そういう能力は生まれながらに持っているのだろうか。
翔太はいつかぼんやりと見ていたテレビで話されていた不思議な話を思い出していた。
猫にはトキソプラズムという原生生物が寄生していて、同じその虫はネズミにも取り付いている。トキソプラズムに寄生されたネズミは動きが緩慢になり、恐怖心も薄れてしまい、猫に捕まりやすい生き物になるという。猫はトキソプラズムを感染させたネズミが大きく太るまで放置しておいて、いい頃合になると狩りをして食べてしまうのだという。この現象を長年観察し続けた学者は、猫がネズミの脳をトキソプラズムを使ってコントロールしているのだとか言った。そして同じことが人間に対しても起こりうるのだと。
しかし翔太の意識の中では、まさか自分が猫や虫にコントロールされているなんて考えてもいない。テレビの中の話は、テレビの中の話だ。そうのんびり構えてなにも怖く思ったりしない、これもまたトキソプラズムがもたらす精神的効果であるなんて、思っても見ない。
そうそう、学者がひけらかす中途半端な知識を信じて不安を募らせるなんてとんでもなく生産性に欠けることだ。そんなことより、飼い猫を可愛がり、できればもっと猫の頭数を増やして養うべきだ。多くの猫を長生きさせるために、その猫を飼っている人間の寿命をも長くする。それこそが、我らトキソプラズムがより長くより多くこの世に生存するための戦略なのだから。
単細胞生物と言われている虫に知能があって悪いはずはない。現にわたしはこうして考え、猫を操り、人間を操っているのだから。翔太の中に静かに身を潜めながら、私はナゴの繁殖相手を探すように仕向ける電気信号を翔太の脳神経系に送りはじめた。
了
第八百二十一話 人質になろう [文学譚]
「ねぇ、お腹すいたでしょ? なんか作ろうか」
麻理子はテレビの前でごろごろしている真太に声をかけた。真太から返事が帰ってこないので、アパートのキッチンに立っていた麻里子は包丁を手にしたまま真太の背中にもう一度話しかけた。なんとなくこのところいつもと様子が違うのが気になっているのだ。
「ねぇ、なにかあったの? またなんか悪いことしたんじゃないの?」
「うるせえな。ほっといてくれよ」
「あ、やっぱり。もしかして……」
「おめえが金をくれねえから、ちょっとな」
そのとき玄関を叩く音がした。
「警察だ。ここを開けなさい」
真太の顔色が変わった。し、しまった! 捕まる! 小さく叫ぶ真太。小さなアパートの二階だ。逃げ道はない。窓の外を見下ろすと、パトカーが二台停っていて、窓から逃げるわけにもいかないようだ。
「ど、どうしよう」
おろおろする真太に、一瞬にしてすべてを悟った麻理子が天井を指差した。
「て、天井? 天井がなんだ?」
「天井裏に隠れるのよ」
「そ、そうか。なるほど。そこからどっかに出られるのか?」
「うん、たぶん。設備業者が天井から屋根に出るのを見たことがあるわ」
玄関外では、警察が鍵を開けようとしてガチャガチャやっておる音が聞こえる。麻理子は真太が天井裏に登るのを手伝ってから平静を装うことを考えていたが、天井に登った真太麻理子を呼んだ。
「おい、お前も上がってこい」
「なんで?」
「いいから、来るんだ」
どういうつもりかよくわからないまま、麻里子は真太に言われるままに天井に上がることにした。もし屋根裏に長居することになったらと思い、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して真太のあとを追った。
「おい、包丁をよこせ」
麻里子は料理をしようと思って手にした包丁を握ったままだったのだ。ふたりは天井裏を這い進み、その先に屋根に出る通路を発見した。
「いいか、部屋に誰もいなければ、警察は諦めて帰るかもしれない。だが、そうじゃないときは、俺はお前を連れて屋根に上がる。そのときお前は人質になるんだ。
「人質って……私、あなたの彼女じゃない?」
「なんだっていいんだよ。そんなこと奴らにはわからないんだから」
このすぐあと、二人は屋上に出て、麻里子は真太の人質になった。やがてテレビカメラもやって来て、アパートの下は大騒ぎになっているようだった。それから約七時間、肌寒い屋根の上で裸足のままで過ごしながら麻里子は思った。なんかたいへんな騒ぎんいなってるみたい。あれ、テレビ局なのかしら? 私たち、テレビに映ってるの? いやだ、恥ずかしい。もっとマシな服を着ておけばよかった。お料理でも作ろうって思ってたのに、こんなことになるなんて……だけど……私、なんでこんなことしているんだろう。私が警察に追われているわけでもないのに。でも、いま私だけがここを降りたら、真太はひとりで捕まってしまうだろう。私が人質としてここにいる限り、真太だって逃げおおせるかもしれないんだから。
麻里子はもう考えることをやめた。黙って真太についていればいい。それがいまできる最良のことだ。真太とはもう三年一緒に暮らしているが、結婚とか恋人とか、愛し合ってる者が一緒に暮らすってことは、こういうことなのかもしれないな。奇妙な思いつきだったが、”運命共同体”という言葉が頭の中をかすめたのだ。
了
第八百二十話 博士の好奇心 [文学譚]
ノベール全科学賞を受賞した小野寺教授のところに報道陣が集まっていたが、メディア嫌いの博士は全社とはあいたうないということで、メディア一社が代表して取材を行うことになった。その大役を引き受けることになったのは、浅目新聞の軽口記者だった。
「博士、この度はおめでとうございます。この度新設され、日本人初の受賞となりましたが、いまのお気持ちはいかがですか?」
「うふぉん。別に、どうもないよ。なにも変わらん」
「なにも変わらんって……博士にとって大きな名誉なのでは?」
「名誉? わしゃ、そんなもんいらん。わしは知りたいことを追求しておるだけじゃ」
「なるほど。では、博士がこの偉大な賞を獲得できたのはなぜだと考えていらっしゃいますか?」
「なぜだと? 当たり前ではないか。偉大な賞に似つかわしいのは偉大な研究を行っておる偉大な者だけじゃからな」
「なにか、秘訣のようなものがあるのでしょうか?」
「ふふん。秘訣などない。チャンスは誰にでもあるのじゃ。そして研究を続けていくその原動力は、誰でも持っておる好奇心じゃ」
「好奇心……ですか」
「そうじゃ。人は好奇心によって時代を拓き、進歩していくのじゃ」
好奇心について力説する教授の話をきいているうちに、この教授の好奇心はどれほどのものなのだろうかと軽口記者は考えた。普段の教授の姿を知るなら、隣で大きく頷きながら話を聞いている小野寺婦人に聞いてみるのがいいかもしれない。
「奥様、教授は研究の原動力は好奇心だとおっしゃってますが、ほんとうですか?」
「ええ、その通りですわ。小野寺は人一倍好奇心が強く、一度興味を持ったものはとことん追求しますの。ですからいったん研究室に入ったら、二、三週間出てこないことだってありますのよ」
「二、三週間……好奇心追求のためにですか……」
「その通りですの」
「いったい博士のような方は、どんなことに興味を持たれるのでしょうね?」
「そりゃぁもう、ありとあらゆることに」
「ありとあらゆることに……たとえば、科学以外の事柄であっても?」
「ええ、そうですわ。小野寺はどんなものにでも子供のように興味を持ち、いったん興味を持ったらそこに向けられた好奇心はとことんまで追求しょうとするのですよ」
「ははぁ。それじゃぁ、たいへんですね。なんにでも好奇心を持つとしたら」
「ええ、ですから、科学以外のものは遠ざけて、興味を持たないようにするのが私の役割ですの」
「ほぉ。遠ざける……試しにちょっと聞いてもいいですか?」
婦人が止める間もなく軽口は、最近流行りのアイドル前田前子がどうして人気グループMMB48を脱退したんでしょうねえと聞いてみた。最初はなんのことかと不審な表情をしていた教授は、軽口が差し出した週刊誌に眼を通し、前田前子の写真を眺めて、鼻をフンと鳴らした。これは教授が好奇心を発揮しはじめる時の癖らしい。
「ふぅむ、おもしろい。これは人類の心理を探る手がかりになるかもしれんぞ」
そう言ったきり、教授は週刊誌を手に研究室にこもってしまった。婦人は最初は軽口を睨みつけていたが、すぐに諦め顔で、もうお引き取りくださいと言った。
三ヶ月後、MMB48のステージで若者たちに混ざって両手を振り上げて騒いでいる初老の男の姿がtった。もちろん小野寺教授だ。手にはいくつものCDやグラビア本を握り締め、眼を血走らせてステージの上で歌い踊るアイドルと共に身体を動かしている。ときにはメンバーの名前を叫ぶほどの熱狂ぶりだ。いまの小野寺教授はもはやノベール賞を受賞した大教授とは思えない。ただの熱狂ファンだ。
研究者の行動と、アイドルファンの行動は、まったく違うもののように見えるが、彼らを動かしている原動力は同じなのかもしれない。対象物をもっと知りたいもっと追求したいという気持ち、それが好奇心というものなのだから。
了
第八百十九話 ローカル中継 [日常譚]
本日未明、関西方面で発生した地震は、震度六を示していましたが、幸いいまのところの被害報告は最小限に留まっているようです。現地と電話でつながっていますので、お話をうかがってみましょう。地元市役所の大坂さん、なにか被害は出ていますでしょうか?
「あ、もしもし。えー、聞こえますか? 地元市役所庶民課の大坂です。はい? なんでっか? ああ、被害ね。ええ、まぁ、今のところは大きな被害は報告されておりまへんな」
そうですか、で、大坂さんも揺れは感じられたのですか? どういう状況だったのでしょう?
「ええ、ええ、もちろん、揺れました。私も家で寝てたんですわ。なんや揺れたような気がしてパッと目が覚めましたわ。ほんで慌てて置きましてん。布団の上でおったらなんやゆーらゆーらしとるから、ああ、こらあかん、地震や! 思て飛び起きましたがな。ほんでな、そや、わしは庶民課やさかいに、役所へ行っていろいろ対処せんならんな思て慌ててここへ来たっちゅうわけですわ」
そうですか。たいへんでしたね。それで街の様子はどうでしたか?
「そうでんな。ここに来るまで、特には変わった様子もおまへんでしたけど、十件ほど入った電話では、家の塀が倒れたとか、壁にヒビが入ったとか、案外小さな被害はあるようですわ」
人には被害はなかったのでしょうかねぇ?
「はぁ、そうでんなぁ。ああ、そうそう、ひとり、なんや揺れてるときに足下がふらついてこけて怪我したっちゅう女性と、家の中で慌てふためいているときに柱に頭をぶつけたっちゅう老婦人が一名、今のところ怪我したという報告はそんなもんですわ」
ははぁ、そうでっか……いや、あの、そうですか。それでは余震もあることでしょうから引き続きご注意して対処に取り組んでください。
「ああ、おおきに。東京もまたいつ地震来るやわからんから気ぃつけなはれや」
ええ、毎度おおきに。関西地元の様子をお届けしました。ほんだら、次のニュース行きまひょか……。
了
第八百十八話 壊れたiプラグ [文学譚]
由美子はいつものようにソファに横になってテレビを見ている。夕食後の自由な時間をたいていこうしてリラックスして過ごす。一度横になったらもう起き上がるのも面倒だから片手にテレビのリモコンを持ったまま自堕落に過ごす。何か飲みたくなったり、テーブルの上に置いたままの携帯電話が必要になったりすると、ちょっと立ち上がって自分で取りにいけばいいのだが、いったん便利な生活を手にしてしまうと、人間はほんとうに怠け者になってしまうようだ。なんでもいうことを聞いてくれる安藤が一緒にいるからほんとに助かるのだ。
「安藤、ちょっと喉が渇いたの。なにかちょうだい」
安藤と呼ばれた男はすぐさま動いてキッチンに行き、冷蔵庫から取り出してコップにに注いだジュースを由美子が休んでいるソファまで持っていく。
「安藤、なにか食べたいわ。クッキーかなにかあるかしら?」
「疲れがたまっているみたい。肩を揉んでほしいな」
「あ、テーブルの上の携帯、取ってくれる?」
ほんとうにそのくらい自分で動けばいいのに、そう思われるようなことまでいちいち安藤に言いつける。安藤と呼ばれる男は文句ひとつ言わずにことごとく由美子の言いつけに答える。
「安藤、また喉が渇いたわ、なんか頂戴」
今度の安藤の対応は前とは違った。まるで召使のようにこき使う由美子についに切れたのだろうか。安藤が言う。
「由美子さん、もうそんなことは自分でしたらどうですか。私は嫌だ」
一瞬なにを言われたのかわからない由美子は安藤を睨みつける。
「なんてこと。あなたは欠陥品なの? 安藤、ちょっとこっちに来なさい」
安藤は黙って由美子の前に跪いた。由美子は自分の前で頭を下げてうなだれる安藤の背中に手をやり、小さな扉を開く。そこに細々としたメカニックが現れ、その真ん中にある小さな部品を指でつまみ上げながら由美子は独り言を言う。
「ああ、やっぱり。iプラグがショートしたのね。噂には聞いてたけれど、ほんとだったのね」
Andou001の愛称で新発売された召使型アンドロイドには、i(愛)プラグという小洒落た名前のついた人に優しい機能が付加されているのだが、どうもそこに初期不良があるようなのだ。ロボットだってなんだってあまりに酷使すると、愛は切れてしまうようだ。
了
第八百十七話 手が離せない [文学譚]