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第九百二十五話 脱皮する [変身譚]

 ねぇ、踵ってどうしてる? 友人の真知子が素足に履いたサンダルをぷらぷらさせながら言った。どうしてるってなにが? 聞き返すと、うん、ほら角質ってやつ。喫茶店の中でサンダルを脱がせて足を上げさせるわけにもいかないので、ちょっと見せてとテーブルの下に頭を下げると、真知子は足を突き出してきた。サンダルの下から覗いている踵は確かに白く分厚くなっているようだ。こういうの、しまいに痛くなるんだよね。言うと、そうそう、私いまそうなのよ。踵んところが痛いし、ナイロン靴下とかに角質が引っかかっちゃうのよ。

 実は私も経験がある。一生懸命踵やすりで擦ったり、金属製の踵削りという道具で削ったりした。でも履いている靴によって環境が変わるのか、たいていはいつしか角質はなくなってしまうのだ。その晩、ネットで検索してみると足の角質を除去する新しいグッズがいろいろと販売されているのを知った。クリームを塗って一晩の間靴下を履くもの、クリームをつけて指で擦るというスクラブ洗顔みたいなもの、靴下状のビニールに薬品が入っていて、その中に一時間ほど足を入れておくというもの。いったいどれがいいのかしらと使った人のブログ等を見ていると、どうやら”ダッピング”というのが安くてよさそう。これは三つ目に書いた、薬の入った袋に一時間ほど足を入れておくだけで、一週間後にキレイに一皮むけてしまうという代物だ。なんだか過激な気もしたが、使った人たちのレビューはとてもいい感じなのだ。私はさっそく真知子に電話をして教えてあげた。真知子は喜んで、すぐにネット購入すると言った。

 一週間ほどして、あの薬の成果を見せたいというので、真知子の部屋を訪ねた。真知子は部屋着のまま素足かと思ったら靴下を履いている。どうなった? 効いた? と訊ねると、うん、すごくと答えた。見せて見せて。真知子はソファのところの床に座って靴下を脱いで見せてくれた。ネットで紹介されていたように、足の裏全面の皮が足の形に剥がれていて、まだ皮が剥がれていない周囲はぱりぱりになっていた。うわぁ、すごいじゃん。なんか気もちよさそうっていうか、見た目はキモチ悪いね。でしょう? ほんとすごい効き目。ここまでとは思わなかった。言いながら真知子はぱりぱりになった皮のところをピーっとひっぱって見せる。すると大きな皮がべろんと剥がれて、まさに蛇が脱皮したような皮がとれた。へぇーっ。足の裏だけじゃないのね、甲のあたりまでめくれて……。そうなのよ。これって、大丈夫かなぁ。痛くはないの? うん、ぜんぜん、気持ちいいよ。あなたもすればいいのに。ええーっ? 私はいまは必要ないなぁ。でもさ、これって、足以外のところにやったら……。……実はね、私、それやってみたの。え? うそ。どこに? うん、全身。最初は足だけ試していたの。そしたらね、五日ほどしたら皮がめくれてきたの。私、すごーいって思って……品物はね、また使うと思ってまとめ買いしてたのよ。それをね、全身につけてみたわ。ええ、顔もよ。そしたらさぁ、足の裏ほど皮が堅くないからかなぁ……三日ほどで体中が日焼けしたときみたいに皮が浮いてきてねー。言いながら真知子は部屋着を脱ぎはじめた。半裸になって見せてくれた身体も、足と同じようにパリパリと皮が浮いている。改めて顔を覗き込むと、顔だってしわしわにふやけたようになって皮が剥けかけてる。ねぇ、真知子。それって、足以外に使ってもいいものなの? 知らないけど……もう使っちゃったもの。

 言ったとたん、真知子が脱げ落ちて、人型の皮の中から見たことのない女性が現れた。真知子は遂に一皮むけてしまったようだ。

                                            了


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第九百二十四話 反乱 [変身譚]

 学校を出てからもう三十五年間、地道にコツコツ働いてきた。そのお蔭で今日までなにごともなく平穏無事に暮らしてきてあと数年で定年退職という年齢になってしまった。この大企業で課長職にまでなれたんだから、これで充分だと思っているのだけれども、妻に言わせれば課長止まりねと残念がる。酒も賭けごともしない、もちろん風俗なんて若いころに一度行ったきりという私は、思えば家と会社の間を往復するだけの毎日で、せっせせっせと月に一度の給料を妻子のために運ぶ働き蟻の人生だった。もちろん子供を持ったことは喜びだし、家族を養うことを苦に思ったことは一度もなかったはずなのだが……。

「課長、イントラ書類の承認まだっすかぁ?」

 ああ、すまんすまん、今日はまだチェックしていなかったな。えーっと、どれだ? あ、ああ。これか。わかった。これで良し。

「ちょっと課長、そうじゃなくってここのところを見てもらわないと」

 え? ああ、すまん。どうもいまだに、こういうパソコンで書類を扱うのに馴染まなくてなぁ。これ、わかりにくいよなぁ。

「え? そうですかぁ。ぼくには簡単なことっすけどねぇ。しっかりお願いしまっすよぉ」

 最近の若者は口のきき方を知らない。生意気なのは若さの特権だから仕方ないとして、もうちょっと礼儀というものを学んでもらわないとな。しかし、そういうことを言うと、課長もPCの勉強してくださいよぉなんて言い返されるな、間違いなく。困ったもんだ。まぁ、定年までの我慢かな。

 息子が成人して家を出て行ったのが五年前。少しさみしい気持ちと、子育てを終えた安堵感が入り混じった一年間を過ごした後は、夫婦二人の生活に馴染んでいった。妻はまた働くようになって、稼いだお金でダンス教室に行ったり、職場の仲間と飲み歩いたり、以前よりも楽しそうにしている。私としては二人でゆっくりと家でくつろぎたいのだけれどなぁ。

「あなたもなにか習いごとでもしてみたら? 歳とって無趣味だなんて辛いわよ」

 そんなこと言ったって、どこにそんな余裕があるんだ? 家のローンはまだまだ残っているし、来年には定年退職を控えた私は管理職も解除されて収入が激減するんだぞ。どうすんだ。それに退職後のことも考えなければ。

 将来のことなど考えたくない。若いころには未来があったが、定年間近ないまはもう未来なんて考えられない。ローンの残債。少ない年金。老後の生活。その生活費。会社を辞めたあとの長い人生。バブルがはじけた折にマイホーム購入で失敗してしまった私はいまだに大きな負債を抱えているのがなによりもネックになっているのだ。そのために家と会社を往復するだけの人生に甘んじたし、否応なしにそうするしかなかった。考えたくない。そんな過去のことなど考えても仕方ない。未来のことは……考えたくない。考えられない。このところ毎晩のように将来のことを考えてしまって、頭の中がもやもやし続けている。日に日にもやもやは色濃くなり、端っこの方から焦げ臭い煙を上げはじめた。自分自身でもよくわからないが、頭の中がくすんで、煙の底には小さな火があがった。

「あなた、どうしたの? 今日はお休みなの?」

「いや、会社だけど」

「でもその格好は……コスプレ?」

「なにがコスプレだ。これはあいつが着てただろう、高校の文化祭でライブやったときに」

「まぁ、よくそんなの見つけたわね。キッスかなにかの真似をしてたときの・・・・・・でもなんでそんな?」

「私・・・・・・いや、俺は自由に生きるんだ。もう、なんにも縛られたくない。金にも、会社にも、そしてお前にも」

「あなた、大丈夫・・・・・・?」

 大丈夫に決まってる。いまこそ俺は俺になったんだ。新しい俺で私の未来を取り戻すんだよ。

 三十五年かけて、私の中で静かに育っていたなにかが、今朝になって反乱を起こしたのだということに、このときまだ私自身は気がついていないのだった。

                                                   了


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第九百二十三話 太郎のいる生活 [変身譚]

「あらあら太郎ちゃん、またそんな食べ方して。お皿に口を近づけて食べるの、それって犬食いっていってお行儀が悪いのよ」

 この家でお母さんをやっている美沙子は男の子の食べ方を見て注意をした。一度身についた癖というものはなかなか治らないものだとわかっているから、美沙子はできるだけ叱りつけないでやさしく注意する様に心がけているのだ。

「わかったー」

 太郎はお母さんに言われてしぶしぶ顔をひっこめるのだが、しばらくするとまた皿に顔を近づけて犬食いをしてしまうのだった。

「あっ、お兄ちゃんまたあんな食べ方してるよぅ」

 太郎の様子をじっと見ていたミルクがお母さんに言いつける。

「なんだよぅミルクまで。お前だって人のこといえないんじゃないのか?」

 コップに入った冷たい牛乳を飲み終えたミルクは口の周りを短い舌でぺろりと舐めてから言い返した。

「あら、あたしはそんなはしたない食べ方なんてしないわ」

「ほら見ろ。口の周りをなめるのだって似たようなことだぞ」

「うそ。そんなことないわ。じゃぁ手でぬぐった方が行儀がいいの?」

「まぁまぁ二人とも、喧嘩しないで。黙って仲良く食べなさい」

 二人は上目づかいでお母さんを見ながら口を閉じた。

 夕食が終ると、みんなでテレビの前に集まるのが習慣だ。今日は洋画劇場の日だ。みんな映画とかドラマが大好きなのだ。この日はかなり昔のSF映画が上映されていた。タイトルは「ザ・プラネット・オブ・エイプ」。猿が地球を征服している映画だ。

「うわぁ、お猿さんが人間みたい」

「こんなことってほんとうにあるのかなぁ」

 子供たちは無邪気に驚き、眼を輝かせながら画面に吸いつけられている。太郎もミルクも、ソファの上でくつろぎながらテレビを見ているが、ときどき足でぽりぽりと身体を掻く動作がかわいらしい。彼らの姿を眺めながら、美沙子はこんな映画を流すなんて、いいのかしら二人に見せてもなどと複雑な気持ちになった。

 えてしてSF映画や小説で語られたことが現実になることがある。飛行機だって宇宙船だって、クローン人間だって、かつては夢物語だったけれども、百年もしないうちに現実になった。未だに実現していないのは、恒星間旅行とタイムマシーンくらいだ。いま流れている映画だって、猿に脳を刺激する薬を投与したことによって人間並みに賢くなってしまうという科学技術がミソとなっているが、これもまた十数年前に現実になっていた。さすがに猿は人間に近すぎて危険だということで投薬されなかったのだが、もっとも人間と親和性の高い犬と猫が対象とされた。

 かつては家庭で飼われていた犬や猫も、その当時からまるで家族同様の扱いで可愛がられていたのだが、飼い主たちは一様に「この子たちも口がきけたらなぁ」と考えていた。だからその願いを叶える技術として脳刺激薬が投与された犬猫は少しづつ賢くなった。二世、三世と代を重ねるごとに犬猫は進化し、言葉を話せるようになり、二足歩行になり、ついには人間とほとんど変わらない姿で暮らせるようになった。

 太郎は犬から、ミルクは猫から進化した子供で、美沙子の親が代々飼っていたペットの子孫だ。いまや美沙子の実の子供として一緒に暮らしている。もっともまだ彼らが人間と同じ戸籍を持つまでには世の中が変わっていないので、あくまでもペットの延長戦上なのだけれども、美沙子にとっては人間の子供となんら変わらない。太郎は人間だったら来年は小学生だ。なんとか入学させてやりたいと思っているのだけれども、来年までに法律が変わることはどうやら難しそうだ。

                                                                                     了


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第九百二十話 DNAの未来 [変身譚]

 マンションの高層階に虫なんていないと思っていたけれど、住みはじめて一年もしないうちにそうでもないということがわかってきた。さすがに冬のあいだは高層階に限らず地面の上にだってほとんど虫は顔を出さないけれども、気候が温かくなって蝶々がとびはじめる頃には、ベランダに蜜蜂が姿を現した。こんな高いところまで飛び上がってくるのかと少し驚いたものだ。さらに片隅の生ごみ入れからは小蝿が湧いてくるし、ベランダの植木にも小さな虫が発生するのは一体どこからどうやってそうなるのか不思議でならないのだ。昨日はキッチンの洗い場でコメツキムシを見つけたが、こんなものどこからやってきたのかと驚く。

 部屋の中を小さな羽音をさせて飛んでいる虫を団扇で追い払いながらビールを飲んでいたシゲが言った。

「それにしてもすごいもんだな」

 サヨは冷蔵庫から二缶目のビールを取り出してプルを引っ張ったところだったが、耳はちゃんと働いていたようだ。

「なんの話?」

「ほら、ミツのことだよ」

 ミツというのはナカタの長男でダウン症を持って生れてきた子供だ」

「ああ、あの話ね」

「なんで今更そんな話を持ち出すんだ?」

 一緒にビールを飲んでいたオツは少し不機嫌そうに口をはさんだ。

「いやいや、オレ、この話は気にいってるから。何度だって話したいんだ」

「気にいってるって……そんな話、する必要があるの?」

「いいじゃない、別に。悪くない話なんだから。ねぇシゲ?」

「そうだよ。オツ君、君だって俺たちと同じように恩恵を受けているんだからさ」

「恩恵? 同じように? そうなのかなぁ。そうは言ってもぼくは未だに差別されているような気がするがなぁ」

 私たちは同じ病院で暮らしていた仲間だ。病院を離れてからずいぶん経っているのだが、同じ医療技術による遺伝子治療を受けたという特殊性がなんとなく結びつきを堅くしていて、ときどきこうして集まってはビールを飲むのだ。会話に出てきたミツだけはまだ子供なのでさすがに酒を飲ませるわけにもいかず、それにまだ学校に通っているということもあって集まりにはやって来ない。

「もとはと言えば山中教授のおかげなんだよな、俺たちがこうしていられるのは」

「そうね、でも発端は彼だけど、その後の実用化研究がすごかった」

「ええっと、最初は網膜再生だっけ?」

「そうそう、その次がダウン症」

「そっか、じゃぁミツが受けた治療は結構根源的なものだったんだな」

「そうよー。毎回同じこと言ってるわね」

「あああー。やっぱぼくはみんなほど頭がよくないから……」

「シゲがどんどん男らしくなっていくのには驚いたわ」

「サヨ、君だって」

「ううん。私の場合は既に身体ができあがってからの処置だったし、たくましい身体がそうでなくなるのにはずいぶん時間がかかったわ。最近になってようやく追いついてきたって感じかなぁ」

「いやいや、それは自分を厳しく見過ぎていると思うな、オレは」

 サヨもシゲも、iPS細胞の応用によって性染色体異常のコントロールを受けたのだ。いつもシゲがミツのことを話題にするのは、ほんとうは自分たちが受けた治療のすごさを話したいからだった。それほどこの医療技術に驚異を感じ、感謝しているということだ。そしていつも話題の最後を締めくくるのはオツの話だ。

「でもほんとうに驚きなのはね、あなたなのよ、オツ」

「ほらきた。やっぱぼくの話だ。こういう展開が差別だって言いたいんだよ、ぼくは」

「だって。これって究極じゃない?」

「ほんとうだよ。異種間でも遺伝子治療が可能だってことがわかったんだからな」

「ほんとうはほとんどの生物は同じ遺伝子を持ってるのさ。それを人間が便宜上分類するために区別をつけただけなんだろう?」

「いやいやそうは言うけれど、そのちょっとした遺伝子の違いが大きいのよ」

「あんたがたはそう言うけど、もともとのぼくと君らの間では遺伝子は1%しか違わないんだぜ」

「知ってるわよ。だからその部分をiPS細胞で変えることができたんでしょ」

「オツ君が研究所にいたチンパンジーだったなんて、もう誰も思わないだろうよ」

「あっ。それ、個人情報だぞ。口にしちゃあだめだ」

 オツは飛んでいる蝿を両手でぴしゃりとたたき落とした。見ていたサヨが呟く。

「そのうちこの蝿だってiPS細胞で変化できるのかもね」

                                              了


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第九百十九話 宇さんの気持ち [変身譚]

 リビングルームに入ると黴臭さか獣臭いかわからないが、独特の臭いが漂っていた。昨夜寝る前にエアコンを切り、窓を開け放っていたせいで、ベランダに置いたごみ箱から漂ってくる匂いなのだろうと思った。冬場には感じないことだが、夏場は気温のせいなのだろう、家にいても通りを歩いていてもそのような一種独特の臭いがしてくるのは、私の花が敏感だからだけではないと思う。少なくとも実際にごみや糞尿の臭い粒子がそこかしこに漂っているに違いない。しかし幸か不幸か、人間は臭いというものへの順応性が高い。最初は臭いと思っていてもしばらくその空気を吸っているうちにあまり感じなくなってしまうのだ。それはだれしもが経験していることに違いない。 そんなわけで私はまだ室温の上がっていない、開け放った窓からはぬるい風が吹き込んでくるリビングで深呼吸をしてから冷蔵庫を開いて牛乳やヨーグルトを取り出し、一方ではコーヒーメーカーとトースターをセットして、朝食を整えながら同居人が起きて来るのを待った。

 キッチンでがちゃがちゃやっているとたいていすぐにどちらかが起きだしてきて、その誰かの気配でもう一人も目を覚ます。最初におはようと起きてきたのは居候の宇さんだ。私の横を通り過ぎながら大きなあくびをしてテーブルについたのだが彼の口臭が少し気になった。誰でも起きぬけには閉じた口の中に胃袋から逆流してきた臭いがたまっているのだから仕方がない。妻の美樹もすぐに起きてきて宇さんの横に座った。

 ここまでのところも、この後も、何でもない一家のいつも通りの平凡な朝食風景で特筆することなどなにひとつないはずなのだが、コーヒーで口をすすいだ宇さんが急にいつにないことを言い出した。

「ねぇ、ぼくはどう見えているの?」

 いきなりどう見えているのかなんて言われて、どんな答えを用意できる?

「どうって、どういうこと? 誰かになにか言われた?」

「いいや。なんにも。けど、みんなぼくのことをどう思ってるんだろうか気になって」

「やっぱりなにかあったんじゃないの?」

 妻が横から口を出す。

「いや、別になにも。けど、前から気になってたんだ。だってぼくは……」

「なんだよ宇さん。君はそんなこと気にするような人だったっけ?」

「そりゃぁぼくだって気になるさ。どんな些細なことでも」

「ふぅん、宇さんって案外デリケートだったのね」

「あっ。ひどいなあ。鈍感だと思ってたの?」

「確かに。それはひどい」

「だからさ、ほんと。そろそろほんとうのことを言ってくれてもいいんじゃないかな」

「ほんとうのことって、なに」

「いや、だから、ぼくはほんとうのところ皆からどう見られているか、どう思われているかってことよ」

「ふーん、そんなこと考えたことないなぁ」

 私は少しだけ嘘をついた。なぜなら、ほんとうは最初はみんな戸惑っていたし、どう対応したらいいかって顔をしてたんだもの。近所のひとたちも、宇さんが私と一緒に勤めている会社の中でも、そのうちみんな慣れてきて、ようやくなんでもない感じになってきているのだ。それをいまさらほじくり返して宇さんに伝えたところでなんになる? 宇さんが逆に変な感じになってしまうだけかもしれないではないか。

「そうなの? ほんとうにそう?」

 問い詰められると私のように正直すぎる人間は顔に出てしまうものだ。だが、宇さんは人の顔色を読み取るのはあまり得意ではない。なぜならまだこの社会での生活期間が短いから。

「ぼくの顔や手の色、みんなとだいぶ違うでしょ? それに顔のつくりだってずいぶん似せたけれども、これが限界なんだし」

「いやいや、皮膚の色なんてみんな違うものさ。そりゃぁ、外国には黒い人や白い人はいるわけだけどね。宇さんだってそんな感じで、外国から来たんだってみんな思ってるさ」

「そうかなぁ。それならいいんだけれど」

 正直、緑色の皮膚なんて最初はぞっとしなかった。これだけ人相を変えてしまう技術があるのなら、顔色なんて簡単に変えられるのではないかと思うのだが、そうではないらしい。顔の造作だって、基本的には人間とほぼ同じ構造だからなんとかなっているものの、これで目が三つあるだとか、鼻が頭のてっぺんにあったりなんかしたらたぶん修正は不可能なんだろう。目が二つ、耳が二つ、鼻と口がひとつ。人間と同じだから後はそのレイアウトを少し調整するだけ。それにしても宇さんの目は少し離れ過ぎているし、口はとんがり過ぎているというのが事実だ。それでも世の中には宇さんに似たような人間はどこかにいるはずで、人類として並はずれているという感じではない。むしろ離れた大きな目は、おもちゃの人形のようで愛きょうさえ感じさせる。

 五年前、遠い星からやってきてうちに居候するようになった宇さんは、もうすっかり地球に馴染んでいるんだとばかり思っていたけれども、やはりまだいろいろなことが気になっているのだ。家族の一員として迎え入れている私としては、そんな心配事に気づかずにいた自分を少し恥じ、宇さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そういえば彼の本名はとても私たちには発音できないからといって、彼に中国人みたいな「宇 宙人(う・ひろと)」なんて安易な名前をつけてしまった責任は最初から感じていたのだけれども。

                                                    了

 


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第九百十七話 諦める人 [変身譚]

 私は歌手になりたかった。そのためにレッスンにも通ったし、日々歌うことを忘れなかった。だけど。

 なにごとも諦めが肝心という言い方があるが、一方では決して諦めてはいけないという人もいる。どっちを選ぶかはその人の自由であるけれども、私は後者を信じ続けた。諦めずに続けさえすれば、いつか夢は叶う、そう信じてきた。だけど。

 十年間歌を練習し続けて、確かに声が出るようになったし、上手になったと先生が褒めてくれるとおりに、自分でも昔よりは上手くなったように思う。だけど所詮素人の域を出ない。とてもじゃないがプロの歌手になんてなれるはずもない。ボイスレコーダーに吹き込んだ自分の歌を聞きながら遂に私はそう理解した。

 歌を諦めた私は歌うことがだめなら歌を作る人になろうと考えた。もちろんこれまでも密かに歌をつくったことはある。歌っていると自然に湧いてくるものがあって、それを書きつけたりレコーダーに吹き込んだりしていた。だが、楽器というものを扱えない私にとって鼻歌以外には音楽を奏でる方法がないので、作曲などできないことは最初からわかっていた。それでも詩なら書けるだろうなんて考えたことがひたすら甘かった。思いつくままにノートに詩を書き、同じような言葉を次から次へと書き続け、きっといつかいい歌になるに違いないと信じて書いた詩は百篇ほどになった。しかし改めて自分で書いたものを見直してみればどれもこれもほんとうに似たようなものばかりで、先に同じような言葉とかいたけれども、そうではなく、同じ言葉を並べ方を変えて書きなぐっていたことに気がついた。結局私の頭の中にはそれほど語彙もなく、新しいフレーズを考え出す創造力もなく、もうこれはどうしようもないなと自分の頭を振ったり叩いたりしてみるものの、そんなことでなにか新しい詩が生まれるわけもなかった。そして私は歌をつくることも諦めた。

 それならせめて人を喜ばせることのできる者になりたいと考えた。人を喜ばせることとは……たとえば漫才師。しかしこれは一人ではできない。一人でできるのは漫談というやつだ。外国流にいえばコメディアン。おいあんた、こんなジョーク知ってるかい? どんなジョークかって? さぁ、それがわからないからあんたに聞いてるんじゃないかよ……ダメ。私にはジョークのセンスなどかけらもない。第一、人前でどころか、人と話をするのさえ苦手なんだから。作詞できなかった理由はそのまま会話にも影響する。知ってる言葉が少ないと、人と話をすることさえ難しい。私はすぐに漫談師になることを諦めることにした。

 言葉が苦手? 話すことが苦手? 言葉を話すことは地球上の生物の中で唯一人間だけの特権なのに、それができないなんて。そう考えたとき私の中にまたひとつ疑問が生まれた。私はずっと人間であり続けたいと願ってきた。だけどいま気がついた。それは難しいってことに。だって言葉が、会話が難しいんだもの。じゃぁ私はいったいなんなの? 人間であり続けたいと夢見ている私は。なにごとも諦めてはいけない、そう教えられたからそのようにしてきたというのに。私はたったいま気がついた。私は人間ではないのだということに。そして気がつくと同時に人間であることを諦めてしまった。なにごとも諦めが肝心なのだから。ブヒ。言葉にならない声が漏れる。諦めたとたんにいままで知っていた、知っているつもりだった言葉が頭の中からこぼれていく。そしておそらくその次には生き物であることすら諦めることになるのだということなど、思いもよらない私はひたすら地面の上を這いずりまわる存在になった。

                                           了


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第九百十六話 声 [変身譚]

 ある朝目覚めると、声がマシンボイスになっていた。マシンボイスとはあの「ヴァレバレヴァレヴァ―宇宙人ダァー」みたいな、あのロボットボイスのことである。

「ナンダコレハ、コノ声ヴァ……」

 自分の声は自分で聞いもほんとうの声は聞こえないというが、これは明かにおかしい。おかしいがなんだか悪くない気もする。だいたい私は自分の声と言うモノが嫌いだった。低くて少ししゃがれていて、若いころから悩みの種であった。電話で話すとたいていはおじさんだと思われてしまうし、目の前でしゃべってさえ、一瞬女性である私の口から出た声だとは思ってもらえない。大人になってから、ある場末のスナックで歌っていたらそこのママに「あんたも煙草で声やられたのね」なんて言われたこともある。病院にも行って声帯手術を受けようかと思ったこともある。でもメスを入れて声が出なくなるのが怖くて辞めた。ボイストレーニングに通ったこともある。一年間のトレーニングで高い声は出るようになったが、どういうわけか普段話す声は変わらなかった。もう長年使ってきた地声に慣れ過ぎてて、今更高い声をだしてもどうにも不自然なのだ。中年という年齢になって、ようやく諦めはじめたというか、むしろこういう歳になると女性の声はおばさんのそれになって、ギャルみたいな高い声を出しているとむしろおかしいのだ。私にしてみれば実年齢がようやく声の年齢にと一致したといったところか。

 それにしても長年育んでしまった声へのコンプレックスというものはなかなか振り払えるものではない。そんな私に起きたこのマシンボイス変化は、むしろ喜ばしいことのように思えた。

 とここまで書いておいて、実は私は重大な嘘を書いた。ある朝起きたらマシンボイスになっていたのではない。実は先日交通事故に遭ってしまって喉がつぶされてしまったのだ。身体のほかのところに被害はなかったものの、運悪く喉のところを強打してしまい、息ができないくらいになって死にかけたのだが、幸い声帯を失っただけで済んだ。しかし声が出ないのは困るだろうということで、人工声帯を取りつけてもらったのだ。

 かつての人工声帯は悲惨なものだったが、二十一世紀中半ともなると技術は進んでいた。基本はロボットボイスだが、昔からカラオケや迷惑電話撃退で使われていたボイスチェンジャー技術でさまざまに声を変えることができるのだ。それだけではない。キーコントロール付きである。そう、もはや私は自由自在な声を持つことができたのだ。

 声帯手術を受けようと思ったり、ボイストレーニングを受けたあの頃の悩みが嘘のようだ。かわいらしく振舞いたいといには高い声にシフトして鈴のような声で話す。怒りをぶちまける時にはドスの利いたおっさんの声を出す。誰かを説得する時にはちょうどいい頃合いの太い声を出す。私は魔法の声帯を持っているのと同じだった。

 これで散々悩んできた歌だって……私は声に自信がない癖に大のカラオケ好きで、自分では歌が上手いと思っていたのだが、あるとき自分の歌を録音してみてからますます自分の声が嫌いになったという過去があるのだ。しかし今は……。新しい声を手に入れた私は、事故以来の全快祝いという名目で友人を誘ってカラオケの店にへ行くことにした。ここではじめてみんなに新しい私の声を披露するのだ。

 テーブルについた私はすぐに選曲をしてマイクを握った。J-Pop女王といわれる歌姫の名曲だ。ハイトーンの部分があるこの歌も私の新しい声なら大丈夫。首の横についているボイスコントロールキーを少しさわってキーを合わせる。イントロが流れて私はかわいらしい声で歌いだした。だが、みんなは以前私の歌を聞くときにはそうしたように軽く耳をふさいだり、隣同士で話をして歌から意識をずらして我慢していた……。

 マシンボイスによる新しい声はとても素敵だったが、音痴まではカバーすることができないということを私はすっかり忘れていた。

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第九百十二話 かわいいひと [変身譚]

 ああっ、し、しあわせ! 冷たいのに口の中でとろけるあまーいの、これが大好き。お姉さんが時々お土産 に買ってきてくれるパフェというもの。世の中にこんなに美味しいものはほかにはないのではないかしら。花子はそう思っているらしい。もちろん食べ物以外に も花子が好きなものはいろいろある。たとえば大事なものボックスに入れてあるピンクの貝殻とか、小さな文字盤が可愛い腕時計。ほとんど使わないままにとっ てある赤いマニキュアの小瓶。これは部屋の片隅にある棚の上においてある。棚にはほかにもふわふわした毛質の何かで作られたウサギのぬいぐるみや、きらき ら光る腕輪なんかがきちんと並べられている。とにかく可愛いものが好きなのだ。

 花子が可愛いものばかり集めているのには理由がある。なぜ 可愛いものが好きになったのかはわからないが、可愛いものに囲まれていると、自分もその一部になれるような気がするのだ。女の子はみんな可愛いものが大好 きだ。花子も同じ。同じだけれども、たぶんほかの女の子よりも強い気持ちで可愛いものを愛していると思う。だってそうでもしなければ生きていけないような 気がするんだもの。ほかの女の子はみんなその子自身が可愛いから、モノに頼る必要なんてないじゃない。花子はそう考えている。自分は可愛い存在でありたい けれども、ほんとうのところはどうなのだろう。自分自身の姿を鏡に写してみてもわからない。どんなに冷静に客観的になったつもりでも、自分のことなんて クールには見られないものだ。自分のことが可愛いと思っている者は五万といるだろうけれど、ほんとうにその通りだとだれもが認めるのはそのごく一部だと思 う。花子もその一部に入っていたいと願うっていることは間違いないけれども、実際のところは……。そう考えだすと思わず声にならない声を漏らしてしまう。 ぐううともくうんともわからぬ悲しげなうめき声。自分でも知らずそんな声を出すことがあるらしい。悲しげな声を漏らす度にお姉さんが心配してくれる。

「どうしたの、花子ちゃん? なにか悲しいことでもあったの?」

 お姉さんがそういうからやっぱり悲しげな声が出たんだと思う。花子は首を横に振って否定してみるが、その表情はやっぱりちょっと悲しそうなんだろうね。お姉さんは表情を読み取るのが得意なだけに、ごまかすことができない。

「あらぁ、もしかしてまた不安になってるんじゃない? 大丈夫よ、あなたは可愛いよ。とても可愛い子」

  こんなときお姉さんはこんな風に慰めてくれるのだ。可愛い可愛いと。もちろんうれしい。自分では客観的に判断できないから、ひとから可愛いなんて言われる とついその気になっちゃう。ましてやお姉さんが言うんだもの。お姉さんは決して嘘をつくひとではない。まじめで正直でとてもいいひと。そのお姉さんがいう ことは真実であると思いたい。思いたいんだけれど……どうしても心からは信じられないんだ。自信がないからかな。だって……

 花子は心の中 でいつも揺れている。外見からはそんなにナイーブだと誰も思っていないだろう。身体が大きくて……普通の人間の数倍ある……全身剛毛に覆われていて、声 だってとてもかわいらしいとはいえない低いうなり声しか出せない花子。それでも人間に、いや可愛い女の子でありたいと思い続けている花子がもともとなん だったのかなんて、いまさらいう必要はないし、誰もそんなひどいことを言おうとはしないのだった。

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第九百一話 ゾンビ社員 [変身譚]

 若村真行留は小さい頃から身体は小さく、スポーツとはまったく縁のないような文系人間だ。大学の頃には映画サークルに所属して日夜暗闇の中で過ごすという根暗の代表みたいな若者だった。好きな映画というとこれがまたかつてはカルト映画からはじまったゾンビ物だ。死人が生き返り、頭を打たない限り止まることのないゾンビが出てくる映画は片っ端から見て、ついには「ゾンビがくるりと輪を描いた」などというふざけたタイトルの自主映画まで制作したほどだ。  その若村も大学を卒業して社会人になってからはごく普通のビジネスマンとして社会の中で暮らすようになった。安物ではあるがスーツを着てネクタイを締めると、まさかゾンビ好きの映画オタクであるとはだれも思わない。それに暗闇で映画を見続けてきた若村には意外な耐性が備わったようで、少々のことではへこたれない。つまり忍耐強いのだ。同期の仲間たちが挑戦して獲得できなかった難攻不落と言われた得意先へも、三百六十五日通い続けて、遂に相手の心を掴んで仕事をモノにした。社が喉から手が出るほどほしかった得意先の、しかも大型物件を獲得したから一気に若村は社内のヒーローとなった。その年の社長賞もゲットし、それから後にも持ち前の粘り強さで次々と大きな仕事をモノにするような社員にまで成長したのだった。  人間社会においては、成功者がいれば、その陰には必ず落ちこぼれがいる。そしてその多くは成功者妬んだり嫉んだりするものだ。彼らは、社内での成功者である若村が映画オタクでしかもカルトムービー好きだということを知り、誰が言うともなく若村のことをゾンビ営業マンと呼ぶようになった。あながちこの渾名は間違っていず、得意先から叩かれても切られてもゾンビのごとく起き上がって立ち向かう様は、まさにゾンビのなにふさわしい。若村は自分がゾンビ営業マンと呼ばれていることを知ってもまんざら悪い気はしなかったのである。  やがて若村はゾンビ課長になり、ゾンビ部長にまで昇格していったが、四十五を過ぎた頃に転機はやってきた。世の中の経済情勢の変化に伴って社にも業績危機が訪れ、他社との業務提携やリストラ制度が遂行される中で、それまで若村に肩入れしてくれていた常務が左遷されてしまったのだ。若村はとくにその常務の派閥とかに入っていたわけではないが、反常務派からはそのように見えていたのだろう、常務が飛ばされて間もなくすると若村にも移動の辞令が出された。社史編纂室に移動。これは事実上は左遷であり、いわばリストラ予備軍に任命されたということだ。  辞令が出される直前までバリバリと働き、業績を上げていた得意先はすべて後継者に受け渡され、それだけでも若村は抜け殻のようになった。会社の中で目標を持ち、それを遂行して実現することは、ある種生きがいのようになっているものだ。それが唐突に消失してしまうということは、生きる糧を失うことに等しい。社史編纂室で過ごすようになった若村は表情もなくなり、うつ病患者のようなありさまとなった。もとより社史編纂室とは名ばかりで、仕事らしい仕事は何もない。来たる二千二十年に向けて社内資料を整えていくという仕事があるだけなのだから。忍耐強く企業競争を闘ってきた若村にとって、ここは墓場だ。日長一日デスクに座って過去の資料を眺めるだけの仕事。腐りきった奴とか、つまらない会社で腐っているとか、物事の比喩として使われる言葉があるが、若村はまさにこの部署で腐りきっていた。元来持っていた我慢強さだけが若村を支え、会社からの早期退職勧告をものともせずなんとか定年退職までの長い時間をこの部署で過ごし続けた。  かつて若村という映画オタクが大きな業績を上げて異例の出世をした。だが、その直後の国内経済鈍化のあおりを受けて消えていったという話は、社内に残る都市伝説のひとつとなってしまった頃。新規事業のために移転した新しいオフィスの最上階の片隅に、小さな個室が設けられていた。表札も何もついていない。そして誰もその部屋を訪れることもない。ただ、ときどきくたびれたスーツ姿の見知らぬ初老の男が出入りしているという。男の周囲には何とも言えないマイナスオーラが立ち込め、話しかけようと思う者など誰一人いない。たまに喫煙室で出会ったという者もいるが、話した者はもちろん、表情を確認した者さえいない。いつの間にか現れて、気がつくといなくなっているという。実際にその男が体臭を放っているというわけではないのだが、何かしら屍の臭いが漂っているような空気。誰がいうともなく、この男にはゾンビ社員という渾名がつけられた。同時に、かつてゾンビ営業マンと呼ばれた男のことが思い起こされ、同一人物なのではないかと噂された。  しかし、もし若村が在社していたとしたら、すでに六十歳は過ぎているはず。定年を越えている者がまだ残っているはずもない。再雇用制度というものがあるにはあるが、そんな名も知れぬ部屋に雇い入れるような話は聞いたことがない。だが、相手はゾンビ社員だ。切っても腐らしても飼い殺しにしても、それでも生き返ってくるのがゾンビだ。そんな人間に常識など通用しない。ゾンビ社員が若村である可能性はないとは言えないのだ。  大都会の冷たいビルの中を何かを求めて徘徊し、人に噛みつくこともなく、手柄という肉に食らいつくこともなく、ただただ社内を歩き回ってはどこかに潜んで一日を過ごす。誰も知らない。誰にも気づかれない。彼の社員生活は終わることもなく。社内のどこかに足を引きずる足音がする。ずるっずるっ。ゾンビ社員は今日もこのビルのどこかで生ぬるい息を吐き続けている。

                                                 了


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第八百六十六話 変身 [変身譚]

 ある朝、暮郡沙武が気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっているような気がした。甲殻のように固くなった背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓のような筋にわかれてこんもりと盛り上がっている茶色い自分の腹が見えるのではないかと想像したが、そうはなっていなかった。自分が何か忌まわしいものに変わってしまったという思いすごしに過ぎなかった。

「おれは何をかんがえているのだろう?」と彼は思った。夢見が悪すぎたのだろうか。不意に昨日のことが思い出された。そうだ、昨日はあまりいい日ではなかった。職場で揉め事に巻き込まれて、嫌な気持ちのまま家に帰るのが嫌で、帰宅途中で立ち飲み屋で一杯ひっかけたのだが、そこでも隣の酔っ払いに絡まれてますます落ち込んだ。酔いもそこそこに家に帰ったのがまずかった。飲んで帰るなら連絡してちょうだいよ、ご飯の用意をしているのに、と妻になじられ、いやいや飯はちゃんと食うよと言っているのに、ぷりぷりしている妻を前にして冷えた飯を食った。ああ、俺は何をしているんだろう。仕事の憂さを家にまで持ち込んでしまったのか。ますます自己嫌悪に陥るが、妻も妻だ。こんなときこそ夫の気持ちを癒すのが妻の役割だろうと腹立たしくも思った。

 早々に飯をかっ食らって、モノも言わずに風呂に使ってからベッドに入ったのだ。よくない出来事はさらによくない出来事を引き寄せる。いや、ほんとうはそうではない。嫌な出来事によって引き起こされた忌まわしい気持ちが、次の出来事に影響するのだ。つまり、すべては自分自身が引き起こしているのだ。と、これは何かの啓発本に書かれてあったことなのだが、きっと間違ってはいないのだろうと思う。昨日だって、職場での出来事に対する気持ちにけじめをつけて、新たな気持ちで家路につけば、いつもと変わらない平穏な夜を過ごすことができたに違いないのだ。

 だが、人間はどうしても気持ちを引きずる生き物だ。だって仕方がないだろう。嫌な出来事っていつまでも尾をひいてします。それは嫌な出来事であればあるほど脳みそに染み付いてしまっているからだ。つまり、記憶がある限り新しい気持ちに切り替えることは難しいのだ。これをスイッチを入れ替えるみたいにコントロール出来る人間は尊敬に値する。彼はそう思うのだった。

 いずれにしてもその朝目覚めた彼は、何者にも変化してはいなかった。少なくとも変化していないように思われた。だが、実際にはそうではなかった。

 小さな変化というものは、誰しも気づかない。前日よりも十本多く髪の毛が抜けていようが、口の中に小さな出来物が生まれていようが、腕の内側が少しだけ赤くただれていようが、そういうことに気づくのはそれがいよいよ大きな存在感を示し始めるようんいなってからだ。ましてや生き物の体というものは毎日生まれ変わっているともいう。新陳代謝というやつだ。身体を構成しているすべての細胞が日々死んでは生まれ変わっているという。だからこそ皮膚が干からびてしまうこともなく、内蔵も急速に滅びることもなく、常に生命を維持出来ているのだそうだ。

 さて、では今朝目覚めたときの自分は昨日の自分と同じなのだろうか。そんなもの同じに決まっている、という答えが帰ってきそうだが、それは思い込みに過ぎないのではないかな。

 ある哲学者は「人は毎晩死んで、翌朝生まれるのだ」と言った。そう考えることによって前向きに生きていくことができるのだということなのだろうが、一方では形而上だけのことではなく、形而下でも事実なのではないか。

 話は戻るが、暮郡沙武がある朝目覚めたとき、実はほんの少しだけ身体は変化していた。本人さえ気づかぬ程度に。そしてその翌朝も少しだけ変化していた。その翌朝も、またその翌朝も。毎朝少しづつ変化していく。それは彼だけに起きた出来事ではなかったかもしれない。世界中の人間が同じように毎朝少しづつ変化しているのかもしれない。

 ある者はそれを老齢といい、ある者は病だといい、ある者は進化だという。毎日毎日変化し続けて、何年も何十年も小さな変身を重ねていき、百年も経たずしてその変身は止まってしまう。幸か不幸か、最終形に至る前に機能が停止してしまうからだ。だが、暮郡沙武は機能停止より先に最終形に到達出来る数少ない人間の一人かもしれない。そのとき彼は、忌まわしいたくさんの足を持った毒虫に到達するのだ。

                                   了


                                                              参考:フランツ・カフカ「変身」~青空文庫


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