第八百八十七話 小説至難 [脳内譚]
もうストーリーを考えるのはやめよう。今野文学は思った。小説を読んでも、映画を観ても、自分が面白いと思うのはそこに描かれているストーリーだと思っていたし、いくら素晴らしい文章や映像であっても、ストーリーがつまらなければそれは駄作であると信じていた。だけど今やそれは間違いで会ったことに気づいてしまった。今野はこのところ小説というものを書いてみたいと努力をつづけているのだけれど、数枚書いては躓いてしまう。書けなくなってしまう。小説は書き出しが大事だと言われているのだが、今野は頭の中に思いついたことをすぐ書きはじめることができた。しかし、ある程度書き進むと、そこから先には進めなくなるのだ。ストーリーが作れない。自分で面白いと思える物語が浮かばない。自分が読む小説や映画に対してだけ厳しいというわけにはいかないのだ。もしいま書いている最中の作品ができあがったとして、それを読んだ自分は面白いと思えるだろうか。いいや。こんな自問自答を繰り返すばかりで少しも先に進めないのだ。
思いあぐねた今野は、なにか指南本でも読んで勉強しようと考えた。いくつかの「小説の書き方」を指南する本を読んでいくうちに、墓嵯峨渇児という自分と同世代である作家が描いた「牡蠣飽くね手入れ碑との小説」という妙なタイトルの入門書に出会った。この人が書いている指南は、他の入門書とはかなり趣が違っていて、そもそもこの墓嵯峨という人が書く小説自体が少々変わっているのだが、今野はすっかりこれに毒されてしまったのだ。というよりも、小説初心者である自分が常々感じていたことや薄々思っていたことにかなり近いことが並べられていたことにいたく感激してしまったのだ。
小説とは何か、小説を書くということはどういうことなのかをいつも考え続けることが大事だと言う。なんだ、それは日々考え続けていることじゃないか。今野はすぐに飲み込んだ。小説というものは物語ることではないと書かれてあれば、その通りだと思い、テーマなど考えてはいけないとあれば、その通りだと信じた。人物を形容詞で表さない。余計な修飾をしない。風景描写を一生懸命に書く。テクニックなどいらない、等々。
わかった。ぜんぶ正しかった。日々俺が思っていたことは、間違っていなかった! 今野はすっかり嬉しくなって読み終えるのも待ち遠しく、パソコンに向かって書きはじめるのだった。
俺はあまりにも疲れ果てて歩くのをやめようかと思っていた道の途中で、とにかくいったん立ち止まってあたりを見回した。目の前にはかなり急高配のアスファルト道路がまっすぐに続いていて、先の方は車や建物に遮られてよくわからない。立ち止まったまま見上げると青空の中に銀色に塗装された信号機が長く伸びていて、こちら側に赤い光を見せている。その脇には幾筋もの黒い電線が垂れ下がりながら道と並行して走っている。よく見ると、向こう側にもその隣にも、つまり四つの角すべてに信号機があって、それぞれの役目を果たしている。銀色の柱の足元には太い白線が道の上に描かれていて、人や車の立ち位置を決定している。俺もちょうどその白い線の手前のところで立ち止まっているわけだが……(中略)……側溝の淵を歩いている蟻の行列は俺と同じ方向に向かっていて、やがて蟻は蟻は、蟻ありあ、、、、、、、
わが意を得たりと信じた今野は、いつまでもいつまでも主人公が立っている道の風景を書き続けていたが、道の端に見つけた蟻の描写をはじめたところで眠気に襲われ、蟻の行列が道を渡りはじめる前に不覚にも深い眠りに落ちてしまったのだった。
了
第八百八十六話 忘却の人 [文学譚]
物忘れが増えてきたなぁと思う。それは仕方がないことだ、年齢を重ねると忘れっぽくなるんだよ。そう言って元気づけてくれる人もいるのだけれども、もしかしたら若年性アルツハイマーになってるんじゃないかとか、加齢によって脳がだいぶん委縮してきてるんじゃないかとか、なにかと心配になる。
誰しもある程度の物忘れはする。年齢も関係なく、若い人でも忘れっぽい人はいる。現に私自身もなにかをしようと立ち上がった拍子に、あれ、なにをしようと思ったんだっけなんていうことは若いうちからあった。それに歴史の年表や英単語とか化学記号とか、そういう覚える勉強は昔っから苦手だったし。大人になってからも人の名前はなかなか覚えられないし、知っている人なのにぱっと名前が出てこないなんていうこともよくあるし。
あのテレビに出てる人の名前はなんていうんだっけ? 知っているはずなのに忘れてしまっていて、隣でテレビを見ている家内に訊くと、彼女もあれ? 誰だっけ、出てこないわ。なんてお互いに思い出せないことがある。そんなときにはなんとしてでも思いだした方がいいよ、なんて言われたこともあるのでなんとか思いだそうとする。思いださなければますます馬鹿になってしまうんじゃないかと思って必死で考える。だけどど忘れしたことって、そう簡単には出てこない。もういいや、仕方がないと思って、忘れたことを忘れてしまうことにすると、しばらくしてからああそうだって、閃きのように思い出す。そういうものなのだ。
しかし哲学的にいうと、人間は忘却する生き物らしいし、逆に忘れることによって辛いことや厭なことから逃れてポジティブに前に進むことができるのだっていう説もある。確かに。近親者の死や、あまりにも辛い目にあった記憶なんて、いつまでも明確に覚えていたらもうやってられない。死んでしまうかもしれない。徐々に記憶が薄らいでいって、しまいには滅多に思い出さないくらいになっていくからこそ、明日がやってくるのだという気がする。だから、忘れてしまうということは悪いことではないのだと思う。ただ、忘却の良し悪しは程度の問題であり、頻度の問題なんだとも思う。
私の場合、たぶんまだ許される程度だと思うし、頻度も多くはないと思う。よくあるでしょ? 酒に酔って何度も同じことを繰り返して話す人とか、さっき言ったことをもう忘れている人とか。酒のせいであるということがはっきりわかっていたらまだましだけど、わけもなくさっき自分で話したことを忘れてしまうなんてことになったら、すぐに病院に出向いてMRIとかとってもらった方がいいに決まってる。私はそう思うね。
ええーっと、なんの話だっけ。あ、そうそう。
最近、物忘れが増えてきたなぁと思うって言ったら、「それは仕方がないことだ、年齢を重ねると忘れっぽくなるんだよ」って元気づけてくれる人もいるのだけど、もしかしたら若年性アルツハイマーになってるんじゃないかとか、加齢によって脳がだいぶん委縮してきてるんじゃないかとか、なにかと心配になるんだなぁ、これが。
了
第八百八十五話 平常物語 [文学譚]
永らく拭き掃除すらしていないデスクの上は雑然としたままおさまりかえっている。真中にノート型のパソコンが据置型のように居座っていて、その周りには電源線や他のデバイスと連携させるためのコードがもつれ合う紐のように広がっている。右側には昨夜飲んだままのお茶が底に残っているペットボトルと口寂しい時に頬張るガムのボトルが、左側には二台の携帯電話が無造作に置いてある。さらにその周辺には、クリップを入れた小箱、ホッチキス、白紙のメモの束、キャンディの袋、読みかけの書籍、書き出すときりのないほとんどゴミと言ってもいいようなステーショナリー小物が散乱している。客観的に見た限りではとても知的な人物の書斎机とは思えない荒廃ぶりだ。 これでも学生時分にはまだ几帳面でそこかしこをきれいに整頓するような人間だった。大人になってから……いつ頃からなのかは覚えていないが、片づけてもすぐに散乱しはじめるモノをどうにかすることをやめてしまったらしい。実際、試しに片づけてみることがあるけれども、翌日にはほぼ元通りに汚く広がってしまうのだ。なんとかいう自然法則……そう、ブラウン運動とかいう自然節理があるが、あれが働いているのだと思う。ブラウン運動とは、液体の中に置かれた粒子が、熱によってどんどん拡散していく動きのことなのだけれども、私のデスクの上でも同じことが起きているのだろう。いや違う、エントロピー増大則かな? いずれにしてもそういう雑然として色気のないスペースで私は日夜過ごしているのだ。机上だけでもこんなことであるから、視界をデスクの周りに広げるとどういうことになっているかは想像にまかせたいのだが。 さて先ほどから身の回りの様子を表して私がなにをしたいのかと言うと、何も起こらない日常から物語は生まれるのかという実験だ。デスクの上のモノたちは、ただの物体ではあるが、私とのかかわりの中で何かしら物語を内在させている。しかしだからといってその物語が勝手に立ち上がったりはしないようだ。たとえば書類ケースの上に並べられている小さな木造りの人形。猿の姿であったり、猫の姿である五体の人形は、数年前にインドネシアの観光地であるバリ島を訪れたときの土産物で、人にあげそびれた残りだ。ほんの小銭で買ったものだけれども私自身はずいぶん気にいって友人たちに配って歩いたが、こんな土産物など、誰が喜んだのだろう。我が家に残されたこの五体はも何年も同じ場所に固定されているが、実は私が不在の時には動きだすようだ。その証拠に、ときどき座っている順番が入れ替わっていたりするのだから……などということでもあれば何かしらファンタジーな物語がはじまってくれるのだが、実際にはそのようなことがあるわけがない。
デスクの隅で書籍の中に埋もれてしまっている干し首もそうだ。これは昔ペルーに行った友達からもらったもので、エクアドルのヒバロー族の勇者の首だと言って渡された。長年本物だと信じて疑わず、手を触れるのも畏れたのだけれども、ある日裏側にラベルを見つけて、どうやら模造品であることを知った。ばかばかしい。なにを怖がっていたのだろう。当初は夜な夜な夢の中に現地人風の戦士が出てきて追いかけられていた自分が馬鹿らしい。これだけの物語を内在させていて尚、何も立ち上がっては来ないのである。探せばほかにもありそうだ。引き出しの奥にしまいこまれた猿の手や、足元の段ボール箱に放り込まれたままの得体の知れない毛の塊。同じ箱には隕石だと思われる石が入った小箱や、ときどきその内部が青く光っているように思える八角形をした金属の物体など。どれもこれもただの物質にしか過ぎず、内在する何かは私の記憶と結びついてしか物語化しないのだ。
ああ、今日も何も考えつかないなぁ。私は意味もなくため息をついて椅子の上に座りなおす。いったん伸ばした背筋はすぐに丸く縮こまって、肩からデスクにだらしなく垂れ下がった腕の先だけはパソコンキーボードに乗せられている。画面には白いままの画面が開かれている。もう何時間も何時間も白いままで薄笑いを浮かべている。
了
第八百ハ十四話 親切心の報酬 [文学譚]
JR本線の大鮭駅で通勤電車を降りたところだった。ホームは朝の混雑時間を少し過ぎたところだったが、まだまだ通勤客でごった返していた。僕のすぐ前には若い女性……OLに違いない……が急ぎ足で歩いていて、そのバッグかポケットかはらりと一枚のカード様のものが地面に落ちた。あ、落し物だ。たぶん僕しか気づいていない。若い女性はまったく気付かずに雑踏の中を足早に去っていく。教えてあげなければ。僕が呼びかけようとしたとき、彼女はすでにホームを離れる立体通路の階段を上がりはじめていた。いけない、と思った僕は落ちたカードを拾い上げて彼女の後を追った。カードはJRの定期券で、これをなくしたら大変困るに決まっている。始業時間が迫っているのだろう、彼女は人混みをすり抜けてどんどん去っていく。その後を追いかけるのは至難の業だ。人のいないスペースを見つけてすり抜けていくのならまだしも、先に歩いている女性の後ろはすぐに人で埋まってしまって、下手をすれば彼女を見失ってしまう。障害物のない平地ならすぐに追いつく自身はあるのだが、これだけ混雑している人混みをかき分けながら、見失わないように目で追いながら追いかけるのは大変だ。どっちにいくのだろう。どうやら南改札にむかっているようだ。先回りしようにも通路は一つしかない。階段を上って降りて、地下通路に降りてまた昇って、その先に南改札があった。彼女が改札に到着する寸前、僕はようやく追いつくことができた。
「もし、あのう!」
息を切らしながら僕が追いつくと、彼女が振り返った。後ろから見て想像していた以上に美人だ。見知らぬ男に呼び止められて驚いたよな顔をしている。
「あのう、これ、落としましたよ!」
僕が差し出した定期券には小川真理子と名前がかかれてある。彼女はきょとんとした顔で僕が差し出した定期券を見つめている。そして次に自分のバッグを探って定期券入れを取り出した。
「あのう、小川さんでしょ?」
僕は定期券に書かれている名前を口にした。
「違いますけど」
「でも、さっき……」
「私は小川ではないです」
「「だってあそこで……」
「それって……朝から軟派のつもりですかぁ?」
僕は顔が真っ赤になるのを感じた。嘘、間違い? じゃ、これは? 彼女はくるりと向きを変えて、さっさと自分の定期券で改札を出て行ってしまった。自分の息が切れているのも忘れて話しかけていた僕は急に胸が苦しくなった。はぁっと息を吐き出して彼女の後姿を見送っていると、後ろから誰かに背中を強く叩かれた。
「ちょっと! それ!」
振り向くと80キロはあろうかと思われる巨大な中年女性が肩で息をしながら恐ろしい形相で立っていた。
「な、なんすか?」
「あなた! それ返してよ」
「はぁ?」
巨大女は僕の手から定期券をもぎ取ろうとした。
「な、なにをするんだ!」
「なにをって、それは私の!」
ええーっ! 嘘でしょ? これ、あなたが落としたの? 一瞬にして自分のしでかした間違いに気がついたのだが、身体がこわばって動かない。巨大女がもぎ取ろうとしている定期券から指が離れない。
「きゃぁ! だれか! ど、泥棒! 助けて!」
にわかに女が大声を上げた。周りにいた通勤途中の男たちが寄ってくる。帽子を被った駅員もすぐにやってきた。
「どうしました?」
「この人が私の定期券を!」
ようやく僕の手から定期券が離れた。駅員が僕の手を掴んで連れて行こうとする。僕はまだ放心状態にあった。恐ろしい顔の巨大女はいつの間にか姿を消していた。
了
第八百八十三話 証言(アブダクション) [文学譚]
第八百八十二話 栄養源 [文学譚]
第八百八十一話 茶々の救出 [文学譚]
人のものを盗んだのは、あれが初めてで最後だ。恵理子はときどきあの日のことを思い出す。
町内の猫ボランティア仲間の一人が困った様子で伝えてきたのはもう三年ほど前のことだ。あるホームレスの男が、連れている犬をひどい目に遭わせているというのだった。この町内にも姿を現すホームレスのおじさんが犬にリヤカーを引かせているのは以前から何度も見かけている。だけど虐待までしているとは信じられないと思いながら、ホームレスがいる辺りにでかけていき、遠目に観察していると、確かに事あるごとに無理やり綱を引っ張ったり、棒で叩いたり、夜になると酒の余興に小突きまわしたりしている姿が確認できた。いくら飼い犬とはいえ、こんなことは許されない。公園を管理している顔見知りのおじさんを通じてそのホームレスに顔合わせをしてもらい、連れている犬を譲ってもらえないかと頼んでみた。
「なんであんたに茶々をやらなあかんねん。わしが大事にしている愛犬やで」
茶々と呼ばれた茶色い雑種犬の頭を撫でながら言う男に、虐待しているのではないかという話を遠回しにしてみたが、どなり声で否定された。
「わしがこいつを虐めてる? あほなこと言いな。もう忙しいわ帰れ帰れ」
それからも茶々が虐待されているという目撃談は後を絶たず、これはもうほおっておけないねと友人同士で話がまとまったのだが……
「私はそんな、手を出せない」
「うちもそんなことしたらお父さんに叱られる」
みんなで茶々を助け出そうという話までは一緒になってまとめたくせに、実際に誰がそれを行うのかという話になると、みんな腰を引いてしまうのだった。こんなときにやる気を出してしまうのが自分の悪い癖だと思いながらも、恵理子は仕方がない、一人で助け出そうと決意した。
事前に茶々と男の行動範囲を調べ、どの辺りで夜を過ごすのか、何時頃から眠るのかなどはおおむね把握できていた。救うのなら早い方がいい。決行を決めた日の夜、あいにく天候は小雨だった。恵美子は愛車である小型車を南町の通りに停めて様子をうかがった。
時刻は十時を過ぎていた。大通りの角の歩道にリヤカーが停まっている。その脇には男がいつも行動を共にしている女性ホームレスが茣蓙を広げて横になっている。男の姿は見えない。だがしばらくすると酔ったような足取りの男がどこかから現れ、リヤカーの様子を確認した後、また酒を求めてなのだろう、来たのと反対の方向にふらふらと歩き去るのが見えた。通りを暗闇から遠ざけている街灯のひとつが切れかけているのだろう、ちらちら点滅しながら男の影を見送った。
「いまだ」
恵理子は自分の気持ちにスイッチを入れた。たとえホームレスのリヤカーからとは言えども、人の物に手を出すなど初めてのことだ。フロントガラスにたまった小さな雨粒が合流して大粒に変わり流れ落ちていく。いくつ目かの雨粒が流れるのを合図に、静かに車を降りてドアを車体に押し込む。Tシャツにジーンズという出で立ちだが、どこかの国の工作員か、スパイ映画の主人公にでもなったような気がする。ジジジーと低い電子音を放ち続けている街灯の点滅と自分の心音だけが耳の奥で響いている。足音を踏み消しながらリヤカーににじり寄って中を覗き込む。もしや、茶々が恵理子を見つけて声を上げるのではないか。そうなったら横で寝ている女が目を覚ましてしまう。
リヤカーの隅で眠っていた茶々の首が立ち上がる。なんどか頭を撫でたことのある恵美子を覚えているのか、静かに尻尾を振って近付いてきた。リヤカーの骨組みに縛り付けられたロープが茶々の首輪に結ばれているのをなんとか解いてから胴体全体に腕をまわして茶々を抱き上げた。柴犬のミックスだから恵理子でも抱え上げることが出来た。急がねば。いつ男が戻ってくるかわからない。恵理子は息をするのも忘れて急いで車に戻った。誰にも気づかれなかった。助手席に茶々を座らせてエンジンをかけ、車を滑らせた。最初の交差点で信号が赤く点滅していたが、停止するのすら忘れてアクセルを踏み続けた。自宅の近くで停車させた時ですら、まだ心臓が波打っていた。ハンドルを握ったまま茫然としている恵美子に茶々がにじり寄って腕と言わず顔と言わず舐めまわす。救いだされたことにようやく気づいたように。
翌朝、ホームレスの男は「犬が盗まれた」と大声で叫びながら方々を探しまわっていたという。茶々は一晩だけ恵理子の部屋で過ごし、翌日、既に話をつけておいた愛犬家の元へと引き取られていった。犬を盗んだというのは客観的事実だが、実際にはあれは救出だった。よくもまぁあんなことができたなぁと、恵理子は心臓の辺りに手を当てる。
了
第八百八十話 虫 [文学譚]
梅雨入りが宣言されたというのに雨が降ったのは宣言の翌日だけでその後は晴天が続いている。それどころかまるで真夏のような気温で、テレビの天気予報でも、今日は真夏並みの暑さが続くので、熱中症に気をつけるようにとアナウンスされている。
そろそろ外に出なければならない時刻になっても気だるくて動く気になれない。まだ朝のうちだからいいようなものの、きっとすぐに気温がもっと上がって通りになどいられなくなるだろうなと窓外からの明る過ぎる光が暗示している。
ぶーん。
室内を飛ぶ小さな虫の羽音など普通なら気にもとめられないのだろうが、次第に蒸し暑くなってくる室温は、人の気持ちを荒げるのだろうか、いったいなにが飛んでいるのか、暑苦しい虫の奴めと苛立ちはじめるのがわかる。羽音など上げなければみつかりさえしなかったのに、あいにく好むと好まざるにかかわらず、羽を持った虫が移動すれば羽音が生まれてしまうのだ。じっとしておけばいい。どこかに潜んで動かずに。しかし虫にしてみても室温の上昇や蒸し暑さはこたえるのでなんとか外にでてもっと涼しい場所を探したいと思うから、つい飛び上がって出口を探そうとしてしまう。するとまた羽音がして人間を苛立たせる。
テレビでも点いていれば羽音など雑音に紛れてしまうのに、出かけるためにテレビのスイッチが切られてしまっているから、室内は静まり返って、時計の針の音さえも静けさの中に響き渡る。窓外から聞こえてくる遠くの車の音さえ室内で反響している。そこにもってきて虫の羽音だ。いらいらが募るのもわかるだろう。それでも虫は出口を探さざるを得ない。
ぶーん、ぶん。
テーブルの白い天板の上で休憩する。こんなところに止まらなければいいのに、なぜか虫という生き物は、明りだとか白いモノに吸いつけられてしまうのだ。そこに出口があると勘違いしてしまうからかもしれない。いずれにしても人間が座っているテーブルの白い天板の上など厭ほど目立ってしまう。だって小虫の体は黒いのだから。人間は苛立ちの原因がここにいると気がついて、風を起さないようにしながら腕を伸ばす。
静かに静かに。大きな人差し指が近付いてきて……プチ。
気を緩めていた私は体液のほとんどを噴き出しながら潰れた。
了
第八百七十九話 to know each other [文学譚]
「人と人はわかり合うことができないって……本当かなぁ」
さっきまで夕陽の照り返しが眩しかった海面はすでに真っ黒に変化しており、空にはいくつもの小さな灯が瞬いている。二人はコンクリートの堤防に腰掛け、両手を後ろについて顔を上げて夜空をぼんやり眺めている。
「なによ、いきなり。そんなこと常識だよ。だから人は文学を求めるのよ」
「ブンガク?」
「そうよ、文学」
「へぇえ。そうなんだ。わかり合えない人の文学」
「うーん、そういう限定の仕方じゃないと思うけど」
「じゃぁ、どういう? それになぜわかり合えないとブンガクを求めるの?」
「ごめん、よくわかんない。大学のときの仏文の教授がそう言ってた」
「フツブン……ブンガク……」
「受け売りだったわ、意味もわからないのに」
「でも、僕たちは……わかり合えているよね? 違う?」
「うーん、どうなんだろう。わかり合えているかしら」
「いるよ! 多分」
個体ごとに違う意識が宿っている限り、相手の個体が持つ意識を完全に理解することなど不可能だ。理解出来るなんて幻想であって、ただわかりたいと思うあまりに、自分でわかったつもりになるだけ。夢子は以前雑誌で読んだことのある哲学者の記事を思い出していた。
「わかろうと努力することが大事なんだと思うよ、たぶん」
「努力すれば、必ずわかり合えると思うんだけどなぁ、僕は。だってほら、犬と人間でさえお互いに理解し合っているようなお話だってあるんだろ?」
「だから、そういうのは物語の中の話なのよ。それが文学なんだってば」
「じゃぁ、どうすればいいんだろう。人間同士でさえそういうのだったら、違う生き物同士が理解しあえるわけがないじゃない?」
「そうね、言葉を使っても通じ合えないのに、言葉が通じない相手じゃね」
「そうか、言葉があれば通じ合える?」
「だから、それでさえ無理なんだって」
「そうか、やっぱり、困るなぁ。わかり合えないなら、共存するのは無理?」
「だから世の中のには戦争や闘争が絶えないのだわ」
「人間って……困ったねぇ……」
紫色の皮膚を持ち、毛のない全身を不思議な衣服で包んだ奇妙な生き物が、夢子の隣に座って三つの瞳で空を眺めていたのだが、頭のてっぺんにある穴から、ふぅーっとため息をつきながら夢子に虚しく笑いかけた。
了
第八百七十八話 オニヤマイ [文学譚]
馴染みの店はいつになく混み合っていた。といってもカウンターに七席ほどあるだけの小さなバーなのだけれども、いつもはこの早い時間帯なら誰ひとり客が入っていないこともざらにあるような店なのだ。
私はいつもは奥の席に陣取るのだけれども、すでに人が座っている。仕方なくいちばん入口際の空いている席でビールグラスを傾けていた。滅多に座らない端っこの席は、改めて座ってみると存外と心地いい。なぜかというとこの席は窓際でもあり、この時期には開け離れた大窓から舞い込んでくるそよ風が心地いいし、二階から見下ろす街路をぼんやり眺めているのもまたなにかしら風情を感じるのだ。若いマスターは奥の馴染み客と話をしながら仕事に励んでいる。私はどこか端っこの孤立感を秘めながらも、それでもひとりの空間を楽しんでいた。
目の前のカウンター上には小さな椰子の葉を広げた植木が飾られているのだが、グラスを口に運びながら視野のどこかに違和感を感じた。緑の中に黄色い縞模様が見えたのだ。なんだこりゃ? グラスを置いて小さな椰子の葉を見直すと、黄と黒の縞模様の尾をしたトンボが止っていた。ありゃ、オニヤンマ。なんでこんなところに? いやいやよくできた飾りものだ。マスター、いたずらにこんなフェイクな虫を飾っているのだ。
そう思ったとき声がした。
「何? 見つめないでよ」
え? 誰? そっちこそ何? 隣の席に振り向いたが、一つ開けて向こうの席にいる客は、その向こうの客と賑やかに話していて、私に話しかけたりしていない。
「私よ。いま見つめてたでしょ」
え? あ、そう……どう考えても目の前のトンボが話しかけているのだ。
「あんた、退屈しているの?」
トンボは大きな目玉をくるりと回して言った。
「いや、別に。私はひとりを楽しんでいるんだ」
「あら、そう。でも目の前の女には興味をそそられるのね」
「女? 目の前の?」
「あら、失礼しちゃうわ。私なんて女のうちに入らないって言いたいの?」
「ああ、君のことか。驚いた。君は女なんだね」
「まぁ、ひどい。じゃぁ、あなたはもしかして男?」
「あたりまえじゃないか。こんなおっさんみたいな女がどこにいる」
「確かに。でも最近はわからないわよ。男みたいな女、女みたいな男」
「トンボみたいな女、女みたいなトンボ」
「なに、それ。ああ、私のことね。私がトンボみたいな女だって言いたいわけね」
「だって君は、オニヤンマだろう?」
「オニヤンマ……懐かしい名前ね。子供の頃住んでた田舎によくいたわ」
「そうだろう? こんな街中にオニヤンマがいるわけない」
「そうよ。こんな店の中になんでオニヤンマがいるなんて思ったの?」
「いや。なぜだかわからないが……君の名前は?」
「私? ふふ。なんで知りたいの?」
「なんでって、こうしてしゃべっているんだからさ、呼び名くらい」
「じゃ、おじさんの名前は?」
「私は宮内だ」
「ミヤウチ、何?」
「宮内啓二」
「そうなの、宮内庁の刑事さん……」
「なんだそれ。そんなこと言われたことないが、確かに……、で君は?」
「私……麻耶」
「麻耶さん? 苗字は?」
「大西」
「大西麻耶……オオニシマヤ。オオニマヤ……オニマヤンマ…やっぱりオニヤンマじゃないか」
「どうしてもオニヤンマにしたいのね。いいわ、それでも」
「別にしたいわけじゃ……」
「じゃ、鬼やんって呼んでもいいから、一杯ご馳走してくれる?」
「あ、ああ、いいよ。このビールでいいか?」
私はカウンターに並んでいるグラスをひとつ取り上げてビールを注いだ。
「じゃ、珍しい出会いに」
「ああ、そうだな、乾杯か」
グラスを合わせる瞬間に、私の脳内では彼女と友達になれるのだろうか、それとももっと深い関係に? あの黄と黒の縞々になった胴体が私の腹をくすぐる様子が浮かんで消えた。
「いっただきますー、カンパーイ!」
「ああ、乾杯!」
チーンとグラスを合わせてビールを流し込む。いつもの癖で飲む時に瞑った眼を開けると、ビールを一口だけ飲んだ若いマスターがニコニコしながら言った。
「あざーっす」
椰子の葉の上には相変わらずオニヤンマがじっと止っていた。
了