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第五百八話 遺品 [日常譚]

 父は古い国産大衆車に乗っていた。当時百万を切るほどの車だが、濃いグレ

ーという配色も功を奏して、素人目にはあの豚鼻のドイツ車に見えなくもなか

た。父は、週末になると釣竿一式を車に乗せて、出かけていた。滅多に釣りの

成果を持って帰らなかったのは、坊主だったり、連れても逃がしているのだと言

い訳をしていたが、何回かに一回は大漁だといって、数匹のチヌやアブラメを持

ち帰り、自らさばいてみせたりもした。

 その父が脳卒中であっけなく急逝した。兄貴は既に車を持っていたので、父の

車をぼくが譲り受けた。すでに十年落ちの車だというのに、その十年間に父が乗

ったのはたった二万キロだった。十年落ちともなると、窓を開けるメカが不具合だ

ったり、年老いた父が凹ませた後部ドアがあったり、何かとガタは来ているのだが、

エンジンだけは、まだまだこれから走ってやるぞ、という調子の良さだった。

 車の中には、父が釣りにつかったのであろう浮きや重りが転がっていたり、トラン

クには釣竿が一本置き去りにされていた。ダッシュボードにもいろいろとガラクタが

入っていたのでそのほとんどを捨てたのだが、そのときにピンクのルージュが一本

出てきた。父の家には口紅を使う女性は母しかいない。だが、母が使うような色で

はなかった。兄嫁すら使わないような若々しいピンク。しかも兄嫁は兄と共に遠くに

住んでいて、父の車には乗ったことがない。だとすると、いったい誰の忘れ物なの

だろう。いまさら置いてても仕方がないので、ぼくはほかのガラクタと一緒に、ピンク

のルージュを処分した。

 半年ほど過ぎて、父の車で遠乗りをしたときに、後部タイヤがパンクしてしまった。

この車にも、代用タイヤがひとつ積み込まれているのを知っていたぼくは、路肩に

駐車してトランクを開けた。トランクの底板が外せるようになっていて、その下に代

用タイヤが埋め込まれている。ぼくはそれを取り出しにかかったのだが、底板を外

すと、代用タイヤの上にビニール袋が平たく置かれていた。

 はて、これは何だ? 袋を開けてみると、女性の衣類……下着上下と小花柄の

ワンピースがきれいに折りたたまれて入っていた。これは? どうみても年老いた

母のものではない。敢えていうなれば、兄夫婦の娘たちが着そうな衣類である。

なぜ、こんなものがタイヤ入れのところに、隠すように入れられていたのか。しか

も下着まで。母に訊ねても、おそらく知らないと言うだろう。それに、もしかしたら

母の気を落とさせることになるかもしれない。ぼくはビニール袋を元通りにして、

タイヤだけを交換した。

 あの女性服は、誰のものなのだろう。父が一人で趣味のために持っていた?

まさか。そうだとして、それはいったいどんな趣味なんだ? 父の車に同乗して

いた若い女性の持ち物だったという可能性の方が高いだろう。あのルージュも、

間違いなく同じ人物の持ち物だったに違いない。しかし、それはいったい誰? 

父とどういう関係が? 謎は深まるばかりだが、この秘密を知っているのは、亡

くなった父と、その誰だかわからない女性だけだ。

 ぼくは、ガソリンスタンドでタイヤを好感した帰り道、衣類の入ったビニール袋

を人知れずコンビニのゴミ箱に捨てて帰宅した。そしてすべてはなかったことに

なった。僕の頭の中以外では。

                                 了


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