SSブログ

第四百九十五話 ゆるやかな終わりの始まり~実験奇譚・なんか妖怪ー12 [文学譚]

 異変はゆるやかにはじまっていた。

 ある日鏡の前で化粧をしていた主婦が、口角がひび割れていることに気付く。

あら? 何かしら。ビタミン不足だわ。そう思い、クリームを塗ってビタミン剤を飲

み込む。小太りのサラリーマンは、ランチの後に、またいちだんと出っ張ってきた

腹をさすりながら、そろそろなんとかしないとな、とつぶやく。大声で叱りつけてい

る営業部長の前で小さく縮んでいた部下が、上司の顔を見上げたときに、何か

違和感を感じてギョッとする。部長、夕べは飲みすぎたんじゃないのか?叱責の

怒鳴り声も上の空で、そう思う。会社のトイレで髪に櫛を入れていたOLは、いつ

もと違う櫛の感じに戸惑う。耳の辺りが妙に櫛に引っかかるのだ。

 誰も、それを異変とは感じなかった。少なくともそのときはまだ。だが、一週間も

すると、彼らは自分が何かの病気にかかったのではないかと思って、病院の扉を

開く。すると、待合室にはすでに大勢の患者たちがひしめいていて、お互いの身

に起きていることを確認しあっている。

 口が耳まで裂けそうになってマスクで隠してやって来ている主婦。隠しきれない

ほどに腫れ上がった妊婦のような腹を抱えてやって来た男。鬼のように真っ赤に

なって飛び出している目をサングラスでなんとか隠している中年の男。何かの冗

談のような耳の先がロングヘアの左右に飛び上がっているOL。どこを見ても異

形の存在に変わりつつある人々の姿であった。

「あれえ? 部長、どこに行ったんでしょうね?」

 円マサオは先ほどまで部長から怒鳴られていた同僚に聞くが、その同僚の様

子も何かがおかしい。事務椅子から尻の肉がはみ出して、身動きがとれなくな

っているらしい。いったいどうなってるんだ、この会社のひとたちは?

 マサオ自身、十日ほど前に自分の身に起きたことなど、何一つ覚えていない。

あの日、足の皮がめくれたと思ったら、いきなり自分のすべての皮がめくれ、虫

が脱皮するかのように、自分が何かに変わってしまったことを知らないのだ。橋

桁の下で変身したマサオは、鬼のような姿になって空高く舞い上がった。そこで

集めた雨雲に呪詛を投げかけ笑いながらいつまでも天を回っていた。しかし、い

まのマサオはそんなこと何一つ記憶していない。あの後、気が付けば自室のベッ

ドの中にいたのだ。だから、赤い雨が降ったことさえ、あとからニュースで見、同

僚から聞かされて驚いていたのだ。

 あの赤い雨は、全国的なものではなく、俄かに雨雲を集めたこの街だけで発生

していた。この局地的な天変地異を、当日は大騒ぎしていたマスコミも、翌日には

話題にすらあげなかった。従って、人々もあの赤い雨のことはすっかり忘れてしま

っていた。

 結局、その日、マサオの上司である部長は会社に戻って来なかった。その日だ

けでなく、翌日も、そのまた翌日も、部長はもう会社には来なかった。

「おい、鬼太郎! なんか妙な記事が出てるぞ、この新聞」 

 ソファとソファの谷間に寝っ転がって新聞を呼んでいた目玉親父が叫んだ。 

鬼太郎と呼ばれて、嫌な顔をしながら、鬼木太郎が答えた。

「妙なって、どんなことですか、目玉父さん」

「お前も目玉というな。ほれ、ここじゃ」

 新聞のローカル欄に、増加する奇病というタイトルがつけられた小さな記事

があった。それはこの街にだけ起きている現象で、目や耳や口、尻、腹、手、

そして性器に異常を引き起こした患者が病院に殺到しているというものだった。

原因は不明だが、ある種の風土病であろうと記述されていたが、一部の学者

が、同じ地域で起きた赤い雨の天変地異との関連性を示唆してもいた。

「これはもしかしたら、あの濡良が言っていたことと関係するかもしれないぞ」

 先日、ノリコベーカリーの周年パーティで起きた、ちょっとした騒ぎ。常連客

の一人である濡良利玄が「人心が狂う」と予言めいたことを言って姿を消した

のだ。もし、何か関連があるのならば、いま身体に変調をきたして病院に駆け

込んでいる人々は、さらに心まで変質していく怖れがあった。また、鬼木太郎

は、赤い雨との関連性も気になった。もしそうであれば、根津があの赤い雨を

瓶に詰めて売ってしまったことも、何か大変なことに結びついているのかもし

れない。

「父さん、ぼくはちょっと出かけてくる」

 鬼木太郎は、そう言ってタイガースのちゃんちゃんこを羽織って、玄関に出し

っぱなしになっている下駄に足を突っ込んだ。

                                    了 

次回:第四百九十五話 ゆるやかな終わりの始まり  前回:第四百九十四話 悪夢の予感


読んだよ!オモロー(^o^)(2)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。