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第九百五十一話 癒し犬太郎 [妄想譚]

  携帯メールの着信があった。犬友のテルさんからだ。犬のお散歩に行こうという誘いだった。平日はそれぞれの仕事で時間が合わせられないが、日曜日にはときど き誘い合って夕方のお散歩を共にする。五年前に夫を亡くしたテルさんは、夫が可愛がっていたパピヨンを忘れ形見として大切に育てている。私はというと最初 から独り者で、気まぐれで人から預かった雑種犬を飼いはじめて六年になる。朝夕公園辺りを散歩しているうちに夫を亡くして間もないテルさんと知り合って犬友だちになった。独り身の中年女同士と犬というのは寂しさを忘れるのには恰好の組み合わせといえるだろう。

  犬のお散歩なんて、そう遠いところまで行くわけではないが、休日はたっぷりと時間があるので近所の公園だけでは飽き足らず、少し離れた城山公園とか、川沿いの緑地にまで足を伸ばすと、たっぷり二時間ほどのコースになる。小さな犬の足取りに合わせてゆっくりと歩く上に、二匹の犬が交互に排尿や排便をするのを待 ちながらなので、それはもう運動になどならないような歩き方になる。その代わり女二人は身の回りのことだのテレビ番組の話題だの、取り止めのない会話を存 分に楽しみながら歩くのだ。

  こないだサンプルをあげた保湿クリームの具合はどう? ああ、あれはいいわね。けど買うとなったらちょっと高級過ぎて。それよりおとといのテレビ、見た? ほらダイエットの。あら見てない、どんなの? 痩せるホルモンっていうのが発見されたっていうね、話。

 こういう話を延々しながら歩いていると、二時間なんてすぐに過ぎてしまう。もちろんその間には愛犬の健康状態や、病院に連れて行った話が加わったりするのだ けれど、このひと月ほどはなぜだか一切犬の話題が出てこない。ちょっと前まではテルさんとこの愛ちゃんのお腹の具合が悪かったという話がほとんどだったの に、テルさんはそのことにも触れない。愛ちゃんは元気そうだしきっとすっかりよくなったということなのだろう。うちの犬はまだ若いし、ほとんど病気などしたことがないのだが、予防注射の季節だとか、爪を切るときなんかに病院に連れて行く。

「ねぇ、ほんとうに大丈夫なの?」

  テルさんが聞いてくる。なにが大丈夫なのかわからないが、私の健康状態のことかなと勝手に理解して、ええ、大丈夫だけど、テルさんは? と聞き返す。

「あら、私はぜんぜん問題ないけれど」

  なんだかテルさんの口ぶりがいつもと違う。なにかそう、奥歯にものが挟まったようなっていうのはこんなときに言うのかしら。

「もう、無理につきあわなくてもいいのよ」

「え? なにが?」

「なにって、お散歩よ」

  なにを言ってるのかしら、一緒にお散歩したくなくなったってこと? 自分から誘ったくせに。しばらく黙っていると、別の言葉が繰り出された。

「こんどね、知り合いのところに子犬が生まれるから、もらってあげようか?」

  テルさん、なにを言い出すのやら。うちは太郎一匹で精一杯。子犬は可愛いから好きだけど。いまは無理だわ。言うと、テルさんは困ったような悲しみを堪えるような妙な顔になった。

「ほんとうに大丈夫?」

  またおかしなことを聞いてくる。私は面倒臭くなって公園の広いところに向かって走り出す。手に持ったリードの先についた、この頃妙に軽くなってしまった首輪がずるずると追いかけてくる。そこにはもう太郎の姿はない。

                 了


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第五百六十三話 世界標準〜妄想五輪−7 [妄想譚]

 オリンピックのセレモニーを見ながら思った。はて、オレンペックちゅうも

んは、運動だけでなく、ああいう音楽家やらパフォーマやらも必要なんだなや。

エゲレスには世界に通用するアーティストが仰山おるさかいに、こうして世界

中に配信しているテレビも十分に見られるけんど・・・・・・八年後には、また東京

でオレンペックするかもしれんちゅうのに、そっただ場合、日本のアーチスト

ったば、誰がおるんかいの?

 捌子(さばこ)は頭の中で八年後の東京オリンピックで開会式やら閉会式を

盛り上げることのできるアーティストを探し始めた。んーっと、世界的に知ら

れているって言えば、まずは、坂本龍ちゃん、ラルク、Xジャップ、最近では

パフムも映画で有名か。ピアノの辻井ちゃんとかバイオリンの葉加瀬や高嶋も

出るわなぁ。ホントの意味で世界中が知ってるのは亡くなった九ちゃんくらい

なんだろうけど、昔の音を生かして出すかもしれんなぁ。あ、聖子ちゃんも出

るか。アジアで有名なんだったら。あゆ、アムロ、あらし、すまっぴ、それに

賑やかしにAKBあたりも有りなんだろうな。きっと歌舞伎とか和太鼓の人たち

が最初に出てきて、日本らしさを表現。で若手のAKBあたりが賑やかして、間

でさんちゃんとかタケちゃんがその仲間たちとパフォーマンスして、先に並べ

た歌手たちが次々に出る。盛り上がったところで、あ、ヨーコ斧がおった。そ

れなら雪さおりん姉妹も有りか。余興でゴジラが出てきて、渡辺県と真田無視

と御船がチャンバラで立ち向かう。粉雪と凛子が花を添える・・・・・・彼女らは歌

えたっけ?

 ああ、こうしてみると、案外二時間くらいは持ちそうだなぁ。私は思ったん

だけど、歌舞伎とか相撲の世界観を持って、しかも世界標準に耐える音楽性を

もったパフォーマーになったら、オリンピックに出られるかもって。そうだ、

それ! 私、いまから八年後に向けてそれをやるわ。三味線を持って、歌舞伎

の格好して、エキセントリックでいて高度な音楽性を持ったミュージックを歌

うのね。うん、これ、いけそう。ちょっとど派手になりそう。私にぴったり。

 そこまで考えて、あれ? って思い出した。そういえば、そんなアーティスト

がいたような・・・・・・あっ! あれ。氏神いちなんとかって人、いたっけ。そう

か、しまったなぁ。案外いるものね。もう、私が入り込む隙間はなさそうだわ。

あ、いやいや、じゃぁ、相撲で。お相撲さんは歌が上手い。引退したお相撲さん

を集めて、エグザルみたいな歌軍団を作るわ。私がプロデュースして、相撲軍団

の真ん中で女力士ヴォーカルをやるの。うん、これは行けそう。いまの私の体型

も生かせるし。よし、日本を代表する歌と踊りのアーティスト、ザ・相撲レスラ

ーズ結成よ! 歌と踊りができる力士のみなさーん! 応募してきてね!

                       了

 

 

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第五百六十二話 経済効果〜妄想五輪−6 [妄想譚]

 二千十二年のロンドンオリンピックが終わった。その経済効果は二億六百八

十億だという。商機を見つけることに関しては抜け目のない欲野大造は、二億

という数字を聞くやすぐに思った。じゃぁ、次の商機がみえているではないか。

四年後のオリンピックはブラジルだという。ならばと、閉会式をテレビで見た

翌日、大造はすぐに旅行代理店に赴いて、リオデジャネイロのホテルを予約し

ようとした。だが、残念ながらお客様。代理店受付嬢がいうには、一ヶ月先の

宿しか予約できないという。四年先の部屋を予約するためには、一ヶ月後から

ずーっと四年間ホテルをキープし続ける必要があるという。こりゃいかんな。

そんなことしてたら破産してしまう。

 大造はホテルの客室千部屋を確保することをあきらめた。ならばと考える。

ブラジル国旗だ。あのデザインの品物をつくろう。緑地に黄色い菱形、その中

に丸い宇宙。かっこいいじゃないか。今回も英国国旗がデザインされた者が沢

山出回っていた。Tシャツ、ジャンバー、マグカップ、プレート、キャップ、下

着のパンツ、サンダル・・・・・・いまからたくさんつくって四年後に向けて販売すれ

ばいい。そうだ、これはいい商売だ。大造はさっそくデザインを発注し、国旗を

すり込むアイテムを手配した。

 オリンピックは四年毎だ。四年という年月は、選手たちにとっても長い時間だ

が、これをビジネスにしようという者にとっても長い。大造は忘れていた。四年

前にもまったく同じことを考えて、英国国旗デザインの品々を大量に発注したこ

とを。大造が借りている倉庫には、英国国旗デザインのアイテムが山のように売

れ残っていることを。

                          了

 

 

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第五百六十一話 潜在能力〜妄想五輪−5 [妄想譚]

「新記録を出すためにドーパミンを打つなんて、ばかげてる。そんなことをし

なくとも、人間に眠っている潜在能力を引き出すもっといい方法があるのに」

 言ってのけたのは、かつて誰でも簡単に操られてしまうという催眠術で世間

をあっと言わせた男、松尾筧祐だ。松尾は酔った勢いで、グラスを傾けながら

カウンターの向こうにいるバーテンに世間話のつもりで言ったのだが、ここは

人気のショットバー。その話を黙って聞いている者がいた。偶然隣席で飲んで

いた一人のアマチュアアスリートだ。小山は 一度でいいからオリンピックに出

てみたいと夢を見てきたのだが、陸上部にいながら二十歳になった今まで一度

だって記録を誇ったことなどなかった。汗や努力は大嫌いという男なのだから

当然といえばその通りなのだが、それでもオリンピックに出たいという夢だけ

は忘れられないのだから困ったものだ。

「今ちょっと聞こえちゃったんですけど、本当ですか、その潜在能力の話」

「ん? 興味を持ったのかね?」

「ええ、突然話しかけてすみません。実はぼくも陸上部にいまして、常々考え

ていたんですよ。あんなもの、足を早く繰り出しさえすれば、そうして歩幅を

少しでも広くしさえすれば、簡単に早く走れるのではないかと。そのためには、

身体を鍛えるよりも、精神力の方が大事なのではないかと思ってたのです」

「ほう。なかなか 面白いことを言うね、君」

「はぁ。自分に念じてみるんです。おまえの足はもっと速く動く。もっと大き

くステップを踏み出せると。だけど、無理なんです。もしかして、これは催眠

術とかをかけてもらって、自分はボルトよりも早く走れる! って自己催眠す

れば、世界新記録も夢じゃないのではないかと」

「その通り! できるんだよ。催眠術で君の潜在能力を引き出すことが。私は

この、催眠走法を受け止めてくれるアスリートを探していたのだが、君、やっ

てみる気はあるかな?」

 嘘か誠か、眉唾な話だが、バーで偶然知り合った男が有名な催眠術師で、し

かも自分が願っていたことをしてみせるというのだから、小山がこの話に乗ら

ないはずがなかった。小山は男から名刺を受け取り、その裏に男が指定する場

所と日時を書き留めた。やはりぼくが考えていたことは間違っていなかった。

これで、念願かなって次のオリンピックではぼくが伝説になるんだ!

 約束の日、小山は勇んで男の事務所へ出かけた。そこで催眠術を受けて、自

分の中に眠る潜在能力を呼び起こしてもらうのだ。

「おお、やってきましたね。では、そこのいすに腰掛けてゆっくりなさってく

ださい。落ち着かれたら早速はじめましょう」

 十分後、小山は男の催眠術によって深い眠りに入っていた。男は、単に身体

能力を高める暗示をかけるつもりだったのだが、小山が”ボルトになる”という

キーワードに強くこだわったので、それを取り入れることにした。

「筋肉が高度に高まる。そして速く、誰よりも速く走れる。あなたはボルトだ。

競技場に入ると、あなたはボルト選手になるのだ!」

 パチン! と指を鳴らす音で目を覚ました小山はとても爽快な気分で帰って

行った。翌月。学生陸上の地域予選。小山は自信たっぷりだった。部の仲間にも、

今度の俺は違うぞとさんざん吹聴して回った。ボルト気取りで市民グランドにや

って来た小山は、競技場に足を踏み入れたとたん、顔つきが変わった。本当に自

信満々の表情。そして本物のボルトにも負けないくらいに尊大な態度。

「今日は日本陸上の伝説がはじまる日だ」

 いよいよ百メートル競技の予選がはじまる。小山もその選手陣の中にいた。ジャ

マイカ選手が着ていたのとよく似た緑と黄色のランニングウェアを着用した小山は

本当にぶると選手のような顔つきになっている。小山がいる組の番になった。一列

に並ぶ7人のアスリート。小山は第三トラックだ。国際大会と違って国内の学生大会

で、しかも地区予選なので、スタートの合図は昔ながらの手撃ちによるピストルだ。

 用意・・・・・・パン!

 各者一斉にスタートを切る。小山は少し出遅れた。だが、すぐに・・・・・・すぐに?

盛り返すかと思えば、すざましい形相の小山はまるでスローモーションを演じている

かのようなゆっくりとした動きで、テレビで見た通りのボルト選手の走り真似を真剣

に行っている。高く上がる腿、大きく前後に振られる両手。大きな動きで、また大き

な歩幅で繰り出される足。だが、他の選手はもうゴールしている頃、小山はまだ半分

も走っていない。ボルトになりきることが優先されて、その子細にわたって再現する

ためにすべての時間と筋肉が費やされたのだ。いまだ七十メートル地点走る小山は、

まさにこれからごぼう抜きをしようとしているボルトそのものに見えた。観覧席から

パラパラと拍手が起きる。催眠走法は失敗だった。催眠術は、小山の潜在能力を引き

出すことよりも、ボルト選手になりきることを可能にしたようだ。笑いと喝采の中、

小山はボルトの物真似をするアスリートとして伝説になった。

                         了

 

 

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第五百五十九話 プレゼン姿勢〜妄想五輪−4 [妄想譚]

 オリンピックが終わって、ようやく社内にも仕事に集中する雰囲気が戻って

きた。取引先も同じ様子のようで、しばらく待ち状態になっていたプレゼンテ

ーションを行うことになった。

 取引先は早めに我が社の大会議室にやってきて、我々のメンバーが揃うのを

待っていた。準備万端整って、最後に扉を開いて入ってきたのは、本日の主役

といえるプレゼンテーターを買って出た古谷美香だ。古谷は背筋をピンと伸ば

し、後ろに反り返るくらいに胸を張って颯爽と入室した。事がはじまるのをい

まや遅しと待っていた得意先の面々は、古谷の堂々たる姿に一瞬息を飲み、そ

の姿勢の良さに目を見張った。

 得意先の食い入るような視線をものともせず、古谷は会議室の奥にあるスク

リーンのところまで大きく両手を振って歩み寄り、大げさにお辞儀をした。い

よいよプレゼンテーションがはじまるのだなという余興めいた最初の盛り上が

りがあった。一瞬、緊張する室内の空気。

「みなさま、お待たせいたしました。本日のプレゼンテーションをさせていた

だきます古谷と申します。どうぞ最後までよろしくお願いいたします」

必要以上に大きく口を開けてはきはきと話しはじめる古谷。姿勢と同様に堂々

とした物言いに、得意先の人々は息を殺して、再び魅了されたようだ。プロジ

ェクターの光がスクリーンに映し出す企画書に注目するように一旦黙り込んだ

古谷は、静かに説明をはじめ、時には説得するように、時には高揚した話しぶ

りで、淡々とした喋りの後は、ゆっくり朗々と、古谷のパフォーマンスは進ん

で行った。

 古谷の上司である田中部長は、必要以上ににこにこしながら古谷の一挙手一

投足を見守る一方で、得意先の反応を眺めていたが、ふと何か感じる違和感を

覚えた。はて、なんだろうこの違和感は? そう思ったが何が違和感を醸し出

しているのか、すぐには気がつかなかった。

「さていよいよ本題です。みなさま、ご注目ください。これが我が社が開発し

た新しい投資システムです」

 古谷は説明しながら大きく身体を動かした。右へ左へ。スクリーンを指す手

がからくり人形のように左右に振り動かされ、ぴょんと飛び上がって一歩後ろ

へ、一歩前へと忙しく動きはじめる古谷。調子に乗ったのか、止せばいいのに、

片足ずつぴーんと跳ね上げてみせたり、頭をフラメンコのように左右に激しく

動かしながら説明を盛り上げていく。そして大団円。一気に言葉を費やして、

見事にプレゼンテーションを終えた。

 数秒間の静寂。得意先もあっけにとられていたが、その後、古谷に向かって

小さな拍手が送られた。田中部長がフォローの言葉を発した。

「い、いかがでしょうか。古谷の説明はおわかりになられましたでしょうか?」

 スクリーンを正面にして六人ならんだ得意先は、お互いに顔を見合わせ、小声

で何かをやりとりしていたが、やがてプロジェクトリーダーの竹田が何かをノー

トに書き付け、我々に向けてみせながら言った。

「エキスキューション三八.一、オーバーオール・インプレッション四二.五」

  そのとき初めて田中は違和感の原因がわかった。

「古谷君、きみ、どうして、その・・・・・・鼻を洗濯ばさみで挟んでいるのだね?」

 古谷は一瞬、悪戯を見つけられた少年のような表情を見せたが、すぐに気持ち

を入れ替えて、言った。

「すみません、部長。どうしても昔の癖が抜けきらなくて。私、このようにしな

いと緊張してしまうんです。何しろ、この会社に入る前にやっていたことの歴史

が長すぎて・・・・・・」

 田中ははっとした。そうだった。古谷は長い間、我が国のシンクロナイズド

競技を支えてきた選手の一人だった。社長が強いファンで、引退後の古谷を鳴り

物入りで引き抜いたのを、田中は忘れていたのだった。

                         了

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第五百五十八話 世界最速の男〜妄想五輪−3 [妄想譚]

「おい、見たかよ、昨夜の陸上競技」

 同僚たちと昼食を摂りながらかわす会話はおおよそテレビかスポーツの話。

とりわけいまはロンドンで行われている競技の話で持ちきりだ。

「大昔にカール君って、世界最速だなんて言われてたんだけど、あのときは十

秒切れないってくらいだったのに、ボトル選手は軽々九秒代だもんな」

 ぺちゃくちゃおしゃべりをしながら弁当を口に運ぶ渡辺の前で、釘田は弁当

箱の蓋を閉じた。

「ごっそーさん、お先に」

「え? ええー? もう食ったのか、釘田。お前は早いねー飯食うの」

 飯を食うことだけじゃない。釘田は何をするのも早い。仕事場にやって来る

のも一番だし、仕事を片付けるのも早い。だから親方からは一目置かれてい

るし、信頼もされている。仕事が早いから、夕方になるとその日に予定されて

いた作業はとっくに終わっており、もう帰り支度をはじめている。仕事場に来る

のも早いが、帰るのも早いのだ。

「おめー、もっとゆっくり仕事したらどうだ?」

 仲間からそう言われるが、手が早いからといって、乱暴なわけでもないし、出

来上がりは手の遅いやつよりも美しいくらいだ。工場で制作しているものの多く

はボルトとナットがほとんどで、これらはほんの数ミクロンずれても役にたたなく

なってしまうという部品だから、精密さが求められるのだ。だが、釘田がこしらえ

た製品には微たる狂いもなかった。まるで自分自身が精密機械にでもなったよ

うに工作機を正確に操作し、無駄な動きをしなければ、釘田のような仕事ぶり

が可能なのだ。業務時間の合図と共に仕事場を出て、さっさと家に帰る。途中

で酒を飲んだりなんてしない。そんなもの無駄だからだ。酒場に立ち寄ったとこ

ろで、あっという間に酒が空いて、釘田はあっという間に酔ってしまう。その間

五分くらい。そんなことのために無駄な金を使いたくはない。

 家に帰ると妻の良枝が夕食を作っている。パートで働いている良枝は、釘田

りも先に帰って家の用事を済ませるのだ。子供はまだいない。釘田が夕方の

ニュースを見ていると、早々と食事が並べられ、夫婦揃って食卓につく。

「あなた、なんでも早く出来るのはわかってるけれど、食事くらいはゆっくりして

くださいよ。よく噛んで、ご飯は口の中で五十回は噛むのよ。その方が健康に

いいんだから」

 良枝にそう言われるので、釘田は家での食事はややペースが落ちる。よく噛

からだ。だが、口の中に放り込んだ米粒やおかずを、五十回以上噛まなけれ

ばと思うから、今度は噛むのに必死になる。下顎が機械仕掛けの人形が壊れ

てしまったかのように忙しくカシャカシャ動く。五十回も噛んでいるうちに、口の

中のものは自然に喉の奥に流れ込むので、容量がかなり減ったものをごくりと

飲み込む。カシャカシャカシャ、ごくり。カシャカシャカシャ、ごくり。ランチは三分

とかからないが、夕食は六分近くかかる。良枝がまだ食事を終えていないうち

に、先に食事を済ませ、風呂に入る。五分後には風呂から出て、テレビの前に

寝転がる。

 良枝は、悠然と食事を終えて後片付けをする。時々は、洗い物をしている良枝

のところに夫がやって来て、洗い物は俺がするから、風呂に入ってこいとか言う。

そういう時は素直に夫に従う。夫は仕事と同様に、家事をやらせても手早く、正確

なのだ。いつもやってくれといえばするだろうが、申し訳ないので良枝からは頼ま

ない。なんでもかんでも手早い夫だからといって、何でもかんでもやらせるわけに

はいかないと思っているのだ。香枝は夫にほぼ満足している。寡黙だが、真面目

で優しく、香枝のことを愛してくれている、そう思うから。ほぼというのは、ほとんど

ということなのだが、実はたったひとつだけ不満があるのだ。

 良枝が風呂から出ると、夫はテレビの前で居眠りしている。身繕いを整えてから、

夫を寝室に促して、自分もベッドに入る。テレビの前で眠っていた夫は一旦目覚め

てベッドに入り、香枝の身体をまさぐりはじめる。夫婦の営みだ。風呂上がりに着た

ばかりの寝巻きを脱がされ、夫が肌を寄せてくる。だが、三分も経たないうちに、夫

はことを済ませて嚊をかきはじめる。そうなのだ、このときも夫は早いのだ。これが

唯一、良枝が世界最速の男に持っている不満なのだ。

                                   了

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第五百五十七話 余裕〜妄想五輪−2 [妄想譚]

 あまりにも違い過ぎる。周りの奴らは全然いけてねぇ。なんでこんなもの、

さっとできないんだろう。ただ前へ前へと脚を繰り出しさえすれば、ほんの九

秒ちょっとで終わっているというのに。人間の能力ってそんなものか? 屁た

ればかりなのか? ……いや、違うな。周りがダメなんじゃない。俺が凄すぎ

るんだ。俺が本気を出すまでもなく、俺と他の六人は、大人と子供くらいの差

があるんだ。けっ、こんな奴らを相手に本気を出せるかっつーの。

 世界最速の異名を持つウサギン・ナットは、いままで短距離レースを死ぬ

気になって走ったことがない。そんなことをしなくても、ナットより早く走れる

選手がほかにはいないからだ。スタート時点では本気を出しすぎると、フラ

イングしそうになるので、他の奴らに併せて走りはじめる。だからほんの少

し出遅れたりもするが、そんなもの問題じゃない。そこから七秒あたりまで

を、少し力を入れて走ると、あっという間に他の奴らは後ろに下がって見え

なくなる。そこで俺はふっと力を抜いてゴールを駆け抜けるんだ。それでも

必ず一位。誰か俺を抜いてみろっていうんだ。

 ナットはこの時から後も、数年間はこんな感じで走り続けた。だが、ナット

の記録を超えられるものは誰も出てこなかった。五年後、ナットは三十歳に

なり、いささか体力の衰えを感じはじめ、自己新記録を超える力はもはやな

くなっていたが、ナットを含めてかつてのナットより早い人間は一人もいない

のだった。もはやナットは走ることに飽きていた。ライバルが出てこない以上、

つまらないし、自分自身も限界を感じているし。まぁ、ここらでいいだろう。これ

以上、必死になることもないし、小金もできたし。ナットはにわかに人生を減速

させ、遂に走ることを辞めた。減速を決めたとたん、世の中の風景が早送りの

ようにスピードを上げ、逆に自分自身の動きが緩慢になったような気がした。

 ハイスピード撮影で撮らえた、カモシカが走る姿のように、自身の動きが止ま

っているような感覚になり、倍速撮影で撮らえた、ものが腐っていく動画のよう

に、肉体が衰えるのを感じた。ゴールはもう目の前なのか。ナットはゆっくりと

歩きながら目を閉じて、崩壊していく自己を感じ取りながら、静かに目を閉じた。

                                    了

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第五百五十四話 オリンピック疲れ〜妄想五輪−1 [妄想譚]

「おい、君。三日も会社を休んでどうしたのかね。それに今日だって、久々に

出てきたと思ったら、眠そうな顔をして。夏バテじゃないだろうな」

「あ、課長、すみません。勝手いたしまして。実は、言わなかったんですけど、

オリンピックで」

「なに? オリンピック? 毎晩遅くまでテレビを見てて、オリンピック疲れで

勝手に会社を休んだりしてたというのかね?」

「あ、いえ、会社には一応休暇届けを出してますけど……それに、テレビじゃ

なくって、ロンドンに」

「なに! 君は、私に黙ってロンドンに行ってたというのかね?」

「はぁ、すみません。結果が出せたら、ご報告しようかと」

「なんだ。どういうことだ。結果が出せたらって。何を応援してたんだ。どの競技

の結果を報告するつもりだったんだ」

「いえ、その。応援とかじゃ……」

「サッカーかね? 頑張ってたじゃないか。男女ともに。そんなもの、君の報告を

またなくても、俺だってちゃんとライブで見て」

「いえ、サッカーじゃないっす。そんなメジャーな……」

「じゃぁ、体操か? あれも後半がんばったしな」

「いえ、その、もっと地味な……」

「地味な? ……柔道かな。柔道だって地味じゃないか。あれも頑張ったしな、

特に女子が」

「ま、近いといえば……近いような」

「シンクロは派手だし、ああ、そうか、ハンマーか。ハンマー投げだな? い

や、アーチェリーも頑張ったぞ。レスリング? いや、ボクシングか? そうか、

重量挙げ? バドミントン? なんでもいいけど、俺は全部もう結果を知ってる

ぞ、君の報告なんて受けなくても」

「そ、そうですか。まぁ、負けちゃったし。だから報告もできないし」

「なんだ、気になるなぁ。何を応援してきたんだよ。言えよ」

「あの、課長。応援疲れじゃないっす」

「応援疲れじゃない?じゃぁ、何なんだ」

「出てたんっす。オリンピックに」

「まぁた。君がそんな競技をしてるなんて聞いたことないぞ」

「でも、そうなんっす。勝てたら言おうと思ってたんっすけど。負けたから……」

「なんだ、負けたのか。残念だったな。オリンピックに出てたんなら、さぞか

しお疲れだろうな。じゃぁ、今日はもう帰って休め!」

「あ、ありがとうございま」

「……なんてことは言わんぞ。それとこれとは別だ! 三日も休みやがって。

ちゃんと働け! 負けたんならなおさらだ。お国のためにもっと働け!」

「な、なんですか、それ。もうお国のために死闘してきたのに」

「でも、負けたんだろ? ざーんねーん!」

「ひ、ひどい。ぼくなりに頑張ったのに」

「メダルを持って帰らないとな」

「そ、そんな。メダル取れなかった選手の方が多いのに」

「じゃぁ、何か? 参加することに意義があると言いたいのか?」

「そ、そうじゃないんですか?」

「で、君はなんの種目に出てたんだ?」

「いえ、その」

「言えよ」

「ま、その」

「言えよ」

「うーん」

「言ったら許してやるぞ。言え。言いなさい。言い給え。言ってくれ。言って

たもれ」

「・・・・・・サ、 サム・・・・・・レスリング」

「サム・レスリング? なんじゃそれ」

「つまり・・・・・・」

「つまり?」

「…………ゆび……相撲……」

「指相撲?」

「指相撲」

「そうか、それは大変だったな、じゃぁ今日は帰ってゆっくり……おい、そんな

競技、オリンピックにあったか?」

「……」

                                  了

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