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第九百五十六話 臨時生 [怪奇譚]

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。本日未明、大日本帝国海軍は西太平洋において……」

 かつてはテレビやラジオで突然番組が切り替わってこのようなメッセージがアナウンスされたものだ。臨時ニュースとは定時ではなく、まさしく臨時に報道されるニュース。ところが最近では滅多にこういうニュースを見なくなった。なぜかなと思ったら、最近の臨時ニュースはチャラリンという効果音とともに、テレビであれば画面の上方にテロップとして流れる。現代っぽいツールとしては携帯の待ち受け画面にやはりテロップで流れる仕組みのものや、インターネットニュースでは次々と随時新たなニュースが追加されていく。街に出れば街頭ビジョンやビルの屋上などに文字情報でときどきのニュースが流れる。近頃のスマートフォンというやつは、地震や豪雨、熱中症注意までもがピロリン♪という音とともに各人の端末に配信されてくる。こんな具合だから、それこそ戦争が勃発するくらいの一大事でなければ番組を中断してアナウンサーが登場するような臨時ニュースはなくなったのだ。そういえば先の震災直後にはこの臨時ニュースを見たように記憶しているが、やはりこれは戦争勃発と同じくらい重要な報道だったということだろう。

「ちょっと、臨時で車かしてくれるかなぁ?」

 友人のタケシが言うので、絶対に傷をつけるなよと言ってキーを渡す。臨時でというけれども、これは毎度のことなのだ。タケシは車を持たない癖にドライブが大好きで、レンタカーを借りるくらいなら車貸してやるよ、と言ってやったら申し訳なさそうに借りにきた。しかし申し訳なさそうにしていたのは最初のときだけで、それ以来当たり前のように借りに来る。まぁ、ガソリン代だけだしてくれるなら構わないけれども、まるでタケシの車保管係みたいな気になってきた。こうなったらレンタル料をもらうようにしようかなぁと思いはじめている。タケシは親友だし、彼はデートのために車が必要なんだから、まぁ仕方ないというか、金は請求しにくいのだが。

 その夜遅く、玄関のチャイムが鳴った。扉を開けるとタケシが立っていた。

「なんだよ、こんな時間に。デートじゃなかったの?」

「ああ、そうなんだけど……ちょっと、貸してくれないかなぁ?」

「貸すって……今朝、キーを渡したじゃないか」

 妙な胸騒ぎを感じながらタケシの様子を見なおした。今朝車を貸したときの服装と変わらない。がよく見るとシャツのところどころが破けていた。

「車っじゃぁないんだ。臨時で身体を貸してほしい」

 なぁんだ、そうか。身体か。傷をつけるなよ。と言いそうになって唾を飲んだ。どういうことだ?

「悪い。俺さ、車ごと谷に転落しちゃってさ、身動きとれないんだ。俺はもう大怪我だしどうでもいいんだけれどな、せめてヨメだけでも助けてやりたいんだ。頼む、お前の身体を臨時でいいから貸してくれ!」

 なんということだ。タケシは助けを求めに来たのだ。臨時とはいえ、身体なんて貸してしまっていいものだろうか。そんな谷底へ彼女を助けに行って、ぼくの身体まで帰れなくなるかもしれないのだ。ぼくはちょっと時間をくれと言って考えた。タケシはゆらゆら揺れながら玄関口で待っている。

「早くしてくれよう。ヨメも死んじゃうよう。身体を貸してくれ」

 ぼくは決めた。どうせ臨時なんだ。決められた人生じゃないんだ。事故で死んだぼくは天の計らいで甦るために借りていた臨時の身体を親友に貸してやることに決めた。わかった、貸してやるよ。言うと、意識が遠のき、タケシが身体の中に入ってきた。

                                                  了


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第九百三十四話 線香の煙 [怪奇譚]

 今年いちばん暑い一週間が終わろうとしている。窓の外では蝉がやかましく騒いで、過ぎていく夏を引きとめようとしている。まだ、盆休みは二日ほど残され てはいるが、窓の外からにじり寄ってくる残暑の気配に、ああ、今年の夏も夏が終わろうとしているのだなあという気分がしみじみと湧き出てくるのだ。

 子供だった頃なら、夏休みはまだもうしばらく続くので、泳ぎに行こうか、虫採りをしようか、それとも自転車で遠乗りしようかとまだまだ遊び足りない夏を 楽しもうとしていたはずだが、大人にとっての夏は悲しいくらいに短いのだ。ドリルも自由研究もないかわりに、いつもと変わらぬ日常がすぐにはじまってしま う。

 仏壇の鐘がちーんと鳴って、ろうそくに火が灯される。懐かしいお線香の香りが漂いはじめると、いよいよみんなも帰っていくのだなと、少しだけ寂しい気持 ちにとらわれる。兄貴たちは東京行きの切符が手配済みなのだろう、しきりに時間を気にしているし、妹夫婦は自家用車に積み込む荷物をまとめはじめた。両親 も祖父母も、子供たち孫たちがそれぞれの家に帰ろうとしている様子を静かに見つめている。ほんとうはもうしばらくいてくれたらいいのにと、音を出しそうに なるのをじっと堪えているのが手に取るようにわかる。私だって同じ気持ちなんだもの。でも、みんなそういうわけにいかないことくらいわかっている。それぞ れの生活が、人生が、待っているのだからね。私も、ご先祖様たちも、生きている者を止めることなどできない。してはいけないのだ。たとえ思いが強いとして も。お線香の煙とともに次第に薄れていく自分の影を感じながら私は、同じように仏壇の中で薄れていく父母や祖父母の後ろ姿を眺めていた。

                              了


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第九百三十三話 特別なお化け屋敷 [怪奇譚]

 夏場の遊園地やお祭りにつきものなのがお化け屋敷というアトラクションだ。最近ではお化け屋敷プロ デューサーという肩書を持つ人も登場しているらしく、各地でその手腕を発揮しているという。私が住んでいる町でも今年は斬新なお化け屋敷が公開されると聞 き、恐いもの好きの私としてはなんとしてでも新しいお化け屋敷と言うものを体験したいと思っていたのだが、なにかと雑用仕事が多くてなかなか赴けないでい た。

 ようやく一日だけ休暇が取れたので夕方までゆっくり休んで、日暮れとともにお化け屋敷のあるところへと向かった。交際中の彼女も誘っ てみたのだが、そういうのは金輪際お断りと言われ、仕方なく男ひとりの恐怖体験だ。お化け屋敷は古びた商店街の中にあった。「恐れたお化け屋敷」という看 板が大げさな血のりのついた文字で描かれた看板がかかっていた。夏祭りも昨日で終わり、もうひと通りの客は楽しみ終えたと見えて、入館の列さえなかった。

  入口横に切符の自動販売機があって、おひとり様500円と書かれてある。ちょっと高いなと思いながらコインを入れると、小さな紙片がこぼれ出た。入口横の 小さな窓口に切符を差しだして、暗くなった建物に足を踏み入れる。このお化け屋敷はなにが斬新なのかというと、業界で初めて本物の家、つまり古民家を利用 したアトラクションなのだそうだ。たしかに作りものではないリアリティを感じた。もともとは商店街の中で商売をしていた建物だということだが、もはやどこ が店になっていたのかわからないほどに手が入れられている。土間らしきところから靴を履いたまま一段上がると廊下が続いている。古い日本家屋というもの は、それだけでなにかひんやりと感じるものがある。ぎしっぎしっと板張りの廊下がきしむ。右側に和室があって、老婆が後ろ向きに座っている。その横を通り 過ぎなければならないのだが、動かぬ人形である老婆が妙に気持ち悪い。通り過ぎようとしたそのとき、きりきりきりという音とともに首だけがこっちを向い た。その口は耳まで裂けて……ぎゃあー! でもこれ、作り物でしょ? よく出来てるけど。老婆の横を通り抜けてさらにオクへ進むうちに、お化けの扮装をし た縁者が飛び出してくる、天井から気色悪いものが落ちてくる、壁から血のりをつけた蝋人形が飛び出してくる、と様々な仕掛けが楽しませてくれた。十数分で すべてのアトラクションを堪能して出口にたどり着いた。どうやら入館した入り口の横あたりなのだが、もう一度入り口の看板を見ておこうと見上げたがどこ にも見当たらない。はて? 間違えてるのかなと思って呆然と立っていると、商店街の一員らしき男が寄ってきて言った。

「あれ? お化け屋敷ですかぁ? 残念でしたねぇ、これ、昨日のお祭り終了と一緒に終わっちゃったんですよ。もう、何もありませんよ。一日遅かったですね」

                              了
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第九百三十二話 墓参り [怪奇譚]

 次男坊である父の家には仏壇がなかった。そのせいかどうかはわからないが、子供のころには墓参りをしたという記憶がほとんどない。親戚はみなそれなりに長生きで、私が子供のころに亡くなった人がいなかったからかもしれない。父が晩年ある事情で長男家の墓と仏壇を引き取ることになってから、にわかにご先祖様のお参りという習慣が身近なものとなった。月に一度お坊さんがお経をあげに来るという月参りも大人になってから経験した。とはいうものの、まもなく実家を離れてしまった私には、やっぱり墓参りなどの習慣は縁遠いものであり続けた。

 それから二十年以上も過ぎて、父が亡くなってようやく墓というものがより身近なものになった。しかし闘病する間もなく動脈を破裂させて逝った父の死に様はまことにあっけないもので、はじめての肉親の死である割には現実感が乏しく、墓の中にお骨が入っているといわれてもおいそれとは手を合わせる気持ちになれなかった。母が毎月墓参りをするのにつきあわされて一緒に拝んでいたというのがほんとうのところなのだ。

 墓参りだけは必ずきちんとするように。母が亡くなる数年前に釘を刺された。なにをおいても墓参りをしておかなければ、ろくなことにならない。先祖をないがしろにするということは、すなわち自分自身の血を、ひいては自分の人生をないがしろにするのと同じだ。なにを根拠にしているのかはわからなかったが、母はそのようなことを強く言いつけた。

 しかし、もとより宗教を持たず信心する習慣もない人間にとって、墓参りなどというものは単なる形でしかなく、たとえ父母の骨が入っているといえども、形式以上に祈り奉るという心がない。いきおい墓参する回数は毎月とはならず、三月に一回、半年に一回、一年に一回という具合に少なくなっていった。父母のことなのにいけないと思いつつも、ついたかが手を合わせるためだけにわざわざ車を走らせて遠い墓まで行くという行動が面倒くさいのだ。部屋に置いてある遺影に向かって挨拶をすればいいではないか、という軽い行動で済ませ続けた。

 墓参りに関してはそのような心得で数年が過ぎ、年に一度の墓参りすら滞りがちになったいま、ふと母の言葉を思い出して我を振り返った。そういえば母と毎月お参りをしていた時分は、何もかもが上手くいっていたような気がする。母が亡くなったあたりでは経済低迷のために会社業績がすぐれず、そのために給与も下がり続けてきた。肉体的にも年齢のせいだと思うのだがあちこち病の芽が出はじめている。これはもしや墓参りを怠っているせい? 一瞬そんな疑念が生じたが、すぐに首を振った。いやいや、偶然そういうタイミングが重なっているだけだ。墓参りなど、家で写真に手を合わせるだけでなにがいけないのだ。帰宅途中、今週からお盆休みだがどこに遊びに行こうか、と考え事をしながら歩いていたのだが、唐突に目の前が真っ暗になった。脇見運転のトラックが私を引き飛ばして逃げて行ったのだ。

                                                    了


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第九百二十七話 失敗写真 [怪奇譚]

「なぁ、これちょっと、おかしいんじゃない?」

 ケータイで撮った写真を友人にメールで送ってやったら、後ろに変なものが写っているというメールが返ってきた。そんなこと全然気づかなかったのだけど、なにが映っているのかと思って送った写真を改めて見直した。

 たしかに友人の斜め後ろあたりに知らない人の姿が宙に浮かんだ形で写りこんでいた。またやってしまったらしい。よくあるんだな、こういうことが。つまり二重写しってやつ。昔、フィルムに写すカメラの場合、フィルムを巻くのを忘れてもう一度撮影してしまうとこういうことがよくあった。いまはデジタルなのになぜ? と思うけれども、デジタルはデジタルでデバッグというもの、つまり誤動作によって同じようなことが起きるんだと思う。詳しいことはわからないけれども、少なくともぼくの場合はよくあるんだ。

 二重露光以外にも、奇妙な写真はよく撮った。顔が奇妙にぶれてしまった手ぶれ写真、手や顔が途中で消えてしまっている露出不足写真、被写体の肩に手が乗っている遠近感錯視写真、背景に奇妙な顔が写りこんでいる写真……これは背景の木々や壁などの凹凸に影が落ちていて顔みたいに見えるものだ。写真に奇妙なものを見つけるたびに、友人や被写体になった人は驚いて騒ぐのだけれども、なぁに前部理由が分かっている。ぼくが撮るとなぜかそういう風に写ってしまうんだな、へたくそだから。

 それにしても昔に比べたら、写真の奇妙さが少しずつ過激になっているような気がしないでもない。昔は気がつくかどうかくらいのブレとか影だったのに、いまやこれ見よがしに顔全部が消えてしまってたり、切り張りしたように知らない人物が空中に浮いていたりするんだもの。撮影の腕がどんどん下手になっているとしか思えないのが辛い。それとも歳とともに目が悪くなり、手に震えが来ているからかなぁ? こないだなんて、凹凸のない白壁バックに自分撮りしたら、隣に変な首が写っていたし。どうもうまい具合に車のライトかなんかが反射して写りこんだんだろうな。どう見ても人の顔に見えちゃうから、あれ、友人に見せたらまた何とか写真だって大騒ぎになるんだろうな。去年、海で撮ったとき、友人一家の子供の背中に覆いかぶさるように写っていたあれはすごかったな。波しぶきがあんな風に見えるなんて、奇跡としか言えないと思う。いくらへたくそなぼくだって、あんな写真は二度とは撮れないな。しかしあの子はあの後事故に遭っちゃって、可哀そうなことをした。ま、それは写真とは関係ない話だけれども。

 それにしてもケータイで撮ろうがデジカメで撮ろうが、こんな写真ばかり撮ってしまうぼくはいったいどこまで撮影が下手なんだろうね。ほんとうに厭になってしまう。そういう撮影教室にでも行って勉強した方がいいのかもしれないな。でもまぁ、失敗写真ばかりでもないのだから、まぁいいか。人にはいいのだけをあげればいいのだからね。

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第九百二十六話 恐怖の正体 [怪奇譚]

 会社帰りに飲みが入ってつい遅くなり、最終電車に飛び乗る。同じような酔客がたくさん乗っているのだが、駅に到着する度にひとりふたりと数を減らしていく。やがて終着に近い駅で降りると、もうあたりはしんとして、走りゆく最終電車の後姿ももの寂しく感じてしまう。改札を出ると同時に駅の灯も落とされますます深夜の空気が濃度を上げる。もう酔いも冷めてきているはずなのだが、足元はまだおぼつかず、ふらつきながらゆっくりと歩いていく。家のあるのは、駅前の繁華街からは遠ざかる方向。もはやタクシーもなく、仕方なく十数分の道のりをひとり歩く。国道を越え、道幅の狭い住宅街に入っていくと、さすがに人影ひとつなく、見慣れた風景が暗闇を背景にゴーストタウンのように不気味さを浮かべている。さらに狭い道へと入っていったときに、背後になにかを感じる。酔いでぼんやりした脳裏にさえ冷たいものが流れて思わず立ち止まる。不気味だ。恐る恐る振り返るが、誰もいない。気のせいか。大人げなくも恐くなって早足になったそのとき、前方の家の影でなにかが動いた。どきっ。心臓が一瞬止まる。なんだ? 影が見えた家の壁を遠巻きにしながら近づいていく。またちらっと動く。人か? 駆け出したくなるほどに恐怖は募るのに、こういうときには見かけたものの正体を知りたいと思う。恐いもの見たさというやつだ。後で見なけりゃよかった、見ずに走って逃げればよかった、そう思うかどうかすら考えない。とにかく目に入ったものの正体を見極めたいという気持ちになるものだ。じわじわとにじりよるように、その家の角の向こうを見ながら近づいていく。また黒いなにかが動く。思い切って向こう側に飛び出して角の向こう側に目をやる。

 たいていなんでもない正体にがっかりさせられる。今回は、家の軒下に黒いごみ袋が引っかかっていて、それが風に揺れてちらちらしているだけだった。なぁんだ、やっぱり。そんなことだろうと思った。

 映画や小説のように、恐ろしいものが身近に潜んでいるなどということは、現実には滅多にない。滅多にどころかまったくないと断言してもいい。それなのにときとして恐怖を感じるのは脳内の作用だ。正体のわからないものに対して勝手に妄想して恐怖を募らせるのが人間だ。吸血鬼や人造人間、狼男、未知の宇宙生物、火星人の襲来、遥か異次元からの来訪者、地中から甦ったゾンビ、海底人間、空飛ぶ人食い怪獣……そんなものが実在するはずもなく、それなのに勝手に妄想して恐ろしがる。反対に恐ろしがるためにそういう未知の怪物が登場する物語がつくられ、人々はその虚像を知りたがるのだ。

 正体のわからないものに恐怖を感じる。それは真実だ。現にいまの私にも恐怖を感じるものがとても身近に存在する。そいつがいつ、どこで生まれたのかを知っている。どんな境遇で育ってきたのかも。そいつのことを誰よりも知っているはずなのに、いまだにわからないことだらけだ。そいつの遺伝子はどこから来たのか。なんのためにここにいるのか。ここでなにをしようとしているのか。そいつの正体が遥か宇宙からやってきた生物の末裔でないとなぜ言える? そう考えるとますます不気味に思えてくるではないか。なによりも誰よりも正体不明なそいつ、それが自分自身だというのが一層恐ろしい。

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第八百九十八話 攻撃 [怪奇譚]

 広大な土地に豊かな穀物が実り、私たちはいつでも好きなときにその実りを収穫して腹に収めることができていた。ここは言ってみればこの世に実在する数少ない楽園だった。あれがやってくるまでは。

 私たちはいつものように実りの地に出向き、太陽の光を受けて金色に輝く稲穂の収穫を行おうとしていた。しかしそこには既にあいつが出現していたのだ。私たちは皆一様に驚いた。見たこともない不気味な存在。あれはどうみても人間ではない。哺乳類とは思えない細く堅い脚で大地に立ち、薄汚れたその衣装の裾が風になびいて揺れているのが一層不気味だ。奴は咆哮もせずにただただあの場所に立ちつくして生気のない瞳で私たちを睨みつけてる。恐ろしい。これがまだ人間であったならば、対処のしようもあるのだろうが。私たちは収穫のことなどすっかり忘れてこの恐ろしい存在と対峙していた。そのうち、若者が近寄ろうとしたが、風を受けてパタパタひらめく奴の動きを感じただけでおののいて身体を引いてしまう。誰だってそうだ。未知なる相手にそう簡単に近寄れるわけがない。年長者は相手の正体を探ろうと話しかけるが、そんなことは無駄だった。奴に私たちの言葉は通じない。それどころか、奴らはコミュニケーションなどというものは必要としていないのかもしれない。なにしろ顔色一つ変わらないその表情に浮かぶ口は微動だにしないのだから。

 風が止んだ。皆が私の方に視線を向ける。リーダーである私に何とかしろというわけだ。私だってほんとうは恐怖に反吐が出そうだ。だが、家で待っている子供たちの姿を思い出し、またみんなにも家族があり、収穫できなければ生きていけないことを考え、身体の芯を鼓舞させようと力を込めた。そして奴に攻撃を加えることを決意した。

 私は奴の周りをゆっくりと一回りしてから正面で制止し、いったん後方にとって返してターンし、その勢いで奴に向かって体当たりした。

 くるり!

 奴は軽く身体を交わして一回転する。私は後ろにすり抜けたその足で再び回転して今度は奴の身体の中心目がけて飛び込んだ。

 ばすん!

 一瞬気を失いかけた私は地面に落ちたが、奴の反撃を受ける前に立ち直した。だが、奴は攻撃する前と同じように薄笑いを浮かべたまま立ちつくしている。一体こいつはなんなのだ。反撃しないその様子がかえって気持ち悪い。私の攻撃などまったく意に介していないのだ。仲間にも私の恐怖が伝播していく。皆が後ずさりする。若者が声を上げて飛び去るのをきっかけに、皆が一目散に逃げ出した。もうここはだめだ。私たちはこの地を諦め、新たな楽園を探さねばなるまい。私はそう覚悟を決めて皆の後を追った。

 農地の持ち主が何十年振りかに倉庫から持ち出したそれは、かつて農民が稲穂を害鳥から守るために使われていたものだ。近年また荒らされはじめた田地に、効果があるのかどうか半信半疑で持ち出したそれはどうやら威力を発揮したようだ。雀たちが去った田地に残された一体のみすぼらしい案山子は自らの勝利にほほ笑みながら佇んでいた。

                                            了


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第八百九十話 毛の玉太郎 [怪奇譚]

 愛犬の太郎はトートバッグに入るくらいの小型犬だ。トイプードルと言いたいのだけど、なにかほかの犬種とのミックス犬だ。つまり雑種。去年、知り合いから譲り受けておおかた一年になる。プードルの血筋なので、もともと巻き毛がたっぷりな犬なのだけれども、もう一方の血筋も同様に長毛犬なのだろう、太郎はむくむくした茶色い毛でおおわれている。血統書付きの立派な犬ならペットサロンにでも連れて行って格好よくカットしてやるのだろうが、飼い主が貧乏であることも手伝って、今まで一度も散発をしたことがない。犬の毛はかってに生え替っていくのだろうが、それでもそうとうな毛の量になっている。

 一か月に一度か二度洗ってやる。最初は怖くて逃げようともがいていた太郎だが、次第に慣れて大人しく洗われるようになった。最近では気持ちがいいのだろう、風呂場でされるがままにじっとしている。こういう毛が多い動物を洗ったことのある人にしかわからないと思うけれども、太郎にぬるま湯をかけてシャンプーしてやると、太郎は半分、いや三分の一くらいの大きさになる。膨らんだ毛が水分を含んでぺちゃんこになってしまうために、大幅に嵩が減ってしまうのだ。普段は毛の奥に隠れている目もくっきりと表れて、とても貧弱で哀れな宇宙人みたいな生き物に変わる。太郎、お前はいったい誰? とからかいながらボディを洗い、顔を洗い、お尻や四肢を洗ってやるのだ。洗い終わって水分を絞り、タオルで拭いてドライヤーをかけて乾かすと、ようやく元通りのむくむくの太郎が帰ってくる。

 先に書いたように、太郎の毛はいままで一度もカットしたことがない。しかし今年は一足先に夏が来たようで、体毛のない人間でさえ暑くてたまらないのに、これだけ毛が多いと大変だろうと考えて、太郎もカットしてやることにした。お金はないので、もちろんぼくが自分で切ってやる。ペットショップでヘアケア用の鋏やブラシを買ってきて、いつもシャンプーするときのように風呂場に太郎を連れこんだ。人間でも同じだけれども、水で濡らす前に切らないとおかしな切り方になってしまうだろうと考えて、まずは鋏でチョキチョキ切りはじめた。プードルカットというのは難しそうなので、とにかく全体を短く刈り込んでやろうと思った。太郎は洗ってもらえると思ってじっと大人しくしている。実際の二、三倍に膨らんでいるであろうアフロヘアーっぽい頭の毛からとりかかって、どんどん切っていく。いきなり短くするのも怖いから、適当な長さで胴体や四肢に鋏を映して少しづつ切っていく。そう、ちょうど玉葱を剥いていくように、あるいはロシアのマトリョーシカっていう人形を外から順番に開いていくように、太郎は少しづつ小さくなっていくのが面白い。一回り小さな毛むくじゃらにはなったが、まだまだ暑そうだ。もっともっとカットしてやろう。ぼくの性分なんだろうけれど、なにかを始めたら夢中になって、とことんまで追求してしまう。太郎の毛を少しづつ切っていたのも、次第に大胆になって、ばっさり切り落としていく。太郎がどんどん小さくなっていく。まだ目鼻は見えない。はて、太郎ってこんなに小さかったっけ? 目の前に現れつつある生き物を小さな犬の形にカットしながら、どんどん切っていく。あまりに小さくなりすぎて犬の形が崩れていく。いけない、ヘンなカットにしてしまったら恥ずかしくて散歩に連れて行けなくなる。それでも手は止まらない。切って切って切って……最後の毛をカットしたとき、太郎の姿は完全に消え去ってしまっていた。

                                            了

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第八百六十三話 666は獣の番号 [怪奇譚]

 聞いたことがあるだろうか。これは日本では一般的ではない話ではあるが、西洋すなわちカトリック教会に属する者には有名な話だ。新約聖書にあるヨハネの黙示録によると、666という数字が獣の数字であると書かれているのだ。だが、その意味については、神の子の代理とするラテン語説や、ローマの暴君ネロを指すとする説、凶兆を示すとするエホバの証人説など、はっきりはしていない。だがこの三つの数字を有名にしたのは近年のホラー映画オーメンで、この映画の主人公である少年にはこの3つの数字が刻印されていて、それこそが悪魔の子供である証なのだという話になっている。

 そう、666とはこの世で最も不吉な悪魔の数字なのだ。本来キリスト教国ではない日本において、この数字にまつわる不吉な暗示を信じるモノは少ないと思うけれども、もし自分の身体のどこかに666と読める痣を発見したとしたらどうだろう。それでもそれが単なる痣であると笑って済ますことができるのだろうか。私は笑うことができなかった。

 得てしてこういう証は目につくところにあるものではない。脇の下だとか足の裏だとか、人目につきにくいところに刻印されて生まれてくる。私の場合は頭皮だった。なぜ両親がこれを見つけなかったのか、あるいは知っていたけれどもただの痣だと思っていたのか、それは両親亡きいまではわからない。私は青年の頃パンクに傾倒してモヒカン刈にした時に額の後ろに何か黒い印があることに気がついた。普通は髪に隠れて見えないところなのだが、頭頂に逆立つモヒカンヘアーの付け根のあたりに6の数字が3つくっきりとあったのだ。鏡の前でもう一枚手鏡を操りながら何度も確認して、ようやくそれが3つの数字であることを私は確認した。

 頭の中に三つの6という数字がある。だからどうだというのだ。実はそれはわからない。様々な文献を探しても、だからどうなるとは書かれていないのだ。ただ、あの映画の通りであるとするなら、私は悪魔の子であり、いつか悪魔としての自分に目覚めるのではないか。あるいは、獣の数字というからには、ある年齢に達した約束の日に獣に変身するのではないか……たとえば狼人間のように……こうした妄想ばかりが沸いてくるのだ。

 約束の日とは? それすらわからないが、少なくとも6が三つ並ぶタイミングこそがその比ではないかと、毎年六月六日の六時になる瞬間を凍りついて過ごしてきた。そして今日がその日なのだ。

 六月六日午前六時。私は昨夜から眠ることも出来ずにこのタイミングを待ち続けた。一時、二時、三時……五時を回るともはや時間の経過が長いのだか短いのだか、寝不足で朦朧とした時間が過ぎていく。昨年までは何ごとも起きなかったのだが、今年はどうなんだ。

 時計の針が五時五十九分を過ぎ、三十秒前、二十秒前、五秒前……ついにその時刻になったその時。今年こそは全身から血の気が引く感覚に襲われた。遂に約束の日に遭遇してしまったのか。いまやモヒカンではなく、通常の髪型である私の頭部に緊張が集まる。私は獣に返信するのだろうか。よろめきながら洗面の鏡の前に移動した。震えながら鏡の前に立つ。そこには青白い私の顔が見えている。狼に変身しつつある私の顔は…………なにも変わっていない。だが、頭頂部の髪がさわさわと立ち上がり、あたかもモヒカンのように逆だって立ち上がっていた。恐ろしい三つの数字は、どうやらモヒカンを促す数字であったらしい。

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第八百二十七話 ハッピー・バースデー [怪奇譚]

 

 バースデーというものは、年を重ねるごとに自分の中でうらぶれていく。まだ子供だったころには、親や親戚、周りの友達がみんなして祝ってくれたし、プレゼントをもらうのが楽しみで、バースデーが近づいて来るとなにかしらワクワクと心が浮ついたものだ。あの頃は、ただ祝ってもらえることだけが楽しみだっただけで、バースデーの意味などよく考えてもみなかった。

 

 歳を重ねるごとに、毎年やって来るバースデーの意味を考えるようになった。一年間生きたご褒美、人はそう言うが、実際には確実に一年歳を取っているわけだ。つまり、寿命を一年使い果たしたというしるしなのだ。

 ある賢人が言った。バースデーの度に一年老いたと考えるのは不毛だ。一年間の豊かな経験を身につけたと思う方がいい。

 確かにそういう考えこそが、これからの人生を意味あるものにするだろう。だが……

 私はバースデーという言葉に、なにか不穏なものを感じてしまう。

 生まれ来るもの。それの中には美しき者や正しき者もたくさん含まれるだろう。だがその一方で、悪しき者や穢れた者どもも生まれているのに違いない、そう思えるからだ。生命はどのようなものでもすべて清く尊く美しい、そう考えるのは妥当だが、生命あるものではない誕生だって世の中にはある。兵器の誕生、悪意の誕生、ウィルスの誕生……そんなものをここに並べるのは詭弁だというかもしれない。だが、間違っているか?

 私は自分のバースデーが来る度に自分の皮膚を見つめる。鏡の中に映った醜く美しい自分の姿……緑色の鱗様の皮に覆われた皮膚の下に埋もれた赤い小さなふたつの点が自分自身を見つめている。私は悪しき者なのか、それともそうではないのか。まだ小さかった頃には、皆私を恐れてバースデーの度に私を喜ばせようと努力していたのだが……その人たちもいまはもういない。

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