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第八百七十八話 オニヤマイ [文学譚]

 馴染みの店はいつになく混み合っていた。といってもカウンターに七席ほどあるだけの小さなバーなのだけれども、いつもはこの早い時間帯なら誰ひとり客が入っていないこともざらにあるような店なのだ。

 私はいつもは奥の席に陣取るのだけれども、すでに人が座っている。仕方なくいちばん入口際の空いている席でビールグラスを傾けていた。滅多に座らない端っこの席は、改めて座ってみると存外と心地いい。なぜかというとこの席は窓際でもあり、この時期には開け離れた大窓から舞い込んでくるそよ風が心地いいし、二階から見下ろす街路をぼんやり眺めているのもまたなにかしら風情を感じるのだ。若いマスターは奥の馴染み客と話をしながら仕事に励んでいる。私はどこか端っこの孤立感を秘めながらも、それでもひとりの空間を楽しんでいた。

 目の前のカウンター上には小さな椰子の葉を広げた植木が飾られているのだが、グラスを口に運びながら視野のどこかに違和感を感じた。緑の中に黄色い縞模様が見えたのだ。なんだこりゃ? グラスを置いて小さな椰子の葉を見直すと、黄と黒の縞模様の尾をしたトンボが止っていた。ありゃ、オニヤンマ。なんでこんなところに? いやいやよくできた飾りものだ。マスター、いたずらにこんなフェイクな虫を飾っているのだ。

 そう思ったとき声がした。

「何? 見つめないでよ」

 え? 誰? そっちこそ何? 隣の席に振り向いたが、一つ開けて向こうの席にいる客は、その向こうの客と賑やかに話していて、私に話しかけたりしていない。

「私よ。いま見つめてたでしょ」

 え? あ、そう……どう考えても目の前のトンボが話しかけているのだ。

「あんた、退屈しているの?」

 トンボは大きな目玉をくるりと回して言った。

「いや、別に。私はひとりを楽しんでいるんだ」

「あら、そう。でも目の前の女には興味をそそられるのね」

「女? 目の前の?」

「あら、失礼しちゃうわ。私なんて女のうちに入らないって言いたいの?」

「ああ、君のことか。驚いた。君は女なんだね」

「まぁ、ひどい。じゃぁ、あなたはもしかして男?」

「あたりまえじゃないか。こんなおっさんみたいな女がどこにいる」

「確かに。でも最近はわからないわよ。男みたいな女、女みたいな男」

「トンボみたいな女、女みたいなトンボ」

「なに、それ。ああ、私のことね。私がトンボみたいな女だって言いたいわけね」

「だって君は、オニヤンマだろう?」

「オニヤンマ……懐かしい名前ね。子供の頃住んでた田舎によくいたわ」

「そうだろう? こんな街中にオニヤンマがいるわけない」

「そうよ。こんな店の中になんでオニヤンマがいるなんて思ったの?」

「いや。なぜだかわからないが……君の名前は?」

「私? ふふ。なんで知りたいの?」

「なんでって、こうしてしゃべっているんだからさ、呼び名くらい」

「じゃ、おじさんの名前は?」

「私は宮内だ」

「ミヤウチ、何?」

「宮内啓二」

「そうなの、宮内庁の刑事さん……」

「なんだそれ。そんなこと言われたことないが、確かに……、で君は?」

「私……麻耶」

「麻耶さん? 苗字は?」

「大西」

「大西麻耶……オオニシマヤ。オオニマヤ……オニマヤンマ…やっぱりオニヤンマじゃないか」

「どうしてもオニヤンマにしたいのね。いいわ、それでも」

「別にしたいわけじゃ……」

「じゃ、鬼やんって呼んでもいいから、一杯ご馳走してくれる?」

「あ、ああ、いいよ。このビールでいいか?」

 私はカウンターに並んでいるグラスをひとつ取り上げてビールを注いだ。

「じゃ、珍しい出会いに」

「ああ、そうだな、乾杯か」

 グラスを合わせる瞬間に、私の脳内では彼女と友達になれるのだろうか、それとももっと深い関係に? あの黄と黒の縞々になった胴体が私の腹をくすぐる様子が浮かんで消えた。

「いっただきますー、カンパーイ!」

「ああ、乾杯!」

 チーンとグラスを合わせてビールを流し込む。いつもの癖で飲む時に瞑った眼を開けると、ビールを一口だけ飲んだ若いマスターがニコニコしながら言った。

「あざーっす」

 椰子の葉の上には相変わらずオニヤンマがじっと止っていた。

                                       了


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