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第八百六十六話 変身 [変身譚]

 ある朝、暮郡沙武が気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっているような気がした。甲殻のように固くなった背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓のような筋にわかれてこんもりと盛り上がっている茶色い自分の腹が見えるのではないかと想像したが、そうはなっていなかった。自分が何か忌まわしいものに変わってしまったという思いすごしに過ぎなかった。

「おれは何をかんがえているのだろう?」と彼は思った。夢見が悪すぎたのだろうか。不意に昨日のことが思い出された。そうだ、昨日はあまりいい日ではなかった。職場で揉め事に巻き込まれて、嫌な気持ちのまま家に帰るのが嫌で、帰宅途中で立ち飲み屋で一杯ひっかけたのだが、そこでも隣の酔っ払いに絡まれてますます落ち込んだ。酔いもそこそこに家に帰ったのがまずかった。飲んで帰るなら連絡してちょうだいよ、ご飯の用意をしているのに、と妻になじられ、いやいや飯はちゃんと食うよと言っているのに、ぷりぷりしている妻を前にして冷えた飯を食った。ああ、俺は何をしているんだろう。仕事の憂さを家にまで持ち込んでしまったのか。ますます自己嫌悪に陥るが、妻も妻だ。こんなときこそ夫の気持ちを癒すのが妻の役割だろうと腹立たしくも思った。

 早々に飯をかっ食らって、モノも言わずに風呂に使ってからベッドに入ったのだ。よくない出来事はさらによくない出来事を引き寄せる。いや、ほんとうはそうではない。嫌な出来事によって引き起こされた忌まわしい気持ちが、次の出来事に影響するのだ。つまり、すべては自分自身が引き起こしているのだ。と、これは何かの啓発本に書かれてあったことなのだが、きっと間違ってはいないのだろうと思う。昨日だって、職場での出来事に対する気持ちにけじめをつけて、新たな気持ちで家路につけば、いつもと変わらない平穏な夜を過ごすことができたに違いないのだ。

 だが、人間はどうしても気持ちを引きずる生き物だ。だって仕方がないだろう。嫌な出来事っていつまでも尾をひいてします。それは嫌な出来事であればあるほど脳みそに染み付いてしまっているからだ。つまり、記憶がある限り新しい気持ちに切り替えることは難しいのだ。これをスイッチを入れ替えるみたいにコントロール出来る人間は尊敬に値する。彼はそう思うのだった。

 いずれにしてもその朝目覚めた彼は、何者にも変化してはいなかった。少なくとも変化していないように思われた。だが、実際にはそうではなかった。

 小さな変化というものは、誰しも気づかない。前日よりも十本多く髪の毛が抜けていようが、口の中に小さな出来物が生まれていようが、腕の内側が少しだけ赤くただれていようが、そういうことに気づくのはそれがいよいよ大きな存在感を示し始めるようんいなってからだ。ましてや生き物の体というものは毎日生まれ変わっているともいう。新陳代謝というやつだ。身体を構成しているすべての細胞が日々死んでは生まれ変わっているという。だからこそ皮膚が干からびてしまうこともなく、内蔵も急速に滅びることもなく、常に生命を維持出来ているのだそうだ。

 さて、では今朝目覚めたときの自分は昨日の自分と同じなのだろうか。そんなもの同じに決まっている、という答えが帰ってきそうだが、それは思い込みに過ぎないのではないかな。

 ある哲学者は「人は毎晩死んで、翌朝生まれるのだ」と言った。そう考えることによって前向きに生きていくことができるのだということなのだろうが、一方では形而上だけのことではなく、形而下でも事実なのではないか。

 話は戻るが、暮郡沙武がある朝目覚めたとき、実はほんの少しだけ身体は変化していた。本人さえ気づかぬ程度に。そしてその翌朝も少しだけ変化していた。その翌朝も、またその翌朝も。毎朝少しづつ変化していく。それは彼だけに起きた出来事ではなかったかもしれない。世界中の人間が同じように毎朝少しづつ変化しているのかもしれない。

 ある者はそれを老齢といい、ある者は病だといい、ある者は進化だという。毎日毎日変化し続けて、何年も何十年も小さな変身を重ねていき、百年も経たずしてその変身は止まってしまう。幸か不幸か、最終形に至る前に機能が停止してしまうからだ。だが、暮郡沙武は機能停止より先に最終形に到達出来る数少ない人間の一人かもしれない。そのとき彼は、忌まわしいたくさんの足を持った毒虫に到達するのだ。

                                   了


                                                              参考:フランツ・カフカ「変身」~青空文庫


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