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第八百八十一話 茶々の救出 [文学譚]

 人のものを盗んだのは、あれが初めてで最後だ。恵理子はときどきあの日のことを思い出す。

 町内の猫ボランティア仲間の一人が困った様子で伝えてきたのはもう三年ほど前のことだ。あるホームレスの男が、連れている犬をひどい目に遭わせているというのだった。この町内にも姿を現すホームレスのおじさんが犬にリヤカーを引かせているのは以前から何度も見かけている。だけど虐待までしているとは信じられないと思いながら、ホームレスがいる辺りにでかけていき、遠目に観察していると、確かに事あるごとに無理やり綱を引っ張ったり、棒で叩いたり、夜になると酒の余興に小突きまわしたりしている姿が確認できた。いくら飼い犬とはいえ、こんなことは許されない。公園を管理している顔見知りのおじさんを通じてそのホームレスに顔合わせをしてもらい、連れている犬を譲ってもらえないかと頼んでみた。

「なんであんたに茶々をやらなあかんねん。わしが大事にしている愛犬やで」

 茶々と呼ばれた茶色い雑種犬の頭を撫でながら言う男に、虐待しているのではないかという話を遠回しにしてみたが、どなり声で否定された。

「わしがこいつを虐めてる? あほなこと言いな。もう忙しいわ帰れ帰れ」

 それからも茶々が虐待されているという目撃談は後を絶たず、これはもうほおっておけないねと友人同士で話がまとまったのだが……

「私はそんな、手を出せない」

「うちもそんなことしたらお父さんに叱られる」

 みんなで茶々を助け出そうという話までは一緒になってまとめたくせに、実際に誰がそれを行うのかという話になると、みんな腰を引いてしまうのだった。こんなときにやる気を出してしまうのが自分の悪い癖だと思いながらも、恵理子は仕方がない、一人で助け出そうと決意した。

 事前に茶々と男の行動範囲を調べ、どの辺りで夜を過ごすのか、何時頃から眠るのかなどはおおむね把握できていた。救うのなら早い方がいい。決行を決めた日の夜、あいにく天候は小雨だった。恵美子は愛車である小型車を南町の通りに停めて様子をうかがった。

 時刻は十時を過ぎていた。大通りの角の歩道にリヤカーが停まっている。その脇には男がいつも行動を共にしている女性ホームレスが茣蓙を広げて横になっている。男の姿は見えない。だがしばらくすると酔ったような足取りの男がどこかから現れ、リヤカーの様子を確認した後、また酒を求めてなのだろう、来たのと反対の方向にふらふらと歩き去るのが見えた。通りを暗闇から遠ざけている街灯のひとつが切れかけているのだろう、ちらちら点滅しながら男の影を見送った。

「いまだ」

 恵理子は自分の気持ちにスイッチを入れた。たとえホームレスのリヤカーからとは言えども、人の物に手を出すなど初めてのことだ。フロントガラスにたまった小さな雨粒が合流して大粒に変わり流れ落ちていく。いくつ目かの雨粒が流れるのを合図に、静かに車を降りてドアを車体に押し込む。Tシャツにジーンズという出で立ちだが、どこかの国の工作員か、スパイ映画の主人公にでもなったような気がする。ジジジーと低い電子音を放ち続けている街灯の点滅と自分の心音だけが耳の奥で響いている。足音を踏み消しながらリヤカーににじり寄って中を覗き込む。もしや、茶々が恵理子を見つけて声を上げるのではないか。そうなったら横で寝ている女が目を覚ましてしまう。

 リヤカーの隅で眠っていた茶々の首が立ち上がる。なんどか頭を撫でたことのある恵美子を覚えているのか、静かに尻尾を振って近付いてきた。リヤカーの骨組みに縛り付けられたロープが茶々の首輪に結ばれているのをなんとか解いてから胴体全体に腕をまわして茶々を抱き上げた。柴犬のミックスだから恵理子でも抱え上げることが出来た。急がねば。いつ男が戻ってくるかわからない。恵理子は息をするのも忘れて急いで車に戻った。誰にも気づかれなかった。助手席に茶々を座らせてエンジンをかけ、車を滑らせた。最初の交差点で信号が赤く点滅していたが、停止するのすら忘れてアクセルを踏み続けた。自宅の近くで停車させた時ですら、まだ心臓が波打っていた。ハンドルを握ったまま茫然としている恵美子に茶々がにじり寄って腕と言わず顔と言わず舐めまわす。救いだされたことにようやく気づいたように。

 翌朝、ホームレスの男は「犬が盗まれた」と大声で叫びながら方々を探しまわっていたという。茶々は一晩だけ恵理子の部屋で過ごし、翌日、既に話をつけておいた愛犬家の元へと引き取られていった。犬を盗んだというのは客観的事実だが、実際にはあれは救出だった。よくもまぁあんなことができたなぁと、恵理子は心臓の辺りに手を当てる。

                                 了


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