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第八百ハ十四話 親切心の報酬 [文学譚]

 JR本線の大鮭駅で通勤電車を降りたところだった。ホームは朝の混雑時間を少し過ぎたところだったが、まだまだ通勤客でごった返していた。僕のすぐ前には若い女性……OLに違いない……が急ぎ足で歩いていて、そのバッグかポケットかはらりと一枚のカード様のものが地面に落ちた。あ、落し物だ。たぶん僕しか気づいていない。若い女性はまったく気付かずに雑踏の中を足早に去っていく。教えてあげなければ。僕が呼びかけようとしたとき、彼女はすでにホームを離れる立体通路の階段を上がりはじめていた。いけない、と思った僕は落ちたカードを拾い上げて彼女の後を追った。カードはJRの定期券で、これをなくしたら大変困るに決まっている。始業時間が迫っているのだろう、彼女は人混みをすり抜けてどんどん去っていく。その後を追いかけるのは至難の業だ。人のいないスペースを見つけてすり抜けていくのならまだしも、先に歩いている女性の後ろはすぐに人で埋まってしまって、下手をすれば彼女を見失ってしまう。障害物のない平地ならすぐに追いつく自身はあるのだが、これだけ混雑している人混みをかき分けながら、見失わないように目で追いながら追いかけるのは大変だ。どっちにいくのだろう。どうやら南改札にむかっているようだ。先回りしようにも通路は一つしかない。階段を上って降りて、地下通路に降りてまた昇って、その先に南改札があった。彼女が改札に到着する寸前、僕はようやく追いつくことができた。

「もし、あのう!」

 息を切らしながら僕が追いつくと、彼女が振り返った。後ろから見て想像していた以上に美人だ。見知らぬ男に呼び止められて驚いたよな顔をしている。

「あのう、これ、落としましたよ!」

 僕が差し出した定期券には小川真理子と名前がかかれてある。彼女はきょとんとした顔で僕が差し出した定期券を見つめている。そして次に自分のバッグを探って定期券入れを取り出した。

「あのう、小川さんでしょ?」

 僕は定期券に書かれている名前を口にした。

「違いますけど」

「でも、さっき……」

「私は小川ではないです」

「「だってあそこで……」

「それって……朝から軟派のつもりですかぁ?」

 僕は顔が真っ赤になるのを感じた。嘘、間違い? じゃ、これは? 彼女はくるりと向きを変えて、さっさと自分の定期券で改札を出て行ってしまった。自分の息が切れているのも忘れて話しかけていた僕は急に胸が苦しくなった。はぁっと息を吐き出して彼女の後姿を見送っていると、後ろから誰かに背中を強く叩かれた。

「ちょっと! それ!」

 振り向くと80キロはあろうかと思われる巨大な中年女性が肩で息をしながら恐ろしい形相で立っていた。

「な、なんすか?」

「あなた! それ返してよ」

「はぁ?」

 巨大女は僕の手から定期券をもぎ取ろうとした。

「な、なにをするんだ!」

「なにをって、それは私の!」

 ええーっ! 嘘でしょ? これ、あなたが落としたの? 一瞬にして自分のしでかした間違いに気がついたのだが、身体がこわばって動かない。巨大女がもぎ取ろうとしている定期券から指が離れない。

「きゃぁ! だれか! ど、泥棒! 助けて!」

 にわかに女が大声を上げた。周りにいた通勤途中の男たちが寄ってくる。帽子を被った駅員もすぐにやってきた。

「どうしました?」

「この人が私の定期券を!」

 ようやく僕の手から定期券が離れた。駅員が僕の手を掴んで連れて行こうとする。僕はまだ放心状態にあった。恐ろしい顔の巨大女はいつの間にか姿を消していた。

                                           了


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