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第八百六十五話 夢想酒堂 [文学譚]

 昼間のオフィス街は、夜になると別の顔を持っていたりする。会社から地下鉄駅まで毎日歩いている道を、普段はひたすら前ばかり見て歩く。だがこの日は昼間の長すぎる会議に辟易して、なんとなく脱力した気分でぶらぶらと歩いていた。たかだか五分足らずの道のりではあるが、意義を見たり左を見たりして歩いてみると、こんなところにこんな店があったっけ、あれ、いつもランチする店が夜はこんな雰囲気に変わるんだと、意外な発見があった。

 ほどなく駅だというあたりに古いビルが建っているのは知っていたが、その古めかしい入口のところに昼間はなかった立て看板が出されていた。

「地階 夢想酒堂」

 回顧風のレタリング文字でそう書かれた看板に心を捉えられてしまった。急ぐ家路でもない。ちょっとだけ一杯ひっかけて帰るか。古びた入口入ってすぐ左にある大理石の階段をひとり降りていった。

 店は看板の雰囲気と同じく懐古的な、昭和を思わせるしつらえになっていて、入口に貼られた昭和初期のポスターの中で微笑んでいる着物姿の美女の横には「赤玉ワイン」とか「えびすめビール」とか書かれているのだった。店内はだだっ広いフロアに木のテーブルがぽつりぽつりと並べられていて、まだ六時前だというのに会社員風の男たちが何人かビールジョッキを楽しんでいた。

 ほぅ、なんだかいい感じだな。これはくつろげそうだ。そう思いながら空いている席に陣取ると、すぐに黒いチョッキを着たウェイターがメニューを持って来た。私はろくにメニューも見ずに、とりあえずビールを注文し、それを待っている間にゆっくりとメニューに眼をやった。

 串カツ、冷奴、枝豆、おひたし……いわゆる居酒屋によくある一品が並んでいるのだが、驚いたのはその値段だ。信じられずに何度も見直し、どこかに本当の価格が記されているのではないかと探したがそんなものはない。一品の下に記載されている価格は、一円、二円、一円、五円、高いものでも七円とか八円なのだ。どういうことなのだ。価格まで回顧的なのか。それともこの店だけとんでもないデフレになっているのだろうか。目が飛び出るほど高いのならば、慌ててビール一杯を飲み干して店を飛び出すところだが、こんな値段では逃げる必要もない。逆に商売が成り立っているのだろうかと店側の心配をしてしまう。私はビールを運んできたウエイターに、串カツ盛り合わせとポテトサラダを注文して、静かにジョッキに口をつけた。ああ旨い。これで一円だなんて、腰を抜かしてしまうな。

 いつになく一杯のビールで気持ちよくなり、二杯目を注文した頃には、店内はほぼ全席が客で埋められていて、賑やかな声が空間に反響していた。後ろの団体が早くもお開きにするようで、幹事が会費を募っていた。

「ひとり五円。飲まなかった人は三円」

 いったいいつの時代の話なのだ。今更ながらに驚いてしまった。こんな素晴らしい店が会社の近くにあったなんて。今度、いや、明日の晩は誰かを誘ってみよう。

 私はビール三杯ですっかり出来上がってしまい、総額六円を支払って店を出た。振り向くと、昼間には見慣れていた古いビルにオーラのような気配が感じられ、まったく違う建物のようにすら思えた。ほんとうにいい店を発見したものだ。

 翌朝。地下鉄の階段を上がり、いつもの道に出る。昨晩振り返ったビルは、いつもと同じように目の前に立っており、明治か昭和初期かわからないが、そのような存在感を示している。だが、通りがかりに入口を覗き込んでみると、昨夜降りていったはずの地下に続く階段が見えない。はておかしいなと思って一歩入口に踏み込んで中を調べるがやはりない。どういうことなのか。夜だけ地下への階段が現れるのか? そんな馬鹿な。階段があった場所は大理石の壁で塞がれており、そう簡単に階段に変化するとは思えなかった。目線の高さから足元へと視線を移していく。と、床に接するところに径五センチほどの穴を見つけた。漫画などで鼠が逃げ込むような穴だ。腰をかがめて暗くて見えない穴の中に眼を凝らしてみると、手前のあたりしか見えないのだが、どうやら下に向かう階段状の通路になっているように思えるのだった。

                                   了


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