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第八百五十九話 忘れ物 [文学譚]

 住居は手狭で押入れも数箇所しかないと思っているのに、押し入れの奥には案外いろいろなモノがしまい込まれているものだ。

 季節が移ろって衣替えなどをする度にそう思う。人間の記憶なんて曖昧なもので、たかだか一年前のことなのに、去年の夏に着ていた衣類や、流行に乗せられて買ってしまった日用品なんかが、押し入れの奥深く押し込められたダンボール箱の中から出てきて驚くことがある。

 あ、これこれ。探していたんだ。こんなところにしまいこんでいたんだな。

 これくらいのことは毎回あることだが、自分で驚いてしまうのは、こんなもの着てたっけ? とか、これほんとうに自分が買ったものなのだろうかなどと、まったく記憶にないような衣類や道具が出てくることがあるってことだ。そういう意味では、衣替えは宝探しのようで楽しくもあるのだが。

 快適な春は短く、季節は俄かに初夏の様相になってきたので、六月になるのを待たずに押入れの引き戸を全開にした。押入れ収納だけでは間に合わず、奥の方にはダンボール箱に入れた衣類などがあって、季節物の入れ替えはとても面倒くさい。半日がかりで春夏モノを引っ張り出し、さらに半日がかりで冬物をまた箱の中に閉じ込めるわけだが、その合間に発掘される品物が、一層時間を引き伸ばす。

 どの箱に何が入っているのかを箱の表にきちんと記載しておけばいいなと毎回思うのだが、なぜかそうしていない。一つ目の箱を開けた時点で、すでに発見があった。これは整理されたないままの写真類が突っ込まれていた。整理するためにはアルバムを買ってくる必要があり、じゃぁ、今度買ってくるまではこのままにしておこうということでまた箱の中にしまい込まれる。どんな写真があったっけと調べると、上の方には八年前に亡くなった母の想い出。あんなに悲しみにくれていたのに、今となっては墓参りのときくらいにしか母のことを思い出さない自分に驚いた。在りし日の母と並んだ自分の姿は若々しく、これはもう十年も前のことだったのかと感慨に耽る。あと何年でわたしも母の年齢に到達するのだろう。しっかりしなさいよ! 不意に母の声が聞こえたような気がした。

 同じダンボール箱の底からは、小学校の卒業文集が出てきた。懐かしく思い頁をめくる。真ん中あたりに自分の名前と「夢」と書かれたタイトルを発見する。はて、こんなことを書いたのだっけ? 記憶から消えてしまっている幼い頃の作文を目で追う。

 わたしは世界の子供たちに夢をわけあうのが夢です。

 そんな書き出しではじまるその作文には、童話作家になりたいというわたしの夢が記されていた。そうだった。わたしは童話作家になりたいと思っていたことがあったんだ。今のわたしにはかけらほどもないこの無謀な夢。だけど、どうして諦めたのだろう。小学生の夢などたわいのないものかもしれないが、世の中には小さいときの夢を遂に実現したという人はたくさんいる。覚えてすらいない幼いわたしの夢は、所詮その程度のものだったのだろう。でも。そうだ。わたしはなにか書くという仕事がしたかったのだった。それなのに普通に会社に入って、事務をして。いつの間にか歳を重ねてしまって。今からでも遅くはないかもしれない。忘れていた夢を、わたしは発掘したようだ。

 次の箱を開けると、衣類のあいだから袋に入った金髪のウィッグが現れた。なんだこれは? そうそう、パーティで使ったやつ。友人と騒いだクリスマスの夜。あれはもう十何年前だったか。うちにみんなが集まって、深夜まで騒いだんだっけ。一度だけ? いやいや二、三年はそういうことをしたなぁ。引越しをしてからあの頃の友人たちとは縁遠くなってしまって、いまでは年賀状のやり取りをしているのも数人だけ。みんなどうしているのだろう。あんなにたくさん集まってくれたのに、わたしは実は交際下手だった。今人なっては親友と呼べる友は一人もいない。わたしは友情というものを忘れてしまっていたようだ。

 最後の箱から出てきたのは、ガラス製のボールに閉じ込められた小さな街に白い雪が降り注ぐスノーボール。出会った頃のわたしたちの記念碑。あの人がはじめてくれた贈り物は、こんなに愛らしいものだったんだ。結婚して二十年、お互いに苦労を支えああって、これからというときにあの人は急逝した。それが一年前。思いがけない病だった。家もお金も残してくれたが、わたしはなにもかも失ったような気持ちになった。もう生きていく希望も失った。悲しみを誘発する思い出の品物は全てこの箱に詰め込んで押し入れの奥に押し込んだ。あれかたもう一年もたってしまったのか。いや、まだ一年しか過ぎていないんだわ。あの頃はあんなに泣いたのに、不思議なことに今はもう涙は出なかった。ガラス玉を逆さにすると白い雪が舞い上がり、元に戻すと夜の街に雪がちらほらと降り注ぐ。中年になった姿ではなく、若々しいあなたが思い出される。雪が積もる街の中に立っている。わたしがそこに駆け寄ってハグをする。服の上からお互いの身体を感じながら未来を予感した日が甦る。

 気がつくと部屋の中に一人。窓から差し込む光は午後のものに変わっていて、朝から何もできていない自分がいた。ガラス玉を手に持ったまま床に座り込んでいるわたしは、スノーボールを光の方にかざしてみる。夜の街が俄かに明るくなって雪がキラキラと輝いて見える。

 希望。

 なんとなく呟いてみたが、だからといって何がかわるわけでもなかった。わたしはやっぱり散らかった部屋の中でひとりっきりだった。

                                    了


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