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第八百七十六話 伝説のエグゼクティブ [文学譚]

 山下が勤める会社は、特に有名会社でも大手企業でもない、関東ローカルの貿易会社だが、その取引先のいくつかは大手ブランドであったり、輸入先にしても欧米の有名企業だったりする。もともと田舎出の先代社長がはじめたこの会社にそうした取引先を開拓したのが大門幸四郎という伝説のエグゼクティブ社員だ。

 山下が入社した時点では既に営業部に姿はなく、庶務課に所属していた。山下は、伝説の社員であるという噂に期待を膨らませて会いにいったことがある。だが、目指した男はエグゼクティブとは程遠いよれたスーツの中に隠れた小さな初老の男だった。

「大門さんは、あの、伝説のエグゼクティブなんでしょう?」

 山下の問いに頷きもせず、遠い昔にそう呼ばれた社員がいたらしいが、それは嘘だと答えた。でもたった一日で十億の売上を確保したとか、大手企業を相手に世界的プロジェクトを奪い取ったとか、傾きかけていた会社を一夜で立て直したとか、あの話は本当なんでしょう? と問うと、それに近い話はあったが、過去の話だ。もう翼をもぎ取られ、鎧もなくしてしまった男は伝説の戦士でもなんでもない。大門はそう言い残して席に戻ってしまった。翼とか鎧とか、随分大げさな言い方だなと思ったが、それは大門が伝説の男であったことを認めたのと同じだなと山下は思った。

 なぜそれほどの男が会社のトップに招聘されずに庶務でくすぶっているのだろう。不思議に思った山下は上司や先輩に訪ねて回ったが、これという答えは見つけられなかった。単に年齢的に定年が近づいているからだろうというのが模範解答であるようだったが、それにしても定年まで営業部にいるのが普通ではないかとさらに疑問に思っていたところ、部内のお局さんから意外な話を聞くことができた。彼女とは席も離れていて普段は話もしたことがないのだが、山下がいろいろ聞いて回っていることを知ったのだろう。残業していた山下のところにわざわざお茶を運んできて話しかけてきたのだ。

 貞子は大門と同期入社だという。いまはお局さんだなどと陰口を叩かれているが、入社当時は私だってそれなりに美しかったのだと貞子は言った。そしてよくある話だが、大門と貞子は美男美女であるがゆえにカップルではないかと噂もされ、事実貞子はそうなりたいと狙っていたという。ところが、入社十年目にして頭角を現しはじめた大門に縁談が持ち込まれたという。社長の娘との縁談だった。すんなりそれを受け入れたなら、いまごろ大門は社長の席に座っていただろうと、貞子はため息をついた。

「馬鹿なあの人は、よく考えもせずにその縁談を断ったわ。そしてその話は今の社長に振り直された」

「ははぁ、縁談を断ったから、庶務課に?」

「馬鹿ね、縁談はずーっと昔の話。庶務に配属されたのは五年前よ」

 なぜ大門が縁談を断ったのか。

「彼には恋人がいたの」

「さ、貞子さん?」

「だったらよかったのにねぇ」

「じゃ、誰?」

「そんなの知らないわ。噂だからね。恋人のために断ったのだと」

 彼女がいたから縁談を断ったとはっきりさせればよかったのだが、実際の理由は先代社長と本人しかわからないという。そのためにかえっていつまでも噂が残り、伝説的なロマン話として定着してしまったという。ところが六年前、先代が亡くなる間際に大門が縁談を断った本当の理由を譫言に口走り、それが社内にも漏れ伝わったという。それさえも一部の人間しか知らないが、大門が定年間近になって左遷のように配属替えさせられた理由がそこにあるのだと貞子は言った。

「で、その本当の理由って?」

「ふふ、私も知らないの。でも噂って怖いわね。みんな好きなように言ってるわ」

「好きなようにって?」

「うん、あの時の恋人は、男性だったんだとか」

「恋人が……男性?」

「ほかにもあるわよ、先代社長の妾さんが相手だったとか」

「ふーむ、そのほうがありそう」

「大手取引先のお嬢さんと出来ていたって筋書きを主張する人もいるわ」

「どれが本当なんですか?」

「誰にもわからない。本人以外は」

「本人に聞いてみるかなぁ、本当の理由」

「それを知ってどうするの?」

「どうするのって……伝説のエグゼクティブの話だから」

「そうでしょ。わからない。それでこそ、伝説ってことでいいんじゃない?」

 貞子は秘密を打ち明けてすっきりしたような顔になって自席へと戻っていった。

                                  了


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