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第八百五十八話 鍵 [文学譚]

 

 パート仕事が終わった帰り道、もうすぐ家に着くというあたりでふと鍵がないことに気がついた。マンションのエントランスでバッグをごそごそ探すのは格好悪いので、いつも少し手前から鍵を用意する習慣だ。

 いつも鍵を入れているバッグのポケットに手を突っ込んでみて、そこが空であることに気づいたのだ。ポケットからこぼれたのかなと思って立ち止まり、バッグの隅々を探したがない。おかしいな、今朝、家を出るときはどうだっただろう。思い返してみると、そうだ、今朝はわたしの方が先に家を出た。ゴミ出しとかあったから、先に行くわよと夫に声をかけて出たのだった。出がけに自分で鍵をかけなかった場合、鍵を持ち忘れていることはこれまでもよくあった。だけど、今朝はそうではない。確かに鍵を掴んだ手の感触を覚えている。おまけにまだ夫がいる家の玄関に鍵をかけそうになったことも。

 ポケットに入れたかなぁ。腰にぴったりフィットしているジーンズのポケットを探るが、そんなところに入っているはずもない。困ったなぁ。家に入れない。夫が帰るのを待つしかないか。でも、出来ればこの失態を夫に知られたくない。先週も夫と口喧嘩したばかりだからだ。ビールが切れているので買っておくように言われていたのを、つい忘れてしまっていたのだ。

「俺は仕事のあとのビールを楽しみにしているのを知ってるくせに、忘れただなんて。お前は呑気でいいや」

 やんわり嫌味をいうので、つい「それなら自分で買ってくればいいのよ」と言ってしまった。夫は愚図なわたしにイラつくことがよくあるらしい。わたしは夫のそれに対してイラつく。

 鍵、どこにやったのかなぁ。もう一度バッグの中をまさぐる。バッグの中には化粧ポーチや膨れた財布、携帯電話、iPod……そのほかにもさまざまなものがごちゃごちゃっと入っているので、小さなものはよく隠れてしまうのだ。でも、ない。どう探してもない。ポケットにもない。上着のポケットにもない。職場? 職場でバッグを開けるとしたら……トイレかお昼時か。でも、鍵に触れた記憶もないし。どこか通勤途中で落としてに違いない。わたしは腹をくくって夫に電話を入れた。残業などされたら、待ちきれないから。

「もしもし、あなた? あのね、鍵をなくしちゃったらしいの」

 どこで ? なんで? とつついてくる夫にどこで失くしたかわかるくらいなら電話なんてしないとこっちも少しキレ気味。

「とにかく無くしたんだから、しかたないでしょ? だから家に入れないの」

「鍵屋を呼ぶ?」

「それ、いくらかかると思ってるの?」

「そうだなぁ」

「あなたの帰りを待つから、早く帰って」

「わかった。しかしバカだなぁ。お前、これで二度目じゃないか? 鍵無くすの」

「言わないで。わたしはバカよ。だから、今回はきっと見つかるわ」

「見つかるって何が?」

「落とした鍵よ。前は出てこなかったけれど、今度はきっと出てくる」

「なんでそんなことがわかるんだい?」

「なんでって、前に落とした時に反省したの。ちゃんと名前書いとけばよかったって」

「名前を?」

「そう、鍵にね、ネームプレートのキーホルダーつけてね、住所と名前を書いてるの」

「……お前……」

「ね、だからきっと拾った人が……」

「バッカ! お前それって最低最悪だろ?」

「なによ、なにがよ」

「鍵に住所をつけるなんて」

「それがなにか?」

「通帳に印鑑をつけて落とすようなもんだろうが」

「え? ……そ、そぅお……?」

 そんなこと考えもしなかった。なんでも落し物に連絡先があれば誰だって届けてくれるものと思ってた。電話を切ってから、わたしはしばらくマンションの前にいた。こんなところで夫を待ってても仕方ないとは思いながら。しばらくしてロックがかかっているエントランスの扉が開いて人が出てきたのに乗じて中に入ることができた。エントランスホールで少し考えてから、部屋に行ってみることにした。中に入れないのはわかっているけれども。十階に上がるエレベーターがじれったい。七階、八階、九階。部屋の前に立って考えた。もし、玄関扉が開いたりなんかしたら……それは幸運? それとも不幸のはじまり? 扉のハンドルに手をかける。「バッカ!」と言う夫の顔が浮かぶ。

                                     了


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