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第八百六十一話 侵略者 [文学譚]

 引越しをして二日目の夜だった。リビングダイニングの隣にある寝室で眠っていると、静まり返った部屋の片隅でなにかの気配を感じた。風に揺れて窓に擦れる樹木の葉? いやいやここは六階。窓外に樹木などない。それに気配は窓の方ではなく、壁側だ。隣室の住人が起きているのかしら? それにしてもなんだか嫌な感じがした。

 朝になると昨夜のことは忘れていたが、再び日が暮れてベッドに入る段になって思い出した。また今夜もがさごそされたのではかなわないな。早く眠りについてしまうにこしたことはないと眼をつぶったが、深夜になってまた気配に起こされてしまった。今度はかさこそいう音ではなく、何か話し声のようだった。だがくぐもった上に小さな超えなので、誰が何を言っているのかはよくわからなかった。

 翌朝、出勤時にマンションの管理人と出くわしたので、隣の住人について訊ねてみた。すると、意外なことに俺の部屋の隣は空家になっているという。では、あの壁の向こうから聞こえてくる声は? 気持ち悪くなったが、そんなことを管理人に言えば変人扱いされるだけだろうから、そうなんですかと答えてマンションを後にした。

 それから毎晩、寝室の隣の壁から聞こえてくる物音が消えることはなく、消えるどころか一層明確な声として聞こえるようになった。

 はじめは「……が……したので……しようか……」という感じでところどころしかわからなかったのだが、日を重ねるごとに、声が明確になってきたのか、あるいはわたしの耳が冴えてきたからかわからないが、壁から聞こえる声がわかるようになった。

「なんだか感づいてるようだぜ、どうする?」

「どうするも何も、まだ何も起きちゃいないぜ。心配するな」

 ひとりではない。ふたり、いやそれ以上の人物がこの家の中のことを話している。侵入者だ。泥棒だろうか。いや、泥棒なら毎晩やって来はしない。まるでこの家に住んでいるような気配だ。だが、隣は空家だというし。もしかして誰かが勝手に隣の空き室に侵入して住んでいるのでは? まさか。こんなオートロックもあるような、管理のしっかりしたマンションでそんなことがあるわけがない。映画でみたことのあるような幽霊である可能性も考えてみたが、現実主義者の私にとってそれは有り得ないことだった。仮に幽霊だとして、話し声以外には不可解なことは起きていないし、何か悪さをされているわけでもない。ポルターガイスト現象もない。やっぱりこれは、物理現象に違いない。

 数日のうちに、気配は話し声だけではなくなった。まるで隣室で誰かが暮らしているような生活音と共に声が聞こえるのだ。食器が触れ合う音、食事の気配、掃除機の音。その合間に話し声がする。

「ねぇ、とうとう居着いてしまったんじゃないの?」

「そうだなぁ、管理人に相談するか?」

「そうは言っても信じてもらえるかしら?」

 まるで夫婦のやり取りのような会話。そこに子どもらしい声も挟み込まれる。

「ねぇパパ。今度の休みは遊べる?」

「あ、ああ、たぶんな」

「たぶんだなんて……いつもそう」

「あのな、いまはちょっと忙しいんだ。この問題が解決したらな」

「わかった……」

 なにか問題を抱えているのか? しかし、これはどういうことなのだ。居着いてしまったとは、誰が、どこに? 壁の向こうの不可解な声をどう理解したらいいのだろう。そういえば向こうは家族がいる様子だが、こっちはひとりだ。こっちの声も向こうに聞こえるのだろうか。疑問に思ったわたしは、声を出してみた。

「ああ、眠い。ほんっとうにきょうは疲れた!」

 壁の向こうの気配が消える。まるで耳を澄ませているように。しばらくすると気配が戻った。

「おい、聞こえたか? なんだ、今のは?」

「ええ、気味が悪い。やっぱり人がいるのよ。住み着いてるんだわ」

「住み着いてるってどこに? 壁の中にか?」

「そうよ、壁よ。壁の中に違いないわ」

「しかし、この壁、そんなに分厚くないぜ」

 俺は思わず口をはさんだ。

「おい! 壁の中はそっちだろうが!」

「……」

 向こうで誰かが息を呑むのがわかった。

「し、侵略者だ」

 そう言ったきり、気配が消えた。それからしばらくは声も聞こえなくなり、もう消えたのかなと思ったが、そうではなかった。ときどき音や声が聞こえてくるのだ。だが、向こうは静かに気配を感じさせないように生活しているといった感じがした。

「別に害があるわけじゃなし、しばらく様子をみよう。そのうち消えるかもしれないからな」

 まるで私が消え去るべき者と思われている気がして嫌な気持ちになったが、そのとおりだ、こっちもそうしよう、別に害があるわけでもなし、様子をみようと考え直した。

                                     了


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