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第八百七十七話 月イチ [文学譚]

 だいたいにおいてご機嫌に暮らしている私なんだけれども、嫌なことがひとつだけある。月に一度だけあるアレ。あの日が近づくと、それだけで気が重くなってしまう。ああ、またアレがやってくるんだわ。そう思うとその日が来る前に気持ちが沈んだり場合によっては体調がおかしくなる。友達に言うと、そんなの気にしすぎよって言われるのだけれども、私の場合はそれほど重いわけだ。こればっかりは毎月体験している私にしかわからない、他人にはわからないと思う。

 そして今月も今日がその日。昨日からすでに気持ちが重くなって下腹のあたりがずんとしているような感じ。実際には身体には何の変化も起きていないのに。こればっかりは未体験な人にはわからないだろうな。毎月同じ日に来るから、それが却っていけないのかな。予告もなしに突然来てくれたらまだましなのかも。数日前にお知らせがあって、それで今月の様子がくっきりとわかってしまうから、事前の準備も必要だし、へまをしないように、誰にも迷惑がかからないようにしておかなければならないし。

 いまのところはなんとか乗り越えてきたけれども、そろそろ限界かもしれない。毎月、どんどん負担が増えてきてるんだもの。私自身が自己管理してそうならないようにすればいいのだけれども、精神的に弱いのか、私には自己管理ができていない。だからこんなに悩むんだ。ああ、もう限界かも。

 この日、銀行で通帳に記帳してもらう。すると、やはりマイナス。このマイナスが毎月積み重なっていく。毎月この日に訪れるクレジットカードの引き落とし。私にとっては月に一度の災難みたいな日。

                                    了


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第八百七十六話 伝説のエグゼクティブ [文学譚]

 山下が勤める会社は、特に有名会社でも大手企業でもない、関東ローカルの貿易会社だが、その取引先のいくつかは大手ブランドであったり、輸入先にしても欧米の有名企業だったりする。もともと田舎出の先代社長がはじめたこの会社にそうした取引先を開拓したのが大門幸四郎という伝説のエグゼクティブ社員だ。

 山下が入社した時点では既に営業部に姿はなく、庶務課に所属していた。山下は、伝説の社員であるという噂に期待を膨らませて会いにいったことがある。だが、目指した男はエグゼクティブとは程遠いよれたスーツの中に隠れた小さな初老の男だった。

「大門さんは、あの、伝説のエグゼクティブなんでしょう?」

 山下の問いに頷きもせず、遠い昔にそう呼ばれた社員がいたらしいが、それは嘘だと答えた。でもたった一日で十億の売上を確保したとか、大手企業を相手に世界的プロジェクトを奪い取ったとか、傾きかけていた会社を一夜で立て直したとか、あの話は本当なんでしょう? と問うと、それに近い話はあったが、過去の話だ。もう翼をもぎ取られ、鎧もなくしてしまった男は伝説の戦士でもなんでもない。大門はそう言い残して席に戻ってしまった。翼とか鎧とか、随分大げさな言い方だなと思ったが、それは大門が伝説の男であったことを認めたのと同じだなと山下は思った。

 なぜそれほどの男が会社のトップに招聘されずに庶務でくすぶっているのだろう。不思議に思った山下は上司や先輩に訪ねて回ったが、これという答えは見つけられなかった。単に年齢的に定年が近づいているからだろうというのが模範解答であるようだったが、それにしても定年まで営業部にいるのが普通ではないかとさらに疑問に思っていたところ、部内のお局さんから意外な話を聞くことができた。彼女とは席も離れていて普段は話もしたことがないのだが、山下がいろいろ聞いて回っていることを知ったのだろう。残業していた山下のところにわざわざお茶を運んできて話しかけてきたのだ。

 貞子は大門と同期入社だという。いまはお局さんだなどと陰口を叩かれているが、入社当時は私だってそれなりに美しかったのだと貞子は言った。そしてよくある話だが、大門と貞子は美男美女であるがゆえにカップルではないかと噂もされ、事実貞子はそうなりたいと狙っていたという。ところが、入社十年目にして頭角を現しはじめた大門に縁談が持ち込まれたという。社長の娘との縁談だった。すんなりそれを受け入れたなら、いまごろ大門は社長の席に座っていただろうと、貞子はため息をついた。

「馬鹿なあの人は、よく考えもせずにその縁談を断ったわ。そしてその話は今の社長に振り直された」

「ははぁ、縁談を断ったから、庶務課に?」

「馬鹿ね、縁談はずーっと昔の話。庶務に配属されたのは五年前よ」

 なぜ大門が縁談を断ったのか。

「彼には恋人がいたの」

「さ、貞子さん?」

「だったらよかったのにねぇ」

「じゃ、誰?」

「そんなの知らないわ。噂だからね。恋人のために断ったのだと」

 彼女がいたから縁談を断ったとはっきりさせればよかったのだが、実際の理由は先代社長と本人しかわからないという。そのためにかえっていつまでも噂が残り、伝説的なロマン話として定着してしまったという。ところが六年前、先代が亡くなる間際に大門が縁談を断った本当の理由を譫言に口走り、それが社内にも漏れ伝わったという。それさえも一部の人間しか知らないが、大門が定年間近になって左遷のように配属替えさせられた理由がそこにあるのだと貞子は言った。

「で、その本当の理由って?」

「ふふ、私も知らないの。でも噂って怖いわね。みんな好きなように言ってるわ」

「好きなようにって?」

「うん、あの時の恋人は、男性だったんだとか」

「恋人が……男性?」

「ほかにもあるわよ、先代社長の妾さんが相手だったとか」

「ふーむ、そのほうがありそう」

「大手取引先のお嬢さんと出来ていたって筋書きを主張する人もいるわ」

「どれが本当なんですか?」

「誰にもわからない。本人以外は」

「本人に聞いてみるかなぁ、本当の理由」

「それを知ってどうするの?」

「どうするのって……伝説のエグゼクティブの話だから」

「そうでしょ。わからない。それでこそ、伝説ってことでいいんじゃない?」

 貞子は秘密を打ち明けてすっきりしたような顔になって自席へと戻っていった。

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第八百七十五話 理想的なやり方 [文学譚]

 事務机と対になっている椅子に深く腰掛けてひと呼吸する。そこからもうすでにうまくいかない。吸う息がうまく入ってこないし、どのタイミングで吐き出せばいいのかがわからない。そのくらいおかしなことになっているのだ。

 普段無自覚に行っている行為も、そこに意識が集中してしまうとうまくできなくなってしまうことがある。たとえば、漢字ひとつにしても、いつもはなにげなく書いているような文字一文字を、たとえば「行」なんて簡単な文字を白い紙に一文字だけ書いてみると、なんだか不思議な形に見えてくるし、場合によっては正しい文字が間違っているのではないかと思えてくる。行人偏にはもう一本ヒゲがあったのではないかしら? 右側の形はこれはなんだ? Tの字でよかったのではないか? などなど。

 毎日浅はかに繰り返してきた事柄が、そこに意識が入ることによって違和感を発しはじめる。このやり方はこれでよかったのかしら。もっとうまい方法があるのではないだろうか。こんなやり方では他人に笑われるのではないか。自分が理想とすべき方法はもっと高いところにあったのではないか? そう考えはじめるともういけない。昨日まではなにげなくすらすらと書いていた一文が書けなくなる。最初の一文字すら書けなくなる。料理の度に使っていたフライパンが握れなくなる。塩の振り加減が皆目わからなくなる。作文や料理ならまだしも、これが生命に関わることならどうする?

 私の場合がそれだ。最初は小説書きや調理だったのだが、ついにいまや呼吸の仕方に意識がいってしまっている。空気を吸うときはどのくらい吸うのだったっけ。背筋を伸ばすのか曲げるのか。腹を膨らますのかへこませるのか。どのくらい吸っていつ吐き出せばいいのか。人間として正しい呼吸数は一分間にどのくらいだったのか。ついこないだまでは何も考えずに自律神経だけでこなしていた呼吸という行為が、もはや大脳を使わなければできなくなっている。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

 落ち着いて息を吸うために深く椅子に腰をおろして、最初の息を吸う。吸う。吸う……吸えない、吸えない、吸えない。涎が落ちる。喉がひきつる。息が……息が苦しい。苦しい苦しい。

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第八百七十四話 迷走ジャングル [文学譚]

 富士の麓の樹海かと思うほど深く広大な森がこんなところにあるなんて信じられなかった。それに、いままさにその中を歩いているということも驚きだった。

 福山兄弟は三十を過ぎてからトレッキングを趣味とするようになった。山登りではなくトレッキング、すなわち頂上を目指すことを目的としない山歩きというところが、この兄弟らしい。なにか運動はしたいが辛いのはいやだ。山には登りたいが、崖っぷちを登るようなことはしたくないのだ。最初は家の近隣にあるこんもりした山を歩いたが、徐々に行動範囲を広げ、今回は中国地方にある山を選んだ。

 山道を伝い、より面白そうな脇道に入っていく二人と一匹。兄の真一は腹が減ったのか、脇道に入ったときにポップコーンの袋を開けてぼりぼり食べながら歩く。やがて道はどんどん狭くなり、鬱蒼とした木々をくぐりながら歩いて一時間。道がいくつもに別れたところで一行は立ち止まって休憩を入れた。一服しながら兄の真一が言った。

「おい、これはいかんな。方向感覚がわからなくなった」

「俺たち道に迷ったのか?」

「うん、そのようだ」

「引き返す?」

「引き返すったって……どっちからきたかわかるか?」

「右からだよ……」

「そうか? 俺は左から来たように思うが……」

「困ったなぁ」

「ふふ。こんなこともあるかと思って……」

「お、なにか名案でも?」

「俺がただポップコーンを食べてるだけだと思ったか?」

「腹が減ってたんだろ?」

「それもあるが……ほら、ヘンゼルとグレーテルってわかるか?」

「なんだいきなり。あの、お菓子の家の童話か?」

「そうそう。あの子供たちは、森の道で迷わないように、白い石を撒きながら歩くんだ」

「なるほど、それで?」

「俺もさ、このポップコーンを、歩いて来た道に撒いてきたのだ」

「エライ! 賢い! で、どこに?」

「どこにって、ほら、そこに……」

「どこに?」

「……あれ? ……おかしいなぁ……」

 ポップコーンなんてどこにも撒かれていない。弟がはっと気がついてポケットから白い粒を取り出す。それをみた兄が言った。

「もしかしておまえ……」

「ああ、兄さんがポロポロ落として歩くから、俺はもったいないなって、後ろを歩きながら拾って歩いてたんだ」

 真一が試しにポップコーンをひと粒落とすと、すかさず正晴が拾って食べた。

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第八百七十三話 神の子 [文学譚]

やはりあのことは誰にも話すべきではなかった。狭い居室の白壁を見つめながら私は自分の行為を少し悔いた。

 私は販社に勤める父が築いた家で三十になるこの歳までを大人しく過ごした。さほど裕福でもないのに、両親に無理を頼んで大学院まで学費を払ってもらい、院を出てからも研究室に残るでもなく、就職先も見つからないままに二年ほどを過ごすという、いわゆるニートという立場を続けていたのだが、母の知り合いに紹介されて印刷会社で働くようになったときにはすでに二十七歳ということになっていた。正直に言うと、大学院に残ったのも、就職先が見つからなかったのも、学びたいとか不況だからだとかの理由からではなく、単純に働きたくなかったからだ。正確に言えば働くなどということは私に与えられた使命ではないと信じていたのだ。だが、まっとうな人間として仕事を持ってほしいと涙を流して懇願する母親に逆らうことはこれ以上できなくなっていた。

 就職先でも問題が起きた。母の知人である工場長は可愛がってくれたのだが、私は一切彼の言うことを聞かなかった。つまり工場に勤めてもほとんど仕事らしい仕事などしなかったのだ。ついに工場長は困り果てて私を会議室に呼んで訊ねた。どうして仕事をしないのかね? 私はかねがねこの人には話してもいいのかもしれないと思っていたことを打ち明けることにした。

それは私が生まれ落ちた瞬間から腹の底に持ち続けてきた誰にも言えない秘密。私がなぜここにいるのか。私がなぜこの国に生まれたのか。なぜ私がこの世のすべての人間を見下すのか。この世に生きているからと言って私自身が人間と同じように働かなければならない理由がどこにあるのか。これらすべての答えは、本当は私が何者なのかという真実に含まれている。私は見識の広い工場長にだけは理解されたいと思い、父にも母にも話さなかったこの話を真剣に語った。工場長は最初は困惑して、次には驚愕して、最後には共鳴して私の話を聞き終えた後、私を家に帰した。翌日、母親は私を連れて丘の上にある病院を訪れ、私を残したまま帰ってしまった。あれからもう三カ月。私は家にも帰れずずっとこの白い壁を見つめている。この国に広がっている「神は死んだ」という神話は真実だったのだなと呪いながら。

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第八百七十二話 告白の距離 [文学譚]

第八百七十二話 告白の距離


孝介の横顔が見える。数センチで肩が触れ合う距離なのに、カウンター席の端と端に座っているような気がする。孝介に促されるままに横並びで座ってしまったことを杏子は後悔した。いつもなら内緒話を盛り上げてくれる距離感なのに。あの話をするためには、正面に座った方がよかったみたい。小さく息を吐き出してから目の前のワイングラスに手を伸ばした。喉のあたりに何かがつかえているみたいで、赤い液体を口に流し込むことができない。唇を少し濡らしただけで丸いグラスを手で弄んだ。横目で康介を伺うと、彼もふたりの間に停滞している冷気を感じているのかカウンターの中で働いているマスターに話しかけて硬質な空気を凌いでいる。康介と知り合ったのは三ヶ月ほど前。なんとなく気持ちが合って毎週のように逢うようになった。適齢期の男女にありがちな話だけれども、結婚を前提としたお付き合いはまだ早い気がしてお互いになんとなく避けているのがわかっていた。それでも杏子はあのことをそろそろ話しておかなければならないなと考えはじめていたところだった。より深い関係を続けるためには避けては通れない。杏子が誰にも言えないまま胸の奥にしまい続けている過去。それを言うと関係は終わりになるかもしれない。でも……杏子は康介の横顔を盗み見ながら息を吸い込み、軽く咳払いをしてから渇いた声を吐き出した。「あのね」「あのさ」ほぼ同時に康介も同じ言葉を発した。                           

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第八百七十一話 修羅場ばーん [文学譚]

たぶんあいつは感づいている。いや、仮にそうではないとしても、もうこれ以上耐えられない。話してしまいたい。でももし話したら、離婚とか言い出すかな。でも、子供のこと、家のローン、お金の問題は大きいな。

 丸出素直が頭の中をぱんぱんにしながら玄関扉を開けると目の前に腕組みをした妻がいた。「た、ただいま」少しの沈黙。

「あなた。なにか隠してるでしょ」

 な、なんだよいきなり。声が少し震えてしまう。

「昨夜はどこにいたのよ」

 なに言ってる。昨日は出張だったって。

「嘘」

 なんで嘘なんか。

「本当のことを言って、怒らないから」

 本当のことなど急に言えるわけがない。だから出張だって。

「浮気してるでしょ」

 なんだって? なにを根拠に? いや、女の勘ってやつだ。怒らないって言うし、この際

本当のことを……いやいや……。

「本当に怒らない?」

「な、なによ。やっぱり浮気してるのね?」

 浮気なんてしてないって。

「じゃ、なによ」

 浮気がバレてしまったら、絶対に嘘を通すべきだと世間では言われている。女は必ずしも真実を知りたいわけではないらしい。だが僕は嘘がつけない種類の人間だ。どうしよう、この際、この際話してしまいたい。

 この上もなく醜く恐ろしい形相になった妻を見る。

「あのさ、実は昨日は出張じゃない」

「ほーらやっぱり」

 ほーらやっぱりを繰り返しながら妻が荷造りをはじめた。

「ち、違う。浮気じゃなくって」

 もう妻は聞く耳を持たない。

「出てって」

 妻は僕に荷物を渡して玄関から突き出した。

「違うんだ」

 文学なんだ。内緒で小説書いてるんだ。恥ずかしすぎて言えなかったが。昨日は小説学校の合宿だったんだよ、本当だ。もう妻に言葉は届かない。

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第八百七十話 愛犬の病気 [文学譚]

「パピーがね、入院しちゃったの」

 近所の動物病院で、秋庭さんが眉を真ん中に寄せながら言った。私は夏場に向けて愛犬の太郎をフィラリア予防のために連れてきていたのだが、秋庭さんは待合でぽつんと座って呼び出しの順番を待っていた。パピヨン種のパピーちゃんは今年十三年目だそうだが、先月から鼻水をよく出していて、最近ではそれが青洟にかわってきていたところ、一昨日になって急に元気がなくなってからだに熱を持っているのがわかったので急いで病院に連れてきたのだという。すると肺炎に罹っていることが判明して緊急入院ということになったのだという。

「今日は、経過を聞きに来たんだけど……」

 もう二、三日様子を見て、元気になったらCT検査をするという。

「なんで、CTを?」

「それがね、肺炎の原因は青洟が気管支から肺に流れ込んだことが原因だというの。だから青洟が出ないようにしなきゃならないのだけれど、その原因が腫瘍かもしれないって」

 秋庭さんは医師が書いた落書きみたいな絵を見せてくれた。犬の顔が描かれていて、額のあたりが黒く塗られていた。

「ここに鼻口腔腫瘍がある可能性が高いって」

 つまり鼻の奥にできた腫瘍のために膿が溜まって、それが青洟として流出している。また青洟が喉に入って肺炎を引き起こしている。もし、そうだとしたら腫瘍を取り除く手術が必要で、この手術は顔の真ん中を切開して鼻の骨を一旦取り除き、腫瘍を摘出してからまた蓋をするという大手術なのだった。

「いますでに十五万くらい費用がかさんでいて、手術となったらさらに五十万くらいいるって」

 還暦を過義で一人暮らしをしている彼女は、パートをして生活費を稼いでいる。蓄えはある程度あるとしても、この出費はかなり大きい。でも、家族のように大事な愛犬のこと、お金では計れないものもある。

「でもさ、まだそうと決まったわけじゃないでしょ? ただの副鼻腔炎かもしれないじゃない」

「うん。だけども先生は腫瘍の可能性が高いって」

 ここの医師は最悪の場合を想定したモノの言い方をする。私の経験上そういう気がする。そう言ってやると、秋庭さんも頷いてみせた。

「だけどやっぱり……心の準備も必要だし、最悪のケースを想像していたほうがね……」

 そうとも言える。だけどそんなの杞憂かもしれないわけだし。いや、きっと大丈夫。悪い結果は出ないよ。

「もし、太郎ちゃんにこんな腫瘍が見つかったら、どうする?」

 聞かれるまでもなく自分のことだったら、と考えていたのだが、返事に窮してしまった。私ならきっとそんな痛々しい手術はせずに、残りの命を大事にしてやると思う。そう言おうとしてから口を閉じた。でも私のこの考えに同意して手術をしなかった場合、また膿が流れて肺炎になって、そう遠くない未来にパピーがなくなってしまったとき。秋庭さんはすごく後悔するかもしれない。後悔して私を恨むかもしれない。

 手術をして回復したとしても、十三歳のパピヨンは、あとどのくらい生きるのだろう。二年? 三年? そう思うと痛い目をさせるだけ気の毒な気もする。五十万という出費位だって、どれほど生活費を圧迫することになるのかわからない。

 昨今、医学の進歩によって動物の寿命も伸びた。その分、動物病院も年々忙しくなっているように見える。年老いて病気になった犬や猫が頻繁に連れてこられるからだ。

「人間だってねぇ、延命治療はされたくない、寿命通りに死んでいきたいっていう人が増えてるよね」

 私が言うと、秋庭さんは微妙な表情で小さく笑った。

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第八百六十九話 ベランダ浄化作戦 [文学譚]

 マンションのベランダが荒れ放題になってしまっている。前に手入れをしてからもう一年以上は過ぎてしまった。出口近くはまだましな方だが、それでもゴミの置き場所が曖昧になってしまっていて、空き缶、ペットボトル、瓶などが生ゴミバケツの周りに産卵しているという状況だ。まずはここをキレイにしたいのだが、そのためには全体を広くして置き場所を確保する必要がある。

 行っておくが、うちのマンションのベランダなど、たかが知れた広さだ。それなのに、様々なものの置き場になり、一年以上前に植えた植物のパラダイスになって、なにかわけのわからない場所になってしまっているのだ。

 家の中からはみ出したモノはとにかくベランダに出してしまう。キャンプ用品や猫砂やいらなくなった陶器、金魚鉢。最初はもちろん整理してきちんと置いていたのだが、一年の間に何がどこにあるのかわからないような悲惨な状態になってしまった。ベランダに放り出して一年過ぎたということは、結局使わないモノなのだ。そうは分かっていてもまた使うかもしれないという思いでとりあえず置いておいたのだが、いまは心を鬼にしてすべてを捨てなければ。ひとつずつゴミ袋に投げ込んで捨てるモノに分類していく。  

 少し空間ができてきたその向こうには、小屋のようなものが姿を表した。なんだこれは? よく調べてみると、それはエアコンの室外機だった。ただし室外機そのものではなく、木枠がカバーとして取り付けられているのだ。だから小屋に見えたのだ。小屋といっても朽ち果ててすっかり荒屋の様相を見せているそれを眺めているうちに思い出した。それはいつかホームセンターで購入した木製の室外機カバーだ。まるでトムソーヤの小屋みたいなカントリー風にデザインされたカバー。新しいうちはまだよかったが、板が外れてバラバラになる寸前のそれが室外機の上に覆いかぶさっている様子は、まるで災害に襲われた家のようだ。どうりでエアコンの調子が悪かったわけだ。周りを片付けて木の破片を取り除くと、随分とすっきりした室外機が現れた。

 次々とベランダは片付いていったが、まだ植物が残っている。以前は土いじりが好きで庭もないのにベランダに鉢やプランターを次々と持ち込んで野菜や観葉植物を育てていた。それもいつしか忙しさにかまけて放置していたのだが、今や何がどこにうわっているのかさえわからない。しまいには見覚えのない植物が繁っている。なんなのだ、この毒々しい色合いの葉っぱは。なんなのだこのいやらしい蔓は。放置している間に植物が独自に進化してしまったらしい。奥の方にあるのはサッカーボールの実をつけた植物か? 打ち捨ててあったサッカーボールを取り込んだ植物がいるらしい。それに……赤い先端を持った紫の蔓が庇のあたりから幾本も垂れ下がっているのだが、ゆらゆら揺れていると思ったら、俄かに動きだして私の方に先端を伸ばしてきた。なんだこれは、食虫植物か? 赤い先端から液が飛び出して私の顔にかかる。意識が遠のいていく……。

 妄想と遊びながら、ようやくすべてのゴミや植物を取り除くと、ベランダは思いのほかすっきりして、元通りに三畳ばかりの広さをより一層広く見せてくれるようになった。

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第八百六十八話 健診の日 [脳内譚]

 うちの会社では、年に一度従業員のための健康診断が実施される。以前は近隣の病院にまで足を運んで健診を受けていたのだが、比較的従業員数が多い会社に倣って、検査技師が会社に大挙してやって来て行うという形になってからもう何年もたつ。会議室が検査スペースに変わって、従業員は順次そこに集まって健診を受けるのだ。わざわざよそに行くことを思えば、いつもと同じように出社すればいいので不安にならなくてすむ。

 ところが、私は去年から、この年に一度の健診を苦に思うようになった。身長、体重の測定、視力、聴力検査、そこまではいいのだ。その次に測る血圧でまず躓く。私の血圧を測った検査員が必ず「あれ?」と首をかしげるのだ。「故障かなぁ? すみません、もう一度測ります」結局機器の調子が変だということで、とりあえず次の検査に行かされる。骨粗しょう検査や腹部エコーも問題ない。だが心電図でまた躓く。検査員はまたしても首をかしげておかしいなと繰り返す。それと血液検査も後日悪い結果が知らされて、再検査という運びになるのだ。

 再検査ということはどこかが悪いに違いないということだから、それだけでストレスになる。もしや癌ではないか、もしや糖尿病ではないか? そんな不安と共に数値が知らされるわけだ。こんな結果が出るようになってから、私はいわば健診恐怖症のようになってしまっている。健診のために並ぶだけでも苦痛だ。

「あの、問診の先生からお話があるようです」

 心電図で首をかしげていた検査員が私に告げた。

 健診の最後を締めくくるのがこの問診というやつで、基本的には問診票に自分で書き込んだ内容を医師に見せながら、相談をするという機会なのだが、今回は医師の方からきりだしてきた。

「最近、変わったことがあったんじゃないですか?」

「変わったこと? 別に……」

「そうですか。自覚はないんですね」

 医師は私の腕を取って注射針のようなものを取り出した。

「痛みがあったらいってくださいね」

 医師が私の腕に針を突き刺したが、私は何も感じなかった。

「先生、最近の注射針はよくできてますねぇ。細くなりすぎて、痛みを感じさせない……」

 医師は黙って私の表情を見ていたが、こわばった表情を努力して緩めながら言った。

「率直に申しますが、これは針のせいではありません。あなたが痛みを感じていないということなんです。いやそれだけじゃない、血圧もゼロ、心電図もなし、瞳孔も開いたまま……どういうことかわかりますか? あなたは生きていない。死んでいるんですよ」

 またか。去年も同じようなことを言われた。でも私はこうしてここにいるじゃないか。何を馬鹿なことを言っているんだ。人のことを死人扱いしやがって。こんなことになるから私は健診恐怖症になってるんだよ。もし、他の人間に私が死人と同じ結果を出しているなんて知られたら、気持ち悪がられるではないか。

 とにかく、はぁ、そうですかと力なく答えて問診室を後にしたのだが、今回はこれで終わったが、また来年同じようなことが起きるかと思うと、今から健診が嫌で仕方がない。もう、来年の検診は拒否しちゃおうかな、私はそう思いながら仕事に戻った。

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