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第八百六十七話 泣く赤児 [文学譚]

 先程から車両の端っこあたりから赤ん坊の泣き声がしている。それがいつまでも続いているものだから、だんだんとイライラしはじめているところだ。同じ車両に乗っている他の客は、半分くらいは聞こえないことにしておこうと無視することで耐えているようだが、残りの半分くらいの客は、赤ん坊の方を見たり、耳にイヤホンを差し込んだり、なんとかならないのかといった顔をして耐えている。

 赤ん坊は今風のナップサックみたいな背負子というか抱き紐で若い母親の胸あたりに縛り付けられているのだが、生易しい泣き方ではない。母親は一生懸命あやしたり揺らしたりしてなんとか泣き止ませようとしているのだが、一向に功を奏しないようだ。偶然隣に立つことになってしまった老女が一緒になって赤ん坊の顔を覗き込んだり、変な顔をしてあやそうとしたりしているが、なんの効果もないようだ。

 だいたいにおいて赤ん坊が泣いているからには、何らかの理由があるはずだ。お腹がすいているとか、おむつが濡れて気持ち悪いとか、眠いとか、おおむねその3つくらいが泣いている理由であり、母親たるものそれを察して処置してやるのが責務だ。それなのに泣き続けているというのは、母親が我が子の要望に気がつけないでいるということの証拠であり、そんな母親に抱かれている赤ん坊は哀れというよりほかはない。

 まだ言葉を発することのない赤ん坊にとって泣くことが唯一コミュニケーション手段なのに、いちばん分かってほしい母親に伝わらないなんて最低最悪だ。だが、空腹にしろおむつにしろ、眠気にしろ、大抵はしまいに泣き疲れて眠ってしまうものだが、この赤ん坊はいつまでも泣き続けている。ちょっとおかしいんじゃないか。私ですらそう思うのだけれども、当の母親はひたすらあやして揺らすだけ。いったいきょうびの母親はどうなっているのだ。私は教えてやりたい衝動に駆られながらその親子を遠目から凝視した。

 ナップサックのような抱っこ紐はよくできていて、赤ん坊をがっしりと包んで落とすことがない。母親の背中でクロスしている幅広い肩掛け紐が前に回ると赤ん坊を包み込んでいる背板の後ろに回って赤ん坊のお尻の下でガッチリと金具で留められている。赤ん坊の足が背板の下からニョキッとぶら下がるようになっているのだが、その太もものあたりを見てぎょっとした。ぶら下がった足の付け根からももにかけてピンク色に充血している。紐を留めている金具がもものあたりに食い込んでいているのだ。傷こそ付けるに至っていないが、それは痛そうだ。赤ん坊が泣くのも無理はないというものだ。いったいいつからあんなふうに食い込んでしまったのかわからないが、一刻も早くなんとかしてやらないとあれは地獄だ。

 私は座っていたのをわざわざ立ち上がって親子に近づいた。「あの」と声をかけた直後、母親は皆からの視線を不愉快に思っていたのだろうが、声をかけた私きっと睨んで「なによ、迷惑?」とでも言いたげな口元をした。同時に、ふん! と赤ん坊を少し浮かせて抱き直したその反動で、食い込んでいた金具が足からかちゃと外れた。わぁわぁ泣いていた赤ん坊は拍子抜けしたように泣き止み、それと同時に電車が駅で停車した。扉が開いて、泣き止んだ赤ん坊を抱いた若い母親は私をもう一度睨んでから降りていった。私は「あの」と言おうとしたままの形で口を開けたまま親子を見送り、車両に乗ったままの他の乗客たちは、私のその口元を見続けていた。

                                了


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