第八百七十四話 迷走ジャングル [文学譚]
富士の麓の樹海かと思うほど深く広大な森がこんなところにあるなんて信じられなかった。それに、いままさにその中を歩いているということも驚きだった。
福山兄弟は三十を過ぎてからトレッキングを趣味とするようになった。山登りではなくトレッキング、すなわち頂上を目指すことを目的としない山歩きというところが、この兄弟らしい。なにか運動はしたいが辛いのはいやだ。山には登りたいが、崖っぷちを登るようなことはしたくないのだ。最初は家の近隣にあるこんもりした山を歩いたが、徐々に行動範囲を広げ、今回は中国地方にある山を選んだ。
山道を伝い、より面白そうな脇道に入っていく二人と一匹。兄の真一は腹が減ったのか、脇道に入ったときにポップコーンの袋を開けてぼりぼり食べながら歩く。やがて道はどんどん狭くなり、鬱蒼とした木々をくぐりながら歩いて一時間。道がいくつもに別れたところで一行は立ち止まって休憩を入れた。一服しながら兄の真一が言った。
「おい、これはいかんな。方向感覚がわからなくなった」
「俺たち道に迷ったのか?」
「うん、そのようだ」
「引き返す?」
「引き返すったって……どっちからきたかわかるか?」
「右からだよ……」
「そうか? 俺は左から来たように思うが……」
「困ったなぁ」
「ふふ。こんなこともあるかと思って……」
「お、なにか名案でも?」
「俺がただポップコーンを食べてるだけだと思ったか?」
「腹が減ってたんだろ?」
「それもあるが……ほら、ヘンゼルとグレーテルってわかるか?」
「なんだいきなり。あの、お菓子の家の童話か?」
「そうそう。あの子供たちは、森の道で迷わないように、白い石を撒きながら歩くんだ」
「なるほど、それで?」
「俺もさ、このポップコーンを、歩いて来た道に撒いてきたのだ」
「エライ! 賢い! で、どこに?」
「どこにって、ほら、そこに……」
「どこに?」
「……あれ? ……おかしいなぁ……」
ポップコーンなんてどこにも撒かれていない。弟がはっと気がついてポケットから白い粒を取り出す。それをみた兄が言った。
「もしかしておまえ……」
「ああ、兄さんがポロポロ落として歩くから、俺はもったいないなって、後ろを歩きながら拾って歩いてたんだ」
真一が試しにポップコーンをひと粒落とすと、すかさず正晴が拾って食べた。
了