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第八百七十五話 理想的なやり方 [文学譚]

 事務机と対になっている椅子に深く腰掛けてひと呼吸する。そこからもうすでにうまくいかない。吸う息がうまく入ってこないし、どのタイミングで吐き出せばいいのかがわからない。そのくらいおかしなことになっているのだ。

 普段無自覚に行っている行為も、そこに意識が集中してしまうとうまくできなくなってしまうことがある。たとえば、漢字ひとつにしても、いつもはなにげなく書いているような文字一文字を、たとえば「行」なんて簡単な文字を白い紙に一文字だけ書いてみると、なんだか不思議な形に見えてくるし、場合によっては正しい文字が間違っているのではないかと思えてくる。行人偏にはもう一本ヒゲがあったのではないかしら? 右側の形はこれはなんだ? Tの字でよかったのではないか? などなど。

 毎日浅はかに繰り返してきた事柄が、そこに意識が入ることによって違和感を発しはじめる。このやり方はこれでよかったのかしら。もっとうまい方法があるのではないだろうか。こんなやり方では他人に笑われるのではないか。自分が理想とすべき方法はもっと高いところにあったのではないか? そう考えはじめるともういけない。昨日まではなにげなくすらすらと書いていた一文が書けなくなる。最初の一文字すら書けなくなる。料理の度に使っていたフライパンが握れなくなる。塩の振り加減が皆目わからなくなる。作文や料理ならまだしも、これが生命に関わることならどうする?

 私の場合がそれだ。最初は小説書きや調理だったのだが、ついにいまや呼吸の仕方に意識がいってしまっている。空気を吸うときはどのくらい吸うのだったっけ。背筋を伸ばすのか曲げるのか。腹を膨らますのかへこませるのか。どのくらい吸っていつ吐き出せばいいのか。人間として正しい呼吸数は一分間にどのくらいだったのか。ついこないだまでは何も考えずに自律神経だけでこなしていた呼吸という行為が、もはや大脳を使わなければできなくなっている。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

 落ち着いて息を吸うために深く椅子に腰をおろして、最初の息を吸う。吸う。吸う……吸えない、吸えない、吸えない。涎が落ちる。喉がひきつる。息が……息が苦しい。苦しい苦しい。

                                  了


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