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第七百五十五話 左手 [文学譚]

 昔は、レタッチ職人という者がいた。広告や印刷物に載せる写真を修正する

仕事だ。修正というと、美容整形のように人の顔を綺麗に修正するように思う

人がいるが、そうではない。写真全体のコントラストを整えたり、背景に溶け込

んでしまっている被写体のシルエットを明瞭にしたりするのだ。特に新聞掲載

のモノクロ写真に対しての処置が中心だった。もちろん、たまには背景に写り

込んでしまった電線を消したり、モデルのこに浮かんだ滲みを隠すようなことも

あったが。

 しかし、メディアのデジタル化と共に、プリント上で修正する作業はなくなり、

レタッチはパソコン画面上でデジタル写真を修正するというスタイルに移行した。

プリントのレタッチ技術とデジタル写真のレタッチ技術はまったく別物なので、昔

のレタッチマンはすべて職を失い、新たなデジタル職人が現れたのだが、私は

旧いレタッチ技術を持ったまま、デジタル技術をミニつけた数少ない人間だ。新

旧、行う技術はまったく別物だが、修正を行う対照への理解度やレタッチセンス

というソフト分野では通じるものがある。私はそこのところをうまく身に付けたの

で、みるみるうちにデジタルレタッチの第一人者のようになってしまった。

 だが、第一人者といっても所詮レタッチ屋は影の存在。縁の下の力持ちであり、

私自身もいたって地味な人間だ。日々やって来る仕事をコツコツとこなすだけな

のだが。

「なぁ源さん、頼むよ。急ぎなんだ。今日の午後には出稿しなければならないんだ」

「……」

「いや、そりゃ、発注が遅れてしまったのは俺のミスさ。だけど、これにはいろいろ

と訳があって……発注し忘れてたわけじゃないんだ。得意がね、なかなか……」

「……そんなことは知らん。わしはただきちんとした仕事をするだけだ。あんたが

持ってきたそのくだらん写真もな、今受けたならきちんと仕事をして、明日には渡

してやるさ」

「源さん……明日って……今日必要なんだよ」

「それなら昨日持ってくるべきだったな」

「源さん、源さんならこんな写真の修正、左手でだってできるだろ? な、な、頼むよ」

「なに? 左手で? 確かにな、このくらいのレタッチ、右手を使わんでもできるさ。

だがな、わしの集中力はひとつなんだ。わしの頭もひとつなんだよ」

「だから、そこをなんとかって言ってるんじゃないかよ。な、左手でいいからさ」

「左手左手って……そんなに言うのなら、左手を貸してやるよ。持っていきな」

 わたしがそう言って左手を突き出すと、どのようにしたのかわからないが、奴は

私の左手を手首のところから外して持って行ってしまった。

                                  了


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