第七百五十八話 幸せの赤い木の実 [文学譚]
「どっちがいいかの?」
目の前の老人がそう訊ねた。老人の掌には、右に赤い木の実、左に黒い木の実が乗っている。
「さぁ、あんた、この赤い木の実を選ぶかな?」
老人は右手に持った赤い木の実を目の前に差し出しながら言った。
「そ、その赤いのは、なんなのです?」
「むふふ、これは、幸せの赤い木の実じゃ」
「幸せの……? 赤い木の実?」
「そうじゃ、幸せの赤い木の実じゃ」
「それは……どういうことなのです?」
訊ねると、老人はもったいぶった調子でゆっくりと話しはじめた。赤い木の実は南のとある島で見つけた果実で、これを食べた者は、必ず幸せになれるという。では、左手に持った黒い木の実は何なのかと訊ねると、やはりもったいぶったゆっくりとした口調で答えた。
「これはの……赤い方が、幸せの木の実じゃ」
「それはもう、伺いました。そっちの黒い木の実は、どういった……?」
「そう、これは幸せになれる赤い木の実じゃ」
いやだからそうではなくて、黒い木の実は何なのですか、いやこの赤い木の実は、だからその黒い方のことを聞いているのです。こんなやりとりを何度か繰り返しているうちに、爺さん、惚けてるのではないのかと思いはじめたころ、ようやく老人の言葉が変わった。
「お主、こっちの黒い木の実に興味がおありか。わしはどうかと思うがの。教えてやろう。この黒い木の実はな、哲学の木の実と言われていおる」
「哲学の木の実……」
「そうじゃ。哲学の黒い木の実じゃ」
「で、それは幸せになれるのですか?」
「いや、これは決して幸せにはなれない」
「幸せになれない? どうして?」
「どうしてかと、お主は聞いておるのじゃな? だからわしは言いたくなかったのじゃ」
「そういうわけでしたか」
「そうじゃ。黒い木の実を食すると、妙に賢くなるんじゃ。人間賢くなるとな、いろいろ考えはじめる。どうして自分はここにいるのかとか、人間は何故生まれてきたのかとか、人間の存在理由は何かとか……」
「なるほど、それこそ、哲学に向かうわけですね」
「その通りじゃ。だからこの木の実は哲学の木の実と呼ばれておる」
「哲学を考えるようになったら、幸せにはなれませんか?」
「なにしろ、哲学には答えがないからのう。そんなもの、誰がいくら考えても、無駄じゃろう。違うかな?」
「さぁ……それはなんとも……」
「では、この哲学の木の実を食してみられるかな?」
「そ、それは……どうでしょう。本当に幸せにはなれませんか?」
「わしはそう思うぞ。下手に哲学に踏み出すよりは、こっちの赤い木の実を食した方が良いと思うぞ。わしはいままで同じことを何度も何度も口にした」
「なるほど。では、赤い木の実を食べると、幸せになれるというのは、どういう理由からなのでしょうか?」
「それは……わしは言えん。それを言うと、幸せにはなれなくなるからのう」
「幸せになれなくなる? どうして」
「もう、答えることは何もない。まぁ、ひとつ教えてやるが、黒い木の実は賢くなって哲学者になってしまう、だから幸せにはなれないのじゃ。だとすると、こっちの幸せの赤い木の実は……わかるじゃろ?」
わたしは、老人の手から赤い木の実を受け取り、口に入れた。すると、幸せがやってきた。
了
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