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第五百八十話 黙してただ神を待つ [文学譚]

 わが魂よ黙してただ神を待て、そは我が望みは神より出づ。(賛美歌より)

「おりゃあ、おるんはわかっとるんや、顔出せやぁ! くぉうらぁ!」

 ドンドンドン! ドンドンドン!

 マンションの扉が何度も叩かれ、外では派手なスーツにサングラスという柄

の良くない男が二人、大声で叫んでいるのが鉄扉越しにさえ聞こえる。なんと

いう近所迷惑。私は玄関から離れた部屋で、身を縮ませて声を潜めて存在を

消すことだけに命を賭けている。

「おぅりゃあ、舐めとったらあかんぞ! また来るからなぁ、その時までに耳を揃

えて用意しとけよぉ! ボォケエ!」

 男たちは言い捨てて帰っていったようだ。いわゆる街金。小売貸し。私が借り

たわけではない。夫がいつの間にかあちこちで借金していたのだ。私は質屋や

親戚や、保険の解約や、いろんなところで工面してお金を作った。そのお金で

ほとんどの借金は返済できたのだが、この萬田金融の分だけが残った。萬田

金融という名前がなんだか恐ろしくて、いちばん後回しにした結果だ。こうなる

ことがわかっていれば、いちばん最初に萬田金融に返しておけばよかった。

 夫は中小企業の営業部長をやっていた。もともと無口な人で、会社でも何も

意見を言わず、黙って過ごしてきたらしい。だが、夫が言うには、そういう人間

がいちばん出世できるのだと。下手なことを考えて、それを公に口に出すこと

こそ馬鹿の骨頂だと。何も言わず、文句ひとつ言わずに粛々と仕事をこなす

ことが業績につながるし、男は寡黙な方が信頼されるそうだ。同僚たちがそれ

ぞれに意見を戦わせて、言い負かされた者は無能者として左遷されていき、

意見を通した業務ですら、一時の成功はあるとしても、いつかは下降線を辿

り、その結果敗北者とみなされてしまう。何も言わない、何もしないのが、サラ

リーマンの処世術だという。

 だが、夫はそうして営業部長に初心してからが悲惨だった。自分の生き方に

成功を見て天狗になったのだろう。よりいい目がしたいと欲が出たのかもしれ

ない。小人閑居して悪事を成す、とはこのことだ。外部業者との癒着と社費横

領が発覚して、解雇されてしまった。その後は職にもつかずフラフラしているだ

けならまだしも、パチンコと競艇に明け暮れるようになり、知らないうちに街金

で多額の借金をしていた。十万が二十万、五十万が百万、百万が五百万にな

った借金だけを残してどこかに消えてしまった。私は前から勤めていたパート

でなんとか食いつないでいるが、もうこれ以上、借金を返す力はない。

 手元に賛美歌の本がある。昔、まだ子供の頃に実家近くの教会に通ってい

たときにもらったものだ。神様にお祈りしたいと思って聖書を探していたら、本

棚の隅から出てきた。賛美歌を歌ったからと言ってどうなるものでもないが、

藁をもつかむ思いとはこのことだ。

 わが魂よ黙してただ神を待て、そは我が望みは神より出づ。

 賛美歌のひとつにこの歌詞を見つけて、私はそれが神のメッセージだと思

った。黙って待つ。それこそが生きる道。黙って待っていさえすれば、必ずい

つか、救いがある。夫だってそうして処世をしてきたのだ。最後は黙さず業者

と連んだからあんなことになったのだ。

 黙して待つ。黙して待つ。もう三ヶ月も黙して待ち続けている。それで? そ

れでまだなんともなっていない。神からは救いの手は来ない。だが、パートを

休み、お金も食料も尽きて、こうして部屋の中に黙してこもっている私は、空

腹を通り越して、何もかもが無感覚になっている。何も感じない。苦しみも、

悲しみも。もしかすれば、これこそが神の救いなのだろうか。我が望み、神

より出つとは、このことなのだろうか。目の前が霞む。意識が遠のく。私は

黙して待つ。

 ドンドンドン! ドンドンドン!

 おお、あれは神の合図ではなかろうか。やはり、神はいらっしゃるのだ。

「おぅい! わかってるんやで! そこにおるんやろ! 出てこいや!」

 そう、ここにおる。神はここに。もうすぐ出てくるんやなぁ、きっと。

                             了

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