第五百七十話 月 [空想譚]
「それは美しいものじゃった……」
老人は、パオの若者たちに語り始めた。
「十五夜と言うて、丸い饅頭を用意してな、天上のお月様を眺めるのじゃ。茶
などすすりながらな」
ドーム状の天井を見上げて老人が言った。若者たちも天井を見上げたが、そ
こには染みだらけの布天井が見えるだけだった。 老人が目覚めたときには、
世界は大きく変貌していた。野は荒れ果て、文明は過去を遡る事態に陥ってい
る。何故、こんなことになってしまったのだ。老人は何度も思考を反芻させる。冷
凍睡眠装置に横たわった時代にも闘争はあった。だが、必ず世界は良くなると信
じて目を閉じたはずだ。ところが、老人が百年間眠っている間に、一部の人類が
暴走したのだ。核ミサイル。K国から発射されたそれは、想定外の推進力を発揮
し、軌道を大きくそれて大気圏を突破した。もはや制御不能となった巨大核ミサイ
ルは爆走して、ついに地球を公転していた月に突き刺さった。月の爆発は、それ
は美しい天体ショーであったという。そして花火の瞬きの後、夜空は暗闇になった。
人類は自らの手によって、美しい星をひとつ失ったのだ。地上には死の雨が降り、
野は枯れ、海は荒れ、多くの生命が死滅した。かろうじて生き残った人類は、いま
こうしてパオの中で暮らし、月が消えた暗い夜空を眺めることになった。 一度失
ったものは、二度と戻らない。そう思い知った人類には、もはやなす術もなく、滅
びの時を待つばかりだった。
了