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第五百六十一話 潜在能力〜妄想五輪−5 [妄想譚]

「新記録を出すためにドーパミンを打つなんて、ばかげてる。そんなことをし

なくとも、人間に眠っている潜在能力を引き出すもっといい方法があるのに」

 言ってのけたのは、かつて誰でも簡単に操られてしまうという催眠術で世間

をあっと言わせた男、松尾筧祐だ。松尾は酔った勢いで、グラスを傾けながら

カウンターの向こうにいるバーテンに世間話のつもりで言ったのだが、ここは

人気のショットバー。その話を黙って聞いている者がいた。偶然隣席で飲んで

いた一人のアマチュアアスリートだ。小山は 一度でいいからオリンピックに出

てみたいと夢を見てきたのだが、陸上部にいながら二十歳になった今まで一度

だって記録を誇ったことなどなかった。汗や努力は大嫌いという男なのだから

当然といえばその通りなのだが、それでもオリンピックに出たいという夢だけ

は忘れられないのだから困ったものだ。

「今ちょっと聞こえちゃったんですけど、本当ですか、その潜在能力の話」

「ん? 興味を持ったのかね?」

「ええ、突然話しかけてすみません。実はぼくも陸上部にいまして、常々考え

ていたんですよ。あんなもの、足を早く繰り出しさえすれば、そうして歩幅を

少しでも広くしさえすれば、簡単に早く走れるのではないかと。そのためには、

身体を鍛えるよりも、精神力の方が大事なのではないかと思ってたのです」

「ほう。なかなか 面白いことを言うね、君」

「はぁ。自分に念じてみるんです。おまえの足はもっと速く動く。もっと大き

くステップを踏み出せると。だけど、無理なんです。もしかして、これは催眠

術とかをかけてもらって、自分はボルトよりも早く走れる! って自己催眠す

れば、世界新記録も夢じゃないのではないかと」

「その通り! できるんだよ。催眠術で君の潜在能力を引き出すことが。私は

この、催眠走法を受け止めてくれるアスリートを探していたのだが、君、やっ

てみる気はあるかな?」

 嘘か誠か、眉唾な話だが、バーで偶然知り合った男が有名な催眠術師で、し

かも自分が願っていたことをしてみせるというのだから、小山がこの話に乗ら

ないはずがなかった。小山は男から名刺を受け取り、その裏に男が指定する場

所と日時を書き留めた。やはりぼくが考えていたことは間違っていなかった。

これで、念願かなって次のオリンピックではぼくが伝説になるんだ!

 約束の日、小山は勇んで男の事務所へ出かけた。そこで催眠術を受けて、自

分の中に眠る潜在能力を呼び起こしてもらうのだ。

「おお、やってきましたね。では、そこのいすに腰掛けてゆっくりなさってく

ださい。落ち着かれたら早速はじめましょう」

 十分後、小山は男の催眠術によって深い眠りに入っていた。男は、単に身体

能力を高める暗示をかけるつもりだったのだが、小山が”ボルトになる”という

キーワードに強くこだわったので、それを取り入れることにした。

「筋肉が高度に高まる。そして速く、誰よりも速く走れる。あなたはボルトだ。

競技場に入ると、あなたはボルト選手になるのだ!」

 パチン! と指を鳴らす音で目を覚ました小山はとても爽快な気分で帰って

行った。翌月。学生陸上の地域予選。小山は自信たっぷりだった。部の仲間にも、

今度の俺は違うぞとさんざん吹聴して回った。ボルト気取りで市民グランドにや

って来た小山は、競技場に足を踏み入れたとたん、顔つきが変わった。本当に自

信満々の表情。そして本物のボルトにも負けないくらいに尊大な態度。

「今日は日本陸上の伝説がはじまる日だ」

 いよいよ百メートル競技の予選がはじまる。小山もその選手陣の中にいた。ジャ

マイカ選手が着ていたのとよく似た緑と黄色のランニングウェアを着用した小山は

本当にぶると選手のような顔つきになっている。小山がいる組の番になった。一列

に並ぶ7人のアスリート。小山は第三トラックだ。国際大会と違って国内の学生大会

で、しかも地区予選なので、スタートの合図は昔ながらの手撃ちによるピストルだ。

 用意・・・・・・パン!

 各者一斉にスタートを切る。小山は少し出遅れた。だが、すぐに・・・・・・すぐに?

盛り返すかと思えば、すざましい形相の小山はまるでスローモーションを演じている

かのようなゆっくりとした動きで、テレビで見た通りのボルト選手の走り真似を真剣

に行っている。高く上がる腿、大きく前後に振られる両手。大きな動きで、また大き

な歩幅で繰り出される足。だが、他の選手はもうゴールしている頃、小山はまだ半分

も走っていない。ボルトになりきることが優先されて、その子細にわたって再現する

ためにすべての時間と筋肉が費やされたのだ。いまだ七十メートル地点走る小山は、

まさにこれからごぼう抜きをしようとしているボルトそのものに見えた。観覧席から

パラパラと拍手が起きる。催眠走法は失敗だった。催眠術は、小山の潜在能力を引き

出すことよりも、ボルト選手になりきることを可能にしたようだ。笑いと喝采の中、

小山はボルトの物真似をするアスリートとして伝説になった。

                         了

 

 

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