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第五百七十七話 離人症候群 [妖精譚]

 「ある日、頭痛がはじまった。その痛みはそれまで経験のなかったもの。痛

い、痛くない、痛い、痛くない……交互に繰り返す痛みの波。私はこの痛みを

忘れてしまうためにフィットネスマシーンを始めた。すると、自分の手が何か

別の生き物のようにぐにゃりと曲がり、さらに体を見ると奇妙な物体に変わっ

ていた。私は現実感を失ってしまい、どこからどこまでが自分なのか、自分

が何なのかさえわからなくなっていた……」

 テレビの中で話しているのは話題の脳科学者。彼女は自らが脳梗塞に倒れて

しまい、しかし脳疾病の患者となった自分自身を脳科学者として観察したとい

う。僕は、このドキュメンタリーの、とりわけ”現実感を失った”という言葉に

深く感銘を受けた。

 現実感。それは、今、自分自身がここにいるという臨場感。喜びや悲しみ、

怒りや共感を噛み締める人間の感情の起伏。白状するが、僕にはどうもこの

”現実感”というものが欠損しているように思えてならないのだ。

 物心ついた頃、僕は積み木を重ねて遊んでいる幼い自分自身の姿を遠いと

ころから客観的に眺めていた。おいおい、そんなところに重ねると、せっか

く積み上げたものが全部崩れてしまうぞ。本当に不器用な小さな手だなぁ、

お前の前肢は。そして崩れ落ちた積み木の前で泣いている自分自身を冷めた

目で眺めていた。まだ赤ん坊に近かった僕は、その感覚がおかしなものであ

るのかどうかすら認識できなかった。

 小学生の僕は、小さなナイフで鉛筆を削る事を覚えていた。こちらから

無効に削るやり方と、とんがった先を自分の方に向けて削るアメリカ式

のやり方を比べながら、僕はこのナイフの切れ味を他のもので試してみ

たくなった。肉を切ってみたい。自分の指を切ると痛いだろうことはわか

っていた。血が流れ出るであろうことも。だが、その痛みはどんなものな

のか、ナイフはどのくらい深く切れ込むのか、血の量はどのくらいなのか、

僕は何故かそんなことを考えながら、自分の指を切りたがっていた。おい、

そんな馬鹿なことは止めろ。痛い目に遭うだけだ。いったい何がしたいの

だ。本当に止めたほうがいい。僕はそう思い続けていたが、右手に持った

ナイフの刃先は左手の親指に食いつき、指の腹を深く切り裂いた。

「痛い!」

僕はナイフをほおり出して、母親の元に走っていき、指を見せて泣いていた。

だが、本当は痛くも辛くもなく、ただ人ごとのように泣いている自分自身

天井から眺めていた。

 大人になってからは、このような奇妙な感覚は無くなったのだが、それで

も現実感というものは薄く、喜怒哀楽の感情も人に比べて小さい自分を自覚

していた。

「わぁ、きれい!」

 春先になると通り道や近くの公園に小さな花が咲きほころぶ。色とりどり

の花を見てはそう口にする咲子を僕はいつも羨ましいと思う。どうしてそう

簡単に愛でることができるのだ?確かに花々は美しい。僕だって思わず携帯

を取り出してカメラ機能で花の絵を撮る。しかし、そこには”きれい!”とい

う感嘆符はなく、”キレイナ花ヲ撮ル”という業務をこなしているだけだ。

「あら? だって写真を撮るくらいだから、心の中ではきれいだって感じてる

訳でしょ?」

 咲子はそう言うが、実際にはそんな簡単なものではないんだ。僕の脳がそう

言って反論する。僕は何か悪い病……例えば境界性精神障害みたいな病気なの

ではないだろうか? この現実感のなさは、この境界例という病の特徴だと聞

いたが。僕は心療内科を訪ねて医師にそう聞いた。「いやいや、そんな特殊な

ものではないと思いますよ。軽い気分変調症でしょう。薬を飲んでみますか?」

そう言われた僕は、投薬は断って家に帰った。薬なんかで僕の心を変えられて

なるものか、そう思ったからだ。

 現実感のない人間の行動って、どういうものかわかるだろうか。目覚めてい

る今、自分が行なっていることに現実感がないのだ。痛みもない。悲しみもな

い。もちろん喜びも感じない。走れと言われたら、走り出す。笑えと言われた

ら笑い出す。自分がないわけでは、もちろんない。自分自身の意識はあるのだ

が、これは現実じゃないと感じるのだ。現実じゃないなら、誰かに言われたま

ま走ったり、笑ったり、泣いたり、別にそのくらいのことは苦でもなんでもな

い。盗人になることも、殺人者になることすら、簡単にできるだろう。そう、

これは、限りなくリアルな夢なのだ。

 都内の会社に勤める僕は、命じられるままに地方都市へ転勤した。都内には、

年老いて病気がちな母がいて、遠くに行ってしまうのは気がかりではあるが、

これは夢の中の出来事だから、心配ない。何もかも、現実の事ではないのだか

ら、きっといつか目が覚めたら、子供の頃のままの僕の目の前で若く美しい母

が笑っているに違いない。

                   了

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