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第五百六十六話 ウー脳! [日常譚]

 最近、また読書をするようになった。大人になってからはめっきり本など読

む習慣を忘れていたのだが、ネットで見つけた小説が面白そうだなと思ったの

がきっかけだった。だが、若い頃はすらすら読んでいたように思うのだが、い

まはとても時間がかかる。少し老眼気味になってきたということもあるだろう

が、まぁ、いろいろ年のせいだろうなと思っていた。だが、文字面を読んでい

てもいっこうに頭に入ってこないのだ。何度も同じところを読み返しては、も

どかしくなって読み飛ばす。読み飛ばすと筋がわからなくなるから面白くない。

そこでまた前のページに戻って読み直す。何回もそんなことを繰り返すから、

いつも同じところばかりを眺めている。

 そもそも、若い頃に右目を網膜剥離で傷めて以来、視力が落ちて、とりわけ

レーザー凝固という治療法で網膜を焼き付けた右目は、中心部分に引き連れが

できてしまって、細かい文字などはくしゃっとなって読めないのだ。必然、文

字を見るのは左目が中心になって、既に長い年月が過ぎた。感覚器官というも

のは恐ろしいもので、使わなければどんどん退化していくようで、いまでは景

色は両眼で見ているのだが、本を読むのは左目だけとなってしまった。

 そんな折、読書中の小説に脳科学の話が出てきたので、つい懐かしくなって

昔読みかじった脳科学者のエッセイを引っ張りだして走り読みをしたのだが、

そこで右脳左脳という脳領域の話を思い出していた。

 いまや誰でも知っている話だが、脳波左右に分かれていて、そのそれぞれが、

身体の反対側の器官と神経連鎖している。つまり、右手や右足、右眼は左脳へ、

左手、左足、左眼は右脳に繋がっている。だから、脳梗塞などでたとえば左脳

に問題が起きたら、身体の右側に何かしらトラブルが起きるのだ。一方、これ

もよく知られているが、右脳は音楽や絵画など、感性や感覚に深く関わってお

り、左脳は文字や数字など理知的な部分を司っているという。

 そこまで思い出して、はっとした。私は左眼だけで文字を読んでいる。する

と左眼から入力された文字情報は右脳で処理されることになる。右脳は音楽や

絵画には強いが、理屈中心となる文字情報には弱いのだ。そうなのだ、だから

左眼で文字を何度眺めてもいっこうに入ってこないのだ。私の右脳は、音や絵

には強いけれども、文字情報を処理するほど器用ではないのだ。

 そういえば、同じような事柄を、読むのには苦労するが、両耳で聞けば少々

難解な理屈でも私は理解できる。なるほど、そういうことだったのか。私は文

字に関して、左脳を活用できていないのだ。読書に手間がかかることに関して、

その理由が明らかになった。だが、だからといって改善する方法もない。いま

さら右眼で文字が読めるようにはならないのだ。だが、それでも訓練すること

によってなんとかなるのではないか。そう考えた私は、読書をする際に左眼を

敢えて眼帯で隠し、読みづらい右眼で本を読むようにした。最初はとても読め

なかったが、感覚器官というものは、使えばなんとかなるようだ。一週間、一

ヶ月過ぎるうちに、右眼だけでも文字が読めるようになってきた。しかも、右

眼だと、どんな理屈でもすらすら頭に入って来るのだ、やはり、右眼から入力

すれば理屈が得意な左脳に情報入るので、情報処理が早いのだ。

 読書の速度は随分改善された。だが、少し戸惑うことが起きているのだ。最

初に書いたように、もともとは小説が読みたくて読書を再開させたのだが、ど

うも右眼の奴は、小説などという感性に訴えるものはお好みではないようで、

右眼・左脳コンビが求める書物は、数学書だとか経済学だとか、あるいは機械

のマニュアルなど、お堅いものばかり。私はそんなものにはほとんど興味がない

のに、左眼を塞いで本を探すと、そういうお堅いものばかりが選ばれてしまうの

だ。かといって左眼で本を選ばせて、右眼で読ませようとすると、今度は理屈で

はない感性中心の文芸書など、右眼・左脳コンビは理解しようとしない。

 いま、私の頭の中ではちょっとした内乱が起きている。感性派の左眼・右脳

軍と、理屈派の右眼・左脳軍が、それぞれに私の実存を巡って争っているのだ。

なんとか丸く収めたいのだが、私自身が引き起こしてしまった成り行きとはいえ、

こればかりは何ともしがたい。そこで、私は決着がつくまで、眠って待つことに

した。まぁ、どちらに軍配があがろうとも、どちらも私の一部なんだから、勝っ

た方に従うよ。独り言を言いながら眼をつぶった。

                     了

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