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第五百六十九話 かためかたみみ [文学譚]

 飛行機に乗ったときみたいに、右耳の中が、つぅんとなったよ。そんなとき

には、唾を飲み込めば治るはずなのだけど、ごくんと何度飲み込んでも、相

変わらず耳の中はつぅんとしてた。それでもそのうち治るだろうと放置してい

たさ。だけど、三日目になって、急にこれは異常だと感じて、病院に行ったん

だ「突発性難聴」医師はそう言ったんだ。原因は? おそらくストレス性のも

のだって。ストレス? そんなものはないはずだが。いいえ、ストレスというも

のは、本人も気がつかないうちに溜めているものなんですよ。

 二十歳のとき、網膜剥離になった経験がある。強度の近眼が原因で、右の

眼球が変形して、網膜が剥がれだしたのだ。この病気は下手をすると失明す

る。医師からそう脅かされたとき、「目は二つあるから大丈夫だ」って思ったよ。

だが、実際には左目も軽く網膜がやられていたんだけどね。大学の期末試験

期間の一ヶ月を病院で過ごした僕は、その年の単位をかなり失った。それに

安静期間が長かったから、楽しい青春時代の思い出もだいぶん得そこなった

んじゃないかな。

 あれから二十年目にして、今度は右耳。僕はもう、「耳は二つあるから大丈

夫」とは思わなかった。何故なら、耳は目と違って、両耳で立体的に聞いては

じめて、人の話し声を捉えることが出来るのだから。片耳法一の僕は、誰か

が喋りかける度に、聞こえている左耳をその人に突き出して「ええ?」って聞

き返す。ほら、まるで耳が遠くなった老人のようにね。年寄りじゃなくても、片

耳が聞こえないと、誰だってこうなるんだ。結局、二週間、点滴を続けて、右

耳は運良く回復したけれど。 二つあるから、一つダメになっても大丈夫だな

んて、大間違いだ。世の中には、二つあってはじめて完成形だという事柄も

たくさんあるんだ。「なぁ、頼むから出て行かないで」大きなバッグに荷物を詰

めて、まもなく片方になろうとしている夫婦の相方に、先ほどから僕は、何度

も何度も頭を下げている。

                                     了

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