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第五百五十八話 世界最速の男〜妄想五輪−3 [妄想譚]

「おい、見たかよ、昨夜の陸上競技」

 同僚たちと昼食を摂りながらかわす会話はおおよそテレビかスポーツの話。

とりわけいまはロンドンで行われている競技の話で持ちきりだ。

「大昔にカール君って、世界最速だなんて言われてたんだけど、あのときは十

秒切れないってくらいだったのに、ボトル選手は軽々九秒代だもんな」

 ぺちゃくちゃおしゃべりをしながら弁当を口に運ぶ渡辺の前で、釘田は弁当

箱の蓋を閉じた。

「ごっそーさん、お先に」

「え? ええー? もう食ったのか、釘田。お前は早いねー飯食うの」

 飯を食うことだけじゃない。釘田は何をするのも早い。仕事場にやって来る

のも一番だし、仕事を片付けるのも早い。だから親方からは一目置かれてい

るし、信頼もされている。仕事が早いから、夕方になるとその日に予定されて

いた作業はとっくに終わっており、もう帰り支度をはじめている。仕事場に来る

のも早いが、帰るのも早いのだ。

「おめー、もっとゆっくり仕事したらどうだ?」

 仲間からそう言われるが、手が早いからといって、乱暴なわけでもないし、出

来上がりは手の遅いやつよりも美しいくらいだ。工場で制作しているものの多く

はボルトとナットがほとんどで、これらはほんの数ミクロンずれても役にたたなく

なってしまうという部品だから、精密さが求められるのだ。だが、釘田がこしらえ

た製品には微たる狂いもなかった。まるで自分自身が精密機械にでもなったよ

うに工作機を正確に操作し、無駄な動きをしなければ、釘田のような仕事ぶり

が可能なのだ。業務時間の合図と共に仕事場を出て、さっさと家に帰る。途中

で酒を飲んだりなんてしない。そんなもの無駄だからだ。酒場に立ち寄ったとこ

ろで、あっという間に酒が空いて、釘田はあっという間に酔ってしまう。その間

五分くらい。そんなことのために無駄な金を使いたくはない。

 家に帰ると妻の良枝が夕食を作っている。パートで働いている良枝は、釘田

りも先に帰って家の用事を済ませるのだ。子供はまだいない。釘田が夕方の

ニュースを見ていると、早々と食事が並べられ、夫婦揃って食卓につく。

「あなた、なんでも早く出来るのはわかってるけれど、食事くらいはゆっくりして

くださいよ。よく噛んで、ご飯は口の中で五十回は噛むのよ。その方が健康に

いいんだから」

 良枝にそう言われるので、釘田は家での食事はややペースが落ちる。よく噛

からだ。だが、口の中に放り込んだ米粒やおかずを、五十回以上噛まなけれ

ばと思うから、今度は噛むのに必死になる。下顎が機械仕掛けの人形が壊れ

てしまったかのように忙しくカシャカシャ動く。五十回も噛んでいるうちに、口の

中のものは自然に喉の奥に流れ込むので、容量がかなり減ったものをごくりと

飲み込む。カシャカシャカシャ、ごくり。カシャカシャカシャ、ごくり。ランチは三分

とかからないが、夕食は六分近くかかる。良枝がまだ食事を終えていないうち

に、先に食事を済ませ、風呂に入る。五分後には風呂から出て、テレビの前に

寝転がる。

 良枝は、悠然と食事を終えて後片付けをする。時々は、洗い物をしている良枝

のところに夫がやって来て、洗い物は俺がするから、風呂に入ってこいとか言う。

そういう時は素直に夫に従う。夫は仕事と同様に、家事をやらせても手早く、正確

なのだ。いつもやってくれといえばするだろうが、申し訳ないので良枝からは頼ま

ない。なんでもかんでも手早い夫だからといって、何でもかんでもやらせるわけに

はいかないと思っているのだ。香枝は夫にほぼ満足している。寡黙だが、真面目

で優しく、香枝のことを愛してくれている、そう思うから。ほぼというのは、ほとんど

ということなのだが、実はたったひとつだけ不満があるのだ。

 良枝が風呂から出ると、夫はテレビの前で居眠りしている。身繕いを整えてから、

夫を寝室に促して、自分もベッドに入る。テレビの前で眠っていた夫は一旦目覚め

てベッドに入り、香枝の身体をまさぐりはじめる。夫婦の営みだ。風呂上がりに着た

ばかりの寝巻きを脱がされ、夫が肌を寄せてくる。だが、三分も経たないうちに、夫

はことを済ませて嚊をかきはじめる。そうなのだ、このときも夫は早いのだ。これが

唯一、良枝が世界最速の男に持っている不満なのだ。

                                   了

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