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第四百九十話 予知する男~実験奇譚・なんか妖怪ー7 [文学譚]

 ノリコのベーカリーには、カフェスペースがある。焼きたてのパンをその場

で楽しんでもらうためだ。パン職人だった爺さんが亡くなったあと、五年の

ブランクを経て、爺さんの孫であるノリコが店を改装してオープンした。ノ

リコのベーカリーは、もともと爺さんの店を愛していた町内の住民の支持を

得て、その後順調に営んでいる。大盛況とまではいかないが、ほそぼそとや

っていける程度には繁盛し、開店後一年過ぎた今は、むしろカフェコーナー

の方が人気だったりもするようになった。夜はワインも飲める店になり、昼

夜を問わず、客が焼きたてのパンと優雅な時間を楽しんでいる。

 そのカフェスペースの片隅には、いつも一人の男が陣取っている。近隣に

住む濡良優介という寡黙な男だ。いつこの店にやって来たのか、いつ帰って

いったのか、そんなことも気づかないような不思議な男である。実はこの男、

ずいぶん昔からこの町に住んでいるような気もするのだが、彼がいつこの町

にやって来たのか、何をしている男なのか、そう言うことも謎な男である。

しかし、町内の住民から疎まれているかといえば、そういうことでもなく、

話しかけると笑顔が帰ってくるし、暗い影があるわけでもなく、何よりもそ

の風貌はきりりとしてなおかつ優しさを湛えているので、むしろ好ましく思

われているくらいだ。そこまでいい男ぶりなのに、何故かいつ店に来たのか、

いついなくなったのか、誰も気がつかないというのが不思議な存在だった。

 ノリコは最初、コーヒー一杯で店の一角を占領してしまう濡良をちょっと

迷惑な存在だと思ったが、男が座る姿がカフェスペースの雰囲気に案外マッ

チしていて絵になるので、店のインテリアだと思うようになってからは、気

にならなくなっていた。

 ある日、濡良のテーブルの空になったグラスに水を注ぎに行ったところ、

濡良が珍しく口を開いた。

「明日の朝、揺れる」

「え?」

 この人何を言ってるのかしらと思って、ノリコは思わず聞き返した。

「大きく揺れるから、気をつけた方がいい」

濡良はそう言って、また黙ってしまった。それまで読みふけっていた本の世界

に戻ってしまった濡良は、もうノリコが呆然として突っ立っていることなど、

気にもとめていないようだった。

 なあに、この男。揺れる? 地震が起きるということ? まさか。地震なん

て科学者でも予知出来ないというのに。だが、ノリコはその日、閉店後に、店

中の食器を箱にしまい込み、倒れそうな食器棚を紐で括り付けたり、もしかの

地震に備えて就寝した。

 朝方、ノリコは異変を感じて目を覚ました。地震だった。いつにない大きな

揺れで、しばらく横揺れした後、何事もなかったかのように日常が戻った。

 ノリコは濡良の言葉を思い出した。「大きく揺れる」あの男が言ったことが

本当になった。いったいあの人は何ものなのだろう? 偶然? それとも予知?

すべては謎だが、濡良の奇妙な存在感に、一層不思議さが加わった。

 濡良優介、そういえばあの人は帰化した人だと聞いたことがあるけど、どこ

から来た人なのかしら。中国? それとも韓国? それ以上のことをノリコは

知っちゃあいないのだが、濡良優介の帰化前の名前は、利玄、リヒョンと言っ

た。ヌラ・リヒョン。実に不可思議な男である。

                     了

続く:第四百九十一話 脱皮する男   前回:第四百八十九話 ノリコのベーカリー

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