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第四百七十八話 Sweet&LittleTales8-クッキーおじさん。 [文学譚]

 最初、周囲は適当な区画に区切られた水田ばかりが敷き詰められた地域だっ

た。佐藤はその一画を働き手が居なくなった農家から譲り受け、そこにちょっ

とした工場を建てた。工場といっても工業品を産み出すような施設ではなく、

夫婦が手作りで賄う、いわゆる家内工業による小規模なお菓子工場だった。

 佐藤は工業高校を卒業してから、 専門学校に入り直し、クッキーの焼き方

を中心にお菓子職人への道を進んだ。専門学校を出てからは、市内の洋菓子

門店に就職して修行を詰んだ後、結婚を機に独立を目論んだ。その時に、客応

対は苦手だと考え、一般客を相手にする洋菓子店ではなく、洋菓子店にお菓子

を卸す菓子工場を作ろうと思ったのだった。

 それまでにコツコツと蓄えた貯金は、それは立派な成果ではあったが、かき

集めても大した金額にはならない。そこで、自分の両親と、妻の親にも頭を下

げて、建築費用を捻出した。幸い、廃業農家の水田が安価で手に入った。そこ

に建てたのは、工場といっても、広めの敷地の三分の一と二階を住居にし、一

階の三分の一を制作所にしたささやかなものだった。

 小麦粉を練る機械、広い作業台、型抜き機、裁断機、業務用のオーブンなど、

焼き菓子生産に必要な機器を買い揃え、工場を稼働し始めた時には、佐藤は三

十五歳の頭髪が薄くなった親父になっていた。

 工場の準備をしている間に、周囲の他の水田も徐々に廃業が進んで、宅地醸

成が始まっていた。間もなく次々と建売住宅が立ち並び、水田の真ん中にあっ

たはずの佐藤の工場は、住宅地の真ん中に建つ格好になった。

 住宅地には若い世帯が次々と入った。小さな子供もすでに少なくなかった。

佐藤は、直接お客さんと接するのが苦手でお菓子工場という立場をとったの

だが、皮肉なことに焼き菓子に最も近い顧客が目の前にいるという形になっ

た。工場で菓子を焼くと、子供ならずとも万人の鼻孔を甘い羽毛でくすぐ

ような香りが町内に広がる。工場から流れ出る豊かな香りに誘われて、自然

と子供たちが集まってくるのだった。

 佐藤は、妻とともに菓子を焼く。小麦粉とグラニュー糖を混ぜ、卵黄と

かしたバターを投入する。コンクリートミキサーのような攪拌機で十分に

ぜ込み、丸や四角、時には小さなくるみ釦状に成型してトレイに並べて、オ

ーブンでゆっくり焼き上げる。焼き菓子の表面は白粉状態から次第にまさに

小麦色と呼ばれる健康的な色味を帯び、鼻孔をくすぐる香りを拡散する。佐

藤は魔法使いのような面持ちでオーブンの扉を開けて、トレイの上でほっこ

り並んでいる小さな魔法の実を、清潔なシートを敷いた作業台の上に移動さ

せるのだ。

 そんな様子を窓の外から、いくつかの小さな瞳が背伸びして眺めている。

その小僧たちに気がついた佐藤は、思わずニンマリして手招きする。工場の

扉を開けるとキョロキョロしながら顔を覗かせるこびとたちに、少しだけ歪

な形になってしまったり、端っこが欠けてしまった焼き菓子を集めて小さな

紙袋に入れたものを配ってやるのだ。

 手に手に小さな紙袋を持たされた小さな悪魔たちは、満面の笑みで紙袋の

中を覗きながら、小さな声でおじさんありがとうと言って去っていく。こん

なことをしているうちに、近所では佐藤のことをクッキーおじさんと呼ぶよ

うになった。

 クッキーおじさんが作る焼き菓子は、近隣の洋菓子店に並んでいた。工

の作業台に並んでいた時のような裸の姿ではなく、洒落たペーパーに包

まれたり、いくつかの形が互いに切磋琢磨しながら箱の中に鎮座していた

り。その表現の仕様がない優しい味わいは客の心をとらえ、評判が評判を

呼んだ。注文が殺到して、佐藤が工場の拡大を考えるようになったかとい

うと、そうではない。一日に焼く菓子の数を増やすこともなく、今まで通

りに、手作りに拘って出来る分量の焼き菓子だけを作り続けた。そして子

供たちの顔が見えると、相変わらず小さな袋に菓子を入れて配った。佐藤

は工場経営がしたかったのではなく、ただただ美味しい菓子を焼いていた

かったのだ。

                            了

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