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第四百七十五話 Sweet&LittleTales5-昆虫採集の夏 [文学譚]

 ミンミン蝉の声が喧しい。中学生になった兄は、弟に付き合うくらいのつも

りできたのだと思う。だって、中学校の夏休みには虫取りの宿題等ないのだか

ら。それでも、兄弟同じように白い虫網とグリーンのプラスチックで出来た虫

籠の紐を肩から吊り下げている。ベージュの日傘をかざして歩く母は、まだ若

かったとはいえ、山道には慣れていなかったのではないか。

「あんたら、足が早いなぁ、ちょっと、休憩しよう。」

 そう言っては木陰の岩に腰掛けた。

「はい、麦茶。」

 いつもは買い物かごに使っている網籠からポットを取り出して、順番に飲ま

せる。

「それにしても暑いなぁ。」

 母は冷房が好きだ。この頃の冷房はまだ高級品だったと思うが、新しモノ好

きだった父は、いち早く冷房器具を購入していた。だから母はすっかり冷房に

慣れてしまっていたのだと思う。町の真ん中にある小高い丘程度の山の中腹で、

僕らは立ち止まったまま動かなくなってしまった。

「ちょっと、足に豆が出来てしまった」

 母はそう言って動こうとしないのだ。でも本当は、豆等出来ておらず、暑くて

動くのが嫌だったのだ。休憩している木陰は心地よい風が通り抜ける丁度いい場

所で、言ってみれば天然の冷房が効いているのだった。結局二十~三十分もそこ

で休憩してから、僕たち親子はのろのろと歩き始めた。

 別に山の頂上を目指したいわけではない。虫が取れたらいいわけだ。だが、母

親と子供だけでは、虫が見つかってもなかなか最終出来ない。高い木の上で鳴い

ている蝉を見つけては兄が取ろうとするのだが、子供の網ではとても届かない。

「ちぇーっ!」

 そう叫んで兄は悔しがった。そのうち、届きそうな高さで泣いている蝉を見つ

けて網を伸ばすのだが、その木は崖の端っこに生えていて、高さはないが、崖か

ら手を伸ばさないと届きそうもない。それでも無理に採ろうとする兄を母が制し

た。

「危ないから、やめなさい。」

「でもぉ、まだ一匹も採れてへんやん。」

 こういうとき、母はとんでもない男っぷりを発揮する。

「ちょっと貸してみ。」

 僕の網を採り上げて、兄を押しのけ、その蝉の方へそーっと網の先を伸ばす。

僕らは息を飲んで母の行動を見守っていた。母のパンプスが崖スレスレの所に

ある。ズリッ、ズリズリ。土が崩れる。母は手前の木を左腕で抱えるようにし

て体を支え、右手に持った虫網の竿をギュッと握る。そ〜っと伸びていく網。

もう少しで届く。蝉、逃げるな!母がぱっと右手を伸ばす。

「ギャーギャーギャー!」

 蝉が物凄い声で鳴く。ズリッ!母の足が滑る。

「きゃっ!」

 母が叫んで、尻餅を着いた。もう少しで崖から滑り落ちるところだった。採

ったの? 逃がしたの? 母が握ったままの竿の先では白い網がくるくるっと

巻きついてもつれたようになっている。その中で黒いモノがバタバタ動いてい

た。

「母さん、採ったよ!」

 母は尻餅を付いたまま、注意深く網を引き寄せる。

「お兄ちゃん、これ、逃がさんように虫籠に!」

 兄はわかったと言って、網の中の蝉を右手で掴んで取り出した。逃すなよぉ。

 僕たちは元々都会育ちだ。自然の営みには慣れていない。僕なんか、虫を触っ

たこともない。兄だって同じようなものだったと思う。兄は手で掴んだ蝉を逃さ

ないようにしっかり摘んで僕の虫籠の蓋を開けようとした。

 先に虫籠の蓋を開けて、白い網のままそこに持ってくればよかったのだろうが、

兄が虫籠の入口まで蝉を持ってきた時、蝉が「ギャ!」と言って羽を動かした。

驚いた兄は「あ!」と叫んで手を離した。蝉はすかさず羽ばたいて逃げた。逃げ

る瞬間、僕の顔に液体を飛ばした。

「あっ!おしっこかけられた!」

「おしっこおしっこ!」

 蝉に逃げられたことよりも、蝉のおしっこを・・・・・・本当は樹液なのだが・・・・・・

かけられたことの方がショックで、僕は母に拭いて拭いてと迫った。母は慌てて

ハンドタオルを取り出して、僕の顔やら腕やらを拭いてくれた。

 この蝉のおしっこ騒ぎで、母の武勇伝も、兄の失態も、全て帳消しになった。

僕の顔を拭いてくれる母は香水と汗が混じったいい香りがしていた。

                             了

 

 

母は兄と私を連れて、近隣の眉山に出かけた。夏休みの宿題である昆虫採集

を子供たちにさせるためだ。暑い山道、青葉の匂い、虫網と肩から掛けた虫籠。

私の汗を拭いてくれる若い母の香水の匂いがした。

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