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第四百七十九話 Sweet&LittleTales9-転落。 [文学譚]

 子供というものは、まだ十分に両足を大地に下ろせていないものだ。もちろ

ん、大人に近づくほどにしっかりと地に足を下ろすようにはなるのだろうが、

三歳や四歳くらいでは、姿形は人間に似ているが、実際のところ、まだ人間に

は成りきっていないのではないかと思う。

 ちょうど私がその、人間になりきっていないくらいの年だった頃、家のすぐ

に、幅1m半くらいしかないような小さな用水路があった。大人になった今

なら、ヒョイとまたげるくらいの川幅だ。そして、毎日一緒に遊んでいるお

達の家に行くには、その用水路をまたいでいる小さな橋を渡らねばならなかっ

た。橋といっても橋桁があるような立派なものではなく、用水路の一部分にだ

け蓋をしているような、幅五十センチ程度のコンクリートの板に過ぎなかった。

もちろん普通に歩いてなら、どんなに足の悪い人でも踏み外すようなことはな

いと思うのだけれども、子供の私は遊び道具でありマイカーでもある自転車と

いつでも一心同体だった。だから、橋を渡ってお友達の家に行くためには、ど

うしても自転車に乗って行かねばならなかったのだ。

 朝のうち母は、パートで働きに行っており、ひとり家に残されていた私はし

ばらくは家の中で一人で遊んでいるのだが、やがてそれもつまらなくなって、

外に行こうと考える。子供のことだし、ましてや昔のことだ。電話をかけて

「ねぇ、ちょっと遊びに来ない?」なんてことは金輪際ないのだ。

 母親から何度も教えられているように、留守番中に家を出るときには、鍵

を掛けて、その鍵を首から下げて落とさないようにする。でないと、怖い泥

棒さんが来るからね。怖い泥棒さん。その姿を私は実際には見たことはない

けれども、きっと漫画に出てくる、黒い色眼鏡を掛けた、頭の禿げたおじさ

んみたいな人なんだろうな、そう思って用心する。

 玄関から自分の身体に合ったサイズの小さな自転車を引きずり出して、玄

関の引き戸を締める。くるくると鍵を回して、その鍵を首に下げる。念入り

に自分は鍵をかけたぞと確認してから自転車にまたがるのだ。そこからほん

の少し。そう、歩いたって二十歩も行かない所に、あの用水路があって、細

い落ちそうで恐い橋がかかっている。この橋を渡らないと、お友だちの家に

は行けない。でもいつも、この橋を渡ろうとする度に、身体がゆらゆらして

落ちそうになるのだ。

 橋幅は狭いといっても、小さな自転車が通るには十分ある。だけど、いく

ら子供の身体とはいえ、自転車を降りて押すほどのスペースはない。私は自

転車にまたがったまま、ペダルを漕いで橋を渡る。自転車の後輪には転倒防

止の小さな車輪が両側についているから、普通は絶対に転倒しない。

 だが。橋の幅を意識すればするほど、小さな私の身体は右に左に揺れ動い

て不安定になる。後輪の小さな車輪も含めてちゃんと橋に乗っかっていさえ

すれば、それでも転倒することはない。しかし、手すりもないただの細い板

である以上、本体の車輪が橋の上に乗っかっていても、小さな車輪の方は、

橋の上からはみ出ている。そして、たいてい身体が揺れた末に、その小さな

車輪がはみ出ている方に重心が偏って、おっとっとという状態になって・・・・・・。

 私の身体はゆーっくりと左に傾いていく。自転車に乗ったまま、私は一瞬、

空中の人となり、最後にはドブ水の中に倒れている。用水路の溝はそれほど

深くはない。だから、怪我をするようなことは一度もなかったのだが、いつも

私は泥水の中で泣いているのだった。

 鳴き声を聞きつけた、お友達のお母さんが飛び出してきて、あらあらと言い

ながら自転車共々引き上げてくれる。そして私を上から下まで丸裸にして、家

の外に立たせるのだ。おばさんは家の奥から、多分お風呂から長いホースを引

っ張ってきて、私の全身に水を浴びせる。

 ジャー、ジャジャージャー。

 おそらく私はまだ泣いている。泣きながら、かけられている水が冷たくて、

くすぐったくて手のひらで水の直撃を避けながら、水を浴び続ける。泥は次第

に落ちていき、すっかりきれいになったら、おばさんがバスタオルで拭いてく

るんでくれる。

 子供ってこんなものだ。普通なら何の問題のない橋でさえ、地に足が着いて

いないような存在だから、あっけなくひっくり返る。

 あれからすでに何十年も過ぎて、私はすっかり地に足をつけているはずだ。

だが、実のところ、私は未だに転落し続けているような気がする。私はまだ、

人間に成りきっていないような気がする。

                               了

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