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第四百二十一話 自炊狂時代。 [日常譚]

 日々、デジタル技術が進化して、最近ではタブレットとかいう新たな形状の

PCが人気だ。常に新しモノ好きの私は、こういうガジェットにはすぐに飛びつ

く。このタブレットPCというものは、いわばパソコンとスマートフォン携帯電話

の中間を行くような位置づけのもので、モバイルPCとして非常に便利なもの

なのだが、本来の目的はブックリーダー何だろうなと思う。

 デジタルギアの進化と共に広まっているのが”電子ブック”という形態の書籍

だ。書籍と言えば、本来は紙で出来ているものなのだが、この本というものは、

気に入ってるものなら大事にしたいのだが、書籍収集癖のあるものにとって、

置き場所に困る。どんどん増えてしまうので、狭い家に住んでいる身としては

いつかどこかで古本屋のお世話になることになる。それに、常にどこに行くに

も一冊の本をバッグに忍ばせていたいのだが、これも荷物になって困る。旅

行にでも行こうものなら、ボストンバッグの中には2~3冊の本が入るので、

それだけでも重たくなるのだ。こんな人間にとって、電子ブックと言うものは

便利この上ない。ブックリーダーがあれば、何冊でも持ち歩くことが出来る

だから。

 ガジェット好きで本好きで、音楽や映画も持ち歩きたい、出先で楽しみた

いという私にとって、タブレットPCは神のツールだ。もちろん先に持ってい

るスマートフォンでも同じことは可能なのだが、何しろ5インチ程度の画面

では、最近老眼が入って来ている私にとって、本を読むのは辛い。だから

と言ってノートPCは重すぎる。そこにこのタブレットPCの登場なのだ。誰

よりも早くから手に入れたのは言うまでもないのだ。

 この便利はタブレットも、持ってるだけではどうしようもない。音楽や映画

や書籍を取り込まない事には、ただの板に過ぎない。音楽は既にすぐに

取り込めるファイルになっているので問題ないのだが、映画はPCを使っ

てタブレットに入る形状に変えてやらなければならない。だが、これとて

もともと電子ファイルになっているのだから、少し手間がかかるだけ。

 ところが問題は本だ。電子書籍と言うものが世に出て数年たつにも関

わらず、まだまだその量は少なく、何よりも私が読みたい本が電子化さ

れていないケースがほとんど。そこで生まれたのが、自分で書籍を電子

化するという技だ。これを人は”自炊”という。

 「どう?自炊してる?」

「ああー家には炊飯器ないからねぇ・・・」

これは昔の本当の自炊の話。

「どうやって自炊してるの?」

「うん、最近、スナップスキャンを買ったからね、楽になったよ。」

 電子書籍を自炊するには、まず紙の書籍をスキャナーで読み込む必要がある。

スキャナーがあれば、見開きごとに読み込めばいいのだが、ページ数が多いと、

これを手動でやるのは大変だ。そこで、自動紙送りのついたスキャナーが便利に

鳴るのだが、これを使うためには書籍を1ページ毎にバラバラに裁断して自動紙

送りに設置しなければならない。書籍をバラバラにするのはなぁ~。最初はそう

思ったが、いざ電子書籍が出来上がってみると、嬉しくて裁断の抵抗など吹き飛

んでしまう。自分で作り上げた電子書籍は、それほど可愛いものなのだ。

 私はスキャナーと裁断機を購入して、家にある書籍を片っ端から電子化してい

った。古本屋に渡すくらいなら、電子化して置いとく方がずっといい。最初はお気

に入りの書籍を電子化。三十冊も電子化しただろうか。それから読みたくて購入

下ばかりの書籍も切り刻んで電子化。さらに保存版として随分前から本棚で埃を

かぶっていた本を片っ端から電子化。これでおよそ三百冊ほどの電子書籍が私

の手元に出来た。PCのハードディスクの中は結構いっぱいになってきたが、い

つでも好きな電子書籍をタブレットに入れて持ち歩けるというのはこの上もない

喜びだ。

 来る日も来る日も家にある書籍を電子化している作業をしていると、まるで仕

事のようだ。電子書籍工場で働いているようなものだ。大きな裁断機で本の背

表紙のところをザクッと裁断する。この時、ずれないように気を使う。バラバラ

の紙に化した本をスキャナーの自動紙送りトレイに少しづつ置いてやる。スナッ

プスキャンという便利な機械が次々と紙の両面を読み込んでは電子ファイルに

置き換えていく。ファイルは次々とPCに送り込まれていく。最後に自動紙送り

の出来ない分厚い表紙も読み取る。これで一冊出来上がり。

 ウチにはいったい何冊の書籍があるのだろう。三百冊ほどを電子化しても、

まだ押入れの中の段ボールから数百冊の書籍が出てきた。もはや本を読む

事よりも電子書籍作りに取りつかれてしまっている私は、電子化する本の吟

味すらしないで、出てきた本を片っ端から切り刻んでスキャンしていく。

 半年も過ぎた頃、ついに家の中にある本という本はすべて電子化してしま

った。そうなると、後はタブレットに入れて読む事を始めたらいいのだが、もは

や自炊に魅入られてしまった私は、何か他に電子化出来るモノはないかと探

し始めた。新聞。これは購読していないので、たまたま会社で手に入れたもの

を持って帰って電子化してみたが、版が大きい上に、情報が一日で古くなるの

で触手が伸びない。チラシも同様。こんなもの電子化してもつまらない。やはり

読み物でないと。雑誌は自炊しなくても既に電子化されているものが出回って

いるし。

 もはや自炊もこれまでか。後は本を買ってくるしかないな。いやまてよ、本を

作ればいいのだ。そう気がついた私は、自分でコンテンツを作る事に目覚め

たのだ。コンテンツを作る、つまりそれは本を書くと言うことだ。

 こうして今、一冊目の自炊本コンテンツの制作に取り組んでいる。既存の本

をばらしてスキャンするという単純作業に比べると、このコンテンツ作りはとて

も手間と時間がかかる。なによりも書くための材料が必要だ。書くための材料

とはつまり、ネタだ。とりあえず今の私が持っているネタは、電子書籍づくりと

いうネタしかない。自炊ネタだ。う~む、そうだ「自炊生活」いや「自炊狂時代」

というタイトルにしよう。

 まだまだ作業は始まったばかりで、一冊目にして途方もない時間がかかってい

る。しかし、これがやがて自炊本になる喜びを考えれば・・・あ、まてよ。表紙のデ

ザインとかどうしようか・・・。ま、いっか。まずは文字だな。うーん、なかなか難しい

ぞ、これは・・・。

                                       了


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第四百二十話 段差イン・ザ・ダークネス。 [脳内譚]

 「はい、ツタタン、ツタタン、ツタンタタタン!ああー違う!違うなぁ!」

山際庸子は、ジャズダンスのインストラクターだ。以前はプロのダンサーを

目指しつつ、ニューヨークから来日した黒人ダンサーの教室でアシスタント

をしていたが、ある時、右足の腱を痛めてプロになるのを諦めた。そして自

分のダンス教室を始めてもう十年になる。

 「もう、何度言ったら出来るのよ。あなた、もう十年もダンスやってるのに、

まだそんな簡単なステップが踏めないの?」

庸子の指導はかなり厳しい。アマチュア相手の教室とは思えないほど手厳

しい言葉が投げられる。もともとプロ志向だっただけに、アマチュアといえど

も、拙い動きが許せないのだ。

 ダンスは肉体的な技巧と表現する感性の両方が求められる。いくら器用

に踊れても表現力がなければ伝わらないし、豊かな表現力を持っていても

自在に動かせる肉体がなければ表現できない。だからプロへの道は遠い

のだ。庸子は両方の素養を十二分に持っていたはずなのだが、腱を痛め

たのが致命的だった。いや、それなりにプロは目指せたのだろうが、そん

な中途半端な生き方は許せなかったのだ。自分にも厳しいぶんだけ、人に

も厳しい。だが庸子自身は、プロであれアマチュアであれ、ダンサーが究極

を求めるのは当たり前の事だと思っている。だって、人に見せる芸術なんだ

から。美には中庸なんてないのだから。

 庸子から罵詈雑言を受けているのはこの教室では古株になる西村真理だ。

最初はこの教室にも五〇人近くの生徒が集まっていたのだが、庸子の厳しさ

についていけないのか、あるいはダンスを楽しむ姿勢が違っていたのか、一

人減り、二人減り、気がつけば今やたった六人の教室になっていた。真理は

思う。なんでみんな辞めていったんだろう。確かに庸子先生は厳しいけれど、

私はそれでも楽しいと思うから十年もやってこれた。でも、最近は私への風

当たりはきついなぁ。みんなこういう個人攻撃を受けて嫌になったんだろう

か?

 「あなたはね、みんなと違って基礎が出来てないのよ。あの子たちはほら、

小さい頃からクラシックやってたから、身体が柔らかいし、リズム感も抜群。

なのにあなたときたら、もうちょっとやる気出してもらわないと困るわ。発表

ライブまでもう2カ月もないのよ。」

 困ると言われても、こっちだって困る。私は目いっぱいぎりぎりまでやる気

出してやってるのに、どうしてそれが分からないのかしら?

 もともとプロダンサーを目指していた山際庸子にとって、ダンスにアマもプ

ロもないのだ。ステージで人に見せる限り、自分の美意識に叶うものでなけ

れば受け入れられない。だから本当は自分よりも技術が劣る生徒たちのダ

ンスはどれ一つ満足には至らないのだが、その中でも最も年長で動きの鈍

い西村真理子のダンスに目が言ってしまうのだ。この子がいるから、他のメ

ンバーも足を引っ張られている。実際にはそんなことではないのだが、勝手

にそう思い込んでいる。だから彼女にばかりきつく当たるのだ。

 山際庸子はダンスを教える傍ら、実はボイスレッスンに行っている。ダンス

という時間芸術をやっている以上、いつかは総合的な舞台を演じてみたいと

思うからだ。つまり、ミュージカルだ。ミュージカルという限りは、歌も歌えなけ

ればならない。庸子は抜群のリズム感を持っており、それがダンスにも活か

されているのだが、どういうわけか音痴なのだ。自分ではそこそこ上手に歌

えてると思っている。だが、皆の前でカラオケで歌うと、たいてい失笑されて

しまう。十年ほど前にそのことに気がついて、ボイスレッスンを受けるように

なった。

 「♪ムラーラァアー~ンア~!」

「山際さん、何その発声は?いつも言ってる通りに、どうして出来ないの?あ

なた、もう十年もここに来てるのでしょう?いつになったら分かるのよ!」

ボイスレッスンの先生は元プロ歌手だった三浦鈴子だ。厳しい事で有名だが、

厳しい分だけたくさんのプロ歌手を世に送り出している。庸子は自分が歌唱

力を手に入れるには申し分のないコーチだと思っている。だが、いつまでた

っても上達出来ないでいるのだ。

「あなたはね、信じられないほど音感がないのよ。あれほどリズム感には優

れているのに、どうしてなの?不思議だわ。もう少し真面目に取り組んでみ

らどうなの?」

 そんなこと言われたって、私は精いっぱい真面目にやってきたのに。この音

感だけは持って生まれたものなのかしら?私にはわからないわ。どこがどう違

うって言うのよ!毎回毎回、同じ指摘ばかり。もう聞き飽きたって言いたいくら

い。先生には音痴の気持ちが分からないのだわ!

 悔しい思いでいっぱいになりながらスタジオを後にする庸子は、この悔しさを

自分のダンス教室で晴らしてやる、今日もまたそう考えるのだった。

                               了

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第四百十九話 顔つなぎ。 [空想譚]

 「あ、はじめまして。今度担当させていただくことになった宅間です。」

「ああ、お話は伺っていました。前任者の鈴木さんもよくやっていただいてま

したが、さらに若返ってしかも優秀な方だと聞いてますので、期待してますよ、

宅間さん。」

「はは、こちらこそ、山本さんは厳しいけれども優しい方だと伺っております。

よろしくお願いしますね。」

「今日は、その、顔つなぎに来ていただいてるということなので・・・ちょっと個

人的な話で打解けませんか?」

「あ、いいですねー。そういうの好きです、僕。」

「宅間さんは、結構・・・その・・・オタク?だと聞いたんですけど。」

「ああ、御遠慮なさらずに、言ってください。私は胸を張って言えるオタクで

すよ。」

「ああ、やっぱり。実はね、私もなんですよ。私は元アニメオタクでね。今は

もうこの年になってパワーが弱ってますがね。」

「あ、そうなんですか。これは嬉しいなぁ。僕もアニメ系。というか、フィギュア

オタクなんですわ。フィギュアっていうと聞こえはいいですが、要はおにんぎょ

大好き人間なんです。」

「ああ、アニメオタクのほとんどは同じですよ。やっぱりフィギュアは好きですよ。

ウル星やつらのラムちゃんとか、ガンダムのアムロとか。」

「わぁ、そういうのです。俺…僕もそういうちょっと懐かし目のが好きで・・・ちょっ

といいですか?ほら。携帯ストラップはほら、SDガンダム。懐かしいでしょ。」

「わぁ、私もこれ、同じの持ってた。他にはどんな?」

「ちょっと新し目ですけど、美少女フィギュアのなかでも、あの涼宮ハルヒとか

好きですねぇ。」

「私はちょっと方向違うけど、ほら、ディズニーのウッディとか一式持ってま

すよ。」

「わぁ、トイストリーですね。僕はバズも好きだけど、やっぱジェシーが、あ

のそばかす顔が好きですねぇ。」

「ウッディに恋するジェシーが可愛かったね。」

「それで、もう少し突っ込んで言っちゃいますけど、僕がフィギュアの好き

なところは、いろいろオプションが付いてるとこ。」

「わかるわかる、ウッディだったら拳銃やカウボーイハット。それに、顔も

変な顔と怒ってる顔と、変更出来るんだよ。」

「あ、そこ!そこそこ!僕は底がいいんですよ。細かい付属品はもちろん

大好きだけど、その手や顔を付け替えられるところ。俺、フィギュアオタク

の中でもね、顔付け替えフェチなんですよぉ。」

「なんだ、それ?聞いたことないなぁ、顔付け替えフェチ?」

「プラモデルなんかでもそうなんだけど、頭の前半分と後半分が別々になっ

てて、それをカチッとはめ込んで取りつける。別の顔に差し替えるときはまた

顔だけを取って、別の顔をカチッと付ける。だから、フィギュアの頭には頭頂

部を頂点にして横線がずーっと入ってる。あの感じが好きなんですよ。」

「なんだそれ。随分ディテールだなぁ。」

「そうなんです。でも、オタクってそんなもんでしょ?みんなと共有できる

部分も多いけれど、自分だけのこだわり部分もある。僕のこだわりは、こ

の人形の顔のつなぎ目部分なんです。」

「ははーん、そうだな。その精神は分かる。けど、やっぱ、君はオタク変態

中の変態オタクだな。」

「ありがとうございます。ついでに言っちゃいますけど・・・ちょっと、ここんと

こ、触ってみられます?」

 宅間はそう言って山本の指を自分の頭に持ってくる。山本は不思議そう

な顔をしながら恐る恐る宅間の頭に指を充てて、言われるままに頭頂部か

ら側頭にかけて指を滑らせてみる。

「ん?なんだ、この筋は?」

「わかりましたぁ?そうなんですよ。僕の頭にもフィギュアたちと同じように、

前と後ろの接合部があるんです。」

「接合部・・・?と言うことは・・・?どういうこと?」

「ということは・・・僕の顔は差し替え式ってことですね。ちょっと待ってくださ

いよ。」

 宅間はそう言いながら山本に背中を見せてごそごそしている。鞄の中か

ら何やら怪しげなモノを取り出して、カチッ。ごそごそした後またカチッ。そう

してからおもむろに山本の方に向き直った。

「ほぉら、山本課長、こんにちは。」

「あっ!君は、前任者の鈴木君!」

 今日は顔つなぎだと言いながら、顔をつなぐ秘密を見せたかったのだ。

                              了


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第四百十八話 泣きごとを言わないお尻。 [脳内譚]

 久しぶりに松ちゃんのエステサロンを尋ねた時のことだ。松ちゃんは、も

十数年も前にこのエステサロンを開設した。最初は顔を中心とした普通

ステティックだったのだが、オープン後一年ほどして、リンパマッサージコー

スを付けくわえた。

 体の中には運動不足やストレスなどのさまざまな要因で老廃物や毒素が

溜まってくる。すると、肩こりになったり冷え性になったり、肥満の原因にな

ったりするわけだ。そこでこうした老廃物や毒素をリンパ節をマッサージす

ることによってリンパ液にのせて体外に排泄するというものだ。今でこそリ

ンパマッサージをやるサロンは増えたが、当時はまだ少なかった。リンパ

効果がまだあまり知られていなかったからだ。

 人の身体の中にリンパ節はたくさんあるのだが、主なモノは、後頭部や

耳下腺、鎖骨のところ、脇の下、太ももの付根のところなど。よく、風邪をひ

いたりした時に、喉の奥が腫れたり、脇の下のところがプックリ腫れて「リン

パが腫れてる」とかいう、あれだ。体調を崩すと、リンパ液がドロドロになっ

て、このリンパ腺のところに悪いものが溜まる。そこで、リンパのところを手

でゴリゴリとマッサージして流してやるのだ。上手なエステシャンの手にか

かると、見事にリンパ節の疲労が取れて、何だか身体がすっきりする。そ

れまで痛んでいた肩こりが嘘のように消える。

 松ちゃんがサロンを始めた頃、私はよく通っていて、そこで松ちゃんと親

しくさせてもらった。しかし、1年半ほどして仕事の関係で別の町に引っ越

してしまったので、私は松ちゃんのサロンには行けなくなったのだ。新しい

町にも同じようなエステサロンはあったのだが、どの店も満足できなかっ

た。それほど松ちゃんのリンパマッサージは効いていたのだ。だが、長い

こと松ちゃんのマッサージを受けていたお陰だと思うが、なんだか体質が

改善されたようで、エステサロンに行かなくても自分自身の手でリンパを

マッサージしているだけでも効果があるようで、私はあれほど悩んでいた

肩こりも冷え性もほとんどなくなってしまったようだ。

 あの日、たまたま出張で懐かしい町に行くことになった。仕事を終えてか

ら少し時間が空くことが分かっていたので、久しぶりに松ちゃんのところに

行こうと思って電話で予約をした。

 「あらぁ!久しぶり!どうしてたのよ。ああ、ぜひぜひいっらっしゃって!」

喜んでくれる松ちゃんの店にいそいそと出かけていき、実に10年ぶりに

松ちゃんのゴッドハンドによるマッサージを受けた。

「とてもいいみたいね。」

私の身体を触りながら松ちゃんが言う。

「へー、触って分かるんだ。」

「もち、それがプロよ。」

「あれからね、移り住んだ町でも松ちゃんみたいなエステの店を探したんだ

けど、ないのよねー。でもね、なんだかエステのお世話になるようなことも

なくって・・・。」

ひとしきり近況報告的な世間話が終わった頃、松ちゃんがふっと言った。

「それにしても、あなた、泣きごとを言わないお尻になったわねぇ。」

え?何?お尻がどうしたって?

「あのね、ウチに来ていただいてた頃はね、あなたのお尻はいつも辛い~

しんどい~って泣きごとばっかり言ってたのよ。」

「ええー何ぃ、それ?」

「そうねー自分自身では見えないものね、自分のお尻なんて。」

「そりゃぁ、鏡で見えないことはないけれども、確かにあまり見ないわね。」

「うふふ。あなたのお尻がエンエン泣いてたから、私、リンパマッサージし

ながらいつもお尻の泣きごとも取って上げてたのよ。リンパを流すのと同じ

ように、お尻の泣きごとを流して上げる事も、実はマル秘のテクニックなの。」

「へー!そんなことしてたんだぁ!」

「うふふ、調子よかったでしょ?あの頃。仕事で泣いたことなかったんじゃな

い?」

「う・・・うんうん、確かに。確かにそうだわ。それは松ちゃんのお陰だったの

ね?」

「うふふ、私はお手伝いしただけ。あなた自身が頑張ったのよ。だからほら、

今はすっかりいいお尻になって・・・泣きごとを言わないお尻になって、私が

何もしなくても、立派にやってるんじゃないの?」

「そうだねー。でも、やっぱり松ちゃんのお陰だわ。松ちゃんが私のお尻を、

お尻の体質を変えてくれたんだわ。」

「うふふ。」

 泣きごとを言わないお尻だなんて、初めて聞いたけど、本当はまだよくわ

からないけど、まぁ、とにかく悪くないってことね。え?でかっ尻になったっ

てこと?まぁ、私もすっかり中年のおばさんなんだからそう言われても仕方

がないわね。でかっ尻でもなんでも、泣きごとを言わないんだから、それは

とってもいいことなんじゃないの?

 私は大きめになったお尻を大きく振りながら、松ちゃんの店を後にした。

                                了


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第四百十七話 三文作家の私小説。 [文学譚]

 私は売れない小説家だ。小説家と言ってもまだ出版物があるわけでもなく、

最近流行りのブログを立ててそこに投稿するという極めてローカルな作家活動

をしているに過ぎない。もちろん、いつかは書籍に、いつかはなんとか賞にとい

う夢だけは持っているのだが、なにしろ昨日今日始めたばかりの素人作家だか

ら、まだ誰からも認められていないわけだ。

 そんな私でも筆の力を蓄えるために自分に課しているものがある。それが

「毎日一本の短編を書く」という行為だ。マラソンランナーが、日々走り込んで

いるように、作家だって毎日書き続けることこそが、基礎体力を身につける唯

一の方法であろうと勝手に思い込んでやっているわけだが。

 しかし、たかだか毎日一本の短編を書くということが、なかなかままならない。

何しろ、書く内容が見つからないのだ。いや、書く内容など無いようでいくらで

もある。ところがそれを何らかのお話に仕立て上げるためにはアイデアなり、

工夫なりが必要なのだ。ただの日記やエッセイなら思うことをだらだらと書け

ばいいのだろうが、これは日記やエッセイではない、小説なのだと、そう自分

に言い聞かせて、それなりのアイデアを考え出さないと書き出すわけにはい

かないのだ。しかし、その日の体調や仕事量によっては、なかなか小説書き

にまで手が回らない事がある。いやこれは嘘だ。今の私はちっとも仕事なん

かしていないのだから。だが、コンディションと言うのは大いに影響する。日

曜などは気が抜けてしまって、書く態勢にすらなれないでいる。それって、も

しやもはや、それだけで作家として失格なのではないのか?自らそう戒めも

するのだが、モノを書く気持ちになれないのだからどうしようもない。

 常日頃私は、「天才とは、いつまでもそのことをやり続けることができる人

間」と考えているのだが、その自分の座右の銘にすら反する。実際、他にす

ることがなければ、私はいつまでも書き続けていられるように思う。だが、日

曜日は他にやりたい事があるのだ。人目もはばからず眠り続けるとか、映画

を見続けるとか、音楽を聴き続けるとか、料理をしてみるとか、そんなごく普

通のことだが。そういう心の糧となるような事をしなければ、書くという高度な

作業は出来ない。

 こんな風に自分と葛藤しながら、毎日一本の短編小説を書き続けてようやく

一年が過ぎた。ようやくというのは、本当に息が切れそうになっているからだ。

それでも歯をくいしばって四百十五話までを書きあげ、四百十六話目はちょっ

と中編にしてみようかなと書き出したところで筆が倒れた。筆が倒れたというよ

りは、私自身の心が折れた。

 私は実に真っ正直で小心者で、ちょっとした環境の変化にすらおどおどして

隠れ家に隠れてしまうシマリスのような人間だ。他の人にとってはどうというこ

ともないような社会での出来事が、時に私を打ちのめす。あの日、仕事場で

ちょっとだけショックな事が起きたのだ。そのこと自体は、本当に他の人たち

にとっては些細なことなので、ここには著さないが、そういう事柄に出会った

とき、私は微妙に反応する。

 ある時はほんの一時的にフリーズしてまもなく再起動する。もう少しひどい

時には私は池に沈む。池に沈んでしばらく浮かんでこない。きっと池の中で

泣いているのだと思うが、池の中なので自分でも泣いているのかそうでない

のかは分からない。やがて息が苦しくなると、浮上して周りに誰もいないこと

を見定めてから大きく息を吸って地上に戻る。さらにひどい時は繭になる。繭

になったらしばらくは表に出て来れない。

1週間か2週間あるいは一か月も過ぎてから繭にひびが入り、卵の孵化のよ

うに繭が割れて私は復活する。繭から孵るのだから、羽が生えているとか姿

が変わっているとか、そんなことを期待するのだが、今までは一度もそうなっ

たことはない。ただただ繭に閉じこもる前の姿のまま出てくるだけだ。

 あともう一つ最悪のケースがある。化石化だ。化石になってしまうと、もう二

度と元には戻れない。ということは、まだ私は一度も化石化したことがないと

いうことだ。もし、化石になっていたら、今頃は家のどこかに飾られているか、

どこかの資料館に売り飛ばされているのかもしれない。

 今回はどうだったのかと言うと、実は先に書いたどれでもない、化石化の一

歩手前の石化していたのだ。そのまま戻れなければ、化石になっていたかも

知れないという状態だ。最初に顔の一部、頬と目尻が乾燥して堅くなり始め、

やがて顔全体が粉をふいたように白い状態になった。そして固まり始めた紙

粘土のような状態が手足にも現れはじめ、同時に脳も襲われた。この時点で

もはや何かを書き記せる状態でないことはご想像いただけると思う。それでも

私は書き続けようとパソコンの前に座ったものの、もはや網膜にはパソコン画

面も何も映し出されない。頭脳は何の指令も出そうとはしない。なんとか書き

かけの文章に中途半端なエンディングを加えてピリオドを打った。

 翌日も、その翌日も、石化している私は何も出来なかった。三日目になって

私の頭脳の小さな部分が「こんなことではいけないよ。」と赤い点滅を出して、

石化する私の身体に警報を鳴らした。そのお陰で私は石化するのを中断し、

少しづつ元に戻ろうと薄い石の膜の下でもがいた。そうして四日目の午後、

ようやく石化していた身体の表面の石膜がひび割れて落ち、その隙をついて

私は熱いシャワーを浴びて石化から甦った。

 こんなわけで、この四日分の原稿が抜け落ちてしまった。しかし、今日から

また書き始めて、願わくばタイムマシーンで日程を繰り上げて失っていた四日

間もいつか埋めようとは思っているのだが。二度とこんなことになりたくはない

と思うのだが、体質はそう簡単には変わらない。出来る限り、そういう環境に

出くわさないように暮らしていくしかない、改めてそう考えているのだ。

                                        了


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第四百十六話 歌の夢-第一節・甦る記憶。 [脳内譚]

 「ムアー、マー、マー、マー、マー・・・」

いつも最初は、ロングトーンから始める。発声練習だ。たやすいようで、これ

が案外難しい。声の立ち上がりからしっかりと発声し、太いパイプのように安

定した声を八秒ほど続ける。そして半音上の次の音、次の音・・・という具合

に。慣れないうちは、声が揺れるし、途中で途切れたりもする。そうならない

ために腹式呼吸で腹から声を出す。腹からと言っても、本当に腹から声が

出るわけではないが、横隔膜で支えるようにして発声しないと、声が安定し

ないのだ。その上、いわゆる”喉で発声”していると、無理が生じて喉を傷め

たりもする。腹で声を出すための空気を支えて、それこそパイプ状の楽器の

ように、喉を広げてフワーッと空気を外に出す。その際に声帯を振わせると

声が出るわけだ。イメージとしては、腹の底から出た空気に乗せた声を、ま

っすぐに太いまま口から吐き出す感じ。

 発声の原理はそれだけではない。声を出すときの口腔内の大きさによっ

て声は変わってしまう。口腔を大きく広げて、舌が発声の邪魔にならないよ

うに下げて、さらに鼻腔からも空気を漏らすことによって、響きを生み出さな

ければならない。この、鼻腔を響かせるために発声練習の際には「ムアー」

というMの子音を使うのだ。口腔と鼻腔を使って響かせた声は、3メートル

ほど先の壁に当てるイメージで口から繰り出す。これでやっと”いい声”が

生まれるわけだが、横隔膜も、喉も、声帯も、口腔も鼻腔も、すべて肉体

であるから、人によって音声が変わるわけだ。ここに個性が生まれる。

 もともと理想的な肉体をもった人間なら、何の努力もなしにいい声を出

せるだろう。ここにはやはり天性のものが影響すると言わざるを得ない。

たとえばトロンボーンの肉体を持った人間にフルートの音は出せないの

だ。トロンボーンの肉体を持っているのなら、その人固有の低音を響か

せればいいのだが、ただのプラスチックパイプの肉体しか持たない人間、

つまり楽器として機能しないような肉体を持った人間には、歌うことは無

理と言うことになる。

 栗原美里は小さい頃から歌が大好きだった。当時まだモノクロだった

テレビの番組に歌手が出てくると、テレビにかぶりついて見ていた。や

がてその歌を覚えると、歌手と一緒に身ぶりも真似て歌った。そうやっ

て覚えた歌を両親に見せては「上手だねえ」と褒めてもらうのが大好き

だった。ところが神様は皮肉なことをする。背も高く大きく成長した美里

の思春期に待っていたものは、声変わりだった。美里は女の子なのに、

そういうわけか、声変わりした。いや、男性に限らず、女性だってある程

度声変わりはあるものなのだが、美里の場合は予想以上に低くしゃが

れた声しか出せなくなってしまったのだ。何かホルモン異常が起きてい

たのかも知れない。

 声が低くなって、それまでのように人気歌手の歌を歌いにくくなってし

まっても、歌や音楽が好きなことには変わりはない。だが、思い通りに

歌えない事を悟った美里は歌手になる夢を諦めた。その代わりに、高

校でも大学でも合唱部に入って歌い続けたのだ。しかし、ちゃんと声を

出せないというのは歌い手にとって致命的なのは当然で、美里はいつ

も一番低いパートの、しかも補欠扱いでしか参加させてもらえなかった。

 不具合な楽器としての声しか持たない美里は、それでも音感やリズム

感には自信があった。それらは、小さい頃から歌ってきた美里が、知ら

ず知らずのうちに身につけたものだ。音楽性が高いだけに、それを表現

する楽器を持たない事は、美里にとって一層辛いものだったはずだ。大

学の合唱部は、コンサートやコンクール、学祭や交流会と忙しく、勉学に

励むというよりは、部活をしているうちに、あっという間に四年間が過ぎた。

 学校を出てからは、知らず音楽や歌からは遠ざかり、気がつけば美里

も中年どころか初老の域に達している。結婚もし、子供も育て、仕事も続

けて、一通り人並の人生を過して来た。今、定年間際になって、今さらな

がらに自分の半生を振り返る。人間とは面白いことに、一年前の事は忘

れてしまっても、若いころに記憶の中に刻み込まれた事はずっと覚えて

いる。とりわけ情操部分に刻まれた音楽は、美里という一個の人間の

基盤となっているのだ。しばらく音楽からは遠ざかっていたとしても、歌

が好きで音楽が大好きで、本当は歌に生涯をささげたいくらいだったと

いう思いは、昨日の事のように甦ってくるのだ。

 どうして私は歌の道を選ばなかったんだろう。あんなに歌うことが好き

だったのに。ああ、そうだ、この声のせいだ。あの思春期にこんな声に

なってしまったからだ。ああ、神様、私は恨みます。私に歌わせたくない

のなら、音楽という選択肢を与えないで欲しかった。

 もう何十年も前に自分を受け入れて、諦めてしまったはずの事なのに、

私はどうしてまたこんな事を思い出してしまったんだろう。また、あの若い

日の苦い思い出を繰り返さなければならないのだろうか?そう思う美里

だった。

                                     了


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第四百十五話 ミセス・スランプ。 [日常譚]

 「どうしたんだ?電気も点けないで。」
菅野が仕事から帰ってくると、マンションの部屋は真っ暗で、妻の理子がまだ
帰って来ていないのかと思った。だが、リビングのドアを開くと、ダイニングテ
ーブルに突っ伏してグスグスいっている妻がいた。何事かと驚いた菅野は、
妻の様子を伺いながら、何があったのかを尋ねた。妻はしばらく顔も上げず
に黙っていたが、少し間をおいて、顔を突っ伏したまま答えた。
 「私・・・ダメなの。」
「何が、ダメなんだ?」
何度尋ねても「ダメ」としか言わない妻をなだめながら、腹が減ったなと菅野
は思った。理子も腹が膨れたら機嫌をなおすだろう。
「な、とりあえず、飯でも食いに行こう。」
そう言って菅野は立ち上がってドアに向かった。理子も黙って椅子に張り付
いていた尻を持ち上げて、夫の後ろを追った。
 なんだか食事という気分でもないので、近所の居酒屋に入って、夫婦の話
が出来そうな隅っこの席に陣取った。飲み物と肴を一通り注文した後で、菅
野は理子の顔を覗き込みながらもう一度尋ねた。
「いったい何があったというんだ?会社で何かあったのか?」
理子は黙って首を振るばかりで、また目に涙を溜め始めたので、菅野はまぁ
焦らなくてもいいかと思いながら運ばれてきたグラスビールを持ち上げた。
「ま、とりあえず飲めよ。」
こっくりと頷いて理子もグラスを口に持っていく。
「こないだね、連れてってくれたでしょ?」
やっと理子が口を開いたのはいいのだが、唐突な問いに菅野はとっさに何のこ
とか分からなかった。連れて行った・・・?どこへ?飲み屋か?競馬か?
「なんだよ、急に。どこに行ったっけ?」
「ほら、私の誕生日に、イタリアン食べに行ったじゃない。」
「お、あれか。それが・・・どうしたんだ?」
「いえ・・・なんでも・・・。」
「言えよ。何でもいいから言えよ、理子。」
 理子は料理が大好きだった。習いにこそ行ったことはないのだが、母親の手
料理や、友人から教わった料理など、見よう見まねで何でも作ってしまえた。
必ずしもいつもとは言えないが、おおむね理子が作る料理は美味しかったし、
理子は自分には料理のセンスがあると思っていた。どこか外で食べてきたスー
プも、味わいから推理して似たようなものを作れたし、テレビの料理番組で流
れていたレシピもメモしておいて、そのままじゃぁつまらないからと、自分なりに
アレンジして作ってしまえた。料理のセンスがあるのかどうかは、分からないが、
小器用には違いなかった。
 「私・・・料理が…作れなくなってしまった・・・。」
「はぁ?なんだいそりゃあ?君はあんなに上手に何でも作れるじゃないか。」
「今まではそうだったわ。だけどね・・・。」
ぼちぼちと話し始めた理子の話はざっとこんなことだった。イタリアンなんて、
普段からパスタをゆでたり、ソースを作ったり、とても簡単な部類の料理とし
てかたずけてきた。実際、トマトとチーズと大蒜とオリーブオイルがあれば、
どんな材料でもイタリアン仕立てに作れてしまえた。だが、それは見よう見
まねな素人の手慰みにしか過ぎない。誕生日に連れて行かれた都心にあ
る高級イタリアンで食べたものは、どれもこれも驚くような味わいで、とても
自分が思っていたイタリアンとは違っていた。むしろ、フレンチに近いような、
あるいは和食かと思えるような、さまざまな工夫が凝らされていて、どうやっ
て作っているのか想像はつくのだが、とても真似できそうにないのだ。だが、
理子はそれでもあの日の料理を思い出しながら作ってみようとしたそうだ。
ところが、最初に出てきたサラダですら、そのドレッシングの味が再現でき
ないというのだ。バルサミコ酢に少量の砂糖と塩、白ワイン、出汁、胡椒を
加えてかき混ぜ、味見してみたが、似ているものの程遠いものだった。
 これは違うなと思って少しづつ分量を変えて作ってみたが、やはり違う。
香辛料が違うのかと、家にあったスパイスをいろいろ試したが、ますます
おかしなドレッシングになって行く。理子はやる気を失ってしまった。その
後はスープと肉料理を作るつもりだったのだが、すっかり気力を失って
しまったのだ。
 翌日も、その翌日も、別の料理をしようとするのだが、手が動かない。
味噌汁ひとつ、怖くて作れなくなってしまったという。
「スランプだわ、これは。」
理子はそう言った。理子は自己分析が得意で、これまでも自分や菅野の問題を
さまざまに分析してみせてくれたのだが、今回は自分の料理。
「わたし、これまで自分は料理のセンスがあると思っていた。そりゃぁ、そのへん
の素人の中では気のきいた料理が作れたわよ。でもね、今はそれじゃ満足でき
なくなっちゃったみたい。あのイタリアンくらいのものでなきゃぁ、作りたくないん
だわ、きっと。」
「そんな・・・それは勝手に思い込んでるだけだよ。君は料理人じゃないんだから、
今まで通りに気楽に好きなメシを作ってりゃぁいいんじゃないのか?」
「そうはいかないわ。私、今の自分が嫌だと思ったら、もう戻れない。もう何も作
れない。どうしよう。」
 この日から、菅野は理子の料理にありつけなくなった。理子は料理をしなくな
ったばかりか、よく家を空けるようになった。そう、あのシェフが行っている料理
教室に入り浸っているのだ。人間、一度上への視界が広がってしまったら、もう
現状には満足できなくなってしまう。理子が言った”スランプ”という言葉。あれ
はまさしく今の理子を言い当てている言葉だった。今にとどまっておくことを自ら
拒否したときに、人間は上を目指そうとする。だが、力量がないのに上を目指す
から何も出来なくなってしまう。これがスランプだ。
 主婦にすぎない理子にとっていいことかどうかは分からないが、力を付けた時
には再び理子は家庭料理を作るだろう。プロ並みの技を駆使して。
                                   了
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第四百十四話 勘違いの男。 [脳内譚]

 社会というものは、実にさまざまな人間で成り立っている。そして、社会の

中のごく僅かな人間が集まって、会社という小さな組織を構成している。そ

のごく僅かな人間でさえ、一人ひとり違う個性を持っているから、一致団結

なんてそうそうには出来るわけがない。なのに、事あるごとに「一致団結し

て!」などと叫んでいる人々が私にはわからない。

 こんなことを語っている私はごく普通の人間で、実に温和に暮らしている。

自分で言うのもなんだが、若いころから老成してしまっていて、嫌な人間な

ど滅多にいないし、腹を立てたことなんて、人生の中で数えるほどだ。何が

起きても、たいていは「ああ、そんなもんだ。」と簡単に受け入れて許してし

まう。それがいいことなのか、よくないことなのか、それは私にはわからない。

 だが、温厚だと言いながらも、実は仕事場に一人だけ気に食わない奴が

いる。かつては部下だった男だが、そいつはまだ若造の癖に自分が優秀

だと勘違いしている類の奴だ。思いあがっているから、上司や同僚から指

摘されるとすぐに逆上して起こり出すし、その割に結構な落ち度を残すよ

うな仕事をする。グループで行った業績も、まるで自分のお陰のように思

って満足している。少し病的な、というか自閉症的な性格を持っており、

周囲には彼を疎んじる人間は結構いる。

 私が彼と仕事をしていた時、私は例によってなんでも受け入れてしま

うから、評判の悪い男でも、他面を見ればいいとこともあるだろうと考え

て静かに見守っていた。ところが、その私の見守りを放置と勘違いし、

また私が築いて与えた仕事を自分一人で獲得したように考えていた彼

は、ある日私に噛みついた。

「あれもこれも僕に任せっきりで、何にもしてくれないのは何でですか!」

その言葉を黙って聞いたが、同時になんて頭の悪い奴なんだろうと思っ

た。なぜなら、私は決して放置はしていなかったから。そんな事もわから

ないような人間には、それ以上何を言っても仕方がない。私は彼を受け

止めているつもりだっただけに、非常にがっかりした。

 だが、その一件で彼は仕事から外れてもらい、今は一切の関わりを断

っている。私自身の精神衛生上のためだ。私は温厚な人間なのだが、そ

の若造は今なお同じ事務所にいるわけだから、いつか殴り倒してやりた

いと思っている。

 実は、もう一人気に入らない人間がいる。私はほとんど嫌いな人間等

いないのだが、これだけは例外だ。その男はほぼ同じ年代で、かつては

一緒のチームで働いた事もあるのだが、傍若無人で、気に入らない外部

の人間に「殺してやるぞ」という脅し文句を言うような輩だ。もはやこの話

だけで沢山だ。まるで自分一人が選ばれた人間のように勘違いをしてお

り、周囲の人間に挨拶ひとつしないから、これもまた評判が悪い。こちら

が頭を下げても知らん顔をするような人間だ。その癖、上司やお得意先

には要領がいいらしく、そこでは悪い評価ではないという。このわけのわ

からない人物の顔を私は出来れば見たくもないが、同じ職場にいるので

毎日気分が悪くなるのだ。私は温厚な人間だが、こいつだけはいつか蹴

飛ばしてやりたいと思っている。

 普通は、もうこれ以上嫌な人間などいないのが私の筈なんだが、実は

もう一人いる。もしかしてこの会社は何かおかしいのではないだろうか。

その男は顔付きからして嫌味だ。いつもニヤニヤして下品な口ひげをへ

ろへろ動かす。他人の様子を斜めから見て、あることないこと噂話をして

回る。これは昔からの彼の癖で。人の噂を他の人間に話すことで自己実

現をしているのだ。私自身も彼に広められた噂はひとつや二つではなく、

それはまるっきり嘘ではないにしろ、真実からは程遠い。真実ではない

事でも、誰かれなく広められてしまうと、その噂話はいつしか真実のよう

な顔をして一人歩きしてしまう。お陰で私は会社の中にいくつもの障壁

を抱えてしまった。いつかこの男を殴り倒してやりたいと思っている。

 私は実に温厚な人間だから、上司の命令にも従順なのだが、最近に

なって私を追い越して上司の席に座ってしまったあいつの命令は受け

たくない。五歳も年下の人間が私を飛び越して出世するからには、そ

れなりの理由があるべきだ。だが、彼にはそうしたものを感じない。

確かに真面目で努力家なのは分かるが、飛びぬけて優秀な業績を

残しているわけでも、人望が厚いわけでもなく、何故この男が抜擢さ

れ他のか分からない。抜擢という言葉も違う。人事上の消去法によ

って、薬にもならないが毒にもならないであろうという自由で、または

上司の加護によってそうなっただけだ。五年後の人事なら分かるが、

何故今なのか、私にはわからない。上部が年功序列ではないサプ

ライズ人事をしたかっただけのように見える。私はこの男を殴りたい

とは思わないが、落とし穴に落ちればいいと願っている。

 私は嫌いな人間など一人もいない・・・筈なのだが、こうして改めて

考えてみると、あの白髪の男も、あのニヤけた男も、こっちの禿げた

男も、あの派手な女も、この髭だらけの奴も、その若造も、どいつも

こいつもボコボコにしてやりたい。だがそれは今じゃない。いつかチ

ャンスがあればだ。だって私は温厚で、物分かりがよく、誰にだって

優しい人間なのだから。

                             了

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第四百十三話 未来への脱出。 [脳内譚]

 私はもう長い間、ここに閉じ込められている。それが五年なのか十年なのか、

あるいは五十年も閉じ込められてきたのか、いまではもうほとんど分からなく

なってしまった。

 最初の頃は、何とか抜けだそうといろいろ試していた。いや、そんな気がする。

個人の力では抗えない不可思議な未知なる力によって、どんどん今の居場所

へと追いやられて行き、ついには今の場所から動けなくなってしまったのだ。不

可思議な力とは・・・神の意思なのか、あるいは運命というものなのか、私には

応えることが出来ないが、とにかく自分一人の力では逆らう事が出来ない力だ。

だが私は逆らおうとした。自分の運命など、自らの力で何とでもなる、そう信じて

上層部に働きかけたり、別の組織に粉を撒いてみたり、この世界のメディアから

入手した情報を信じて、今までと違うやり方に挑戦してみたり。しかし、それはま

るで蟻地獄の穴から抜け出そうとしている微力な蟻のようにもがくばかりで、結

局何ものも売ることが出来ないまま、今の場所にい続けているのだ。

 他のみんなは今の場所に満足しているのだろうか?いったいどれほどの人間

がここにい続けることを喜んで享受しているのだろうか?違う。そうではない。多

くの人々は、この世のほとんどの人間は、自分が置かれている状況に疑問さえ

持っていないというのが真実だろう。

 飼育箱の中で飼われている蟻は、外の世界を知らない。ガラスで密閉された

自分がいる場所だけが全世界だと思っている。だがもし、飼育箱の外に、もっ

と大きな広い世界が広がっていることを知ったなら・・・蟻はそれでも飼育箱の

中に甘んじているのだろうか。

 生きていけるだけの水や食糧があり、生きていくことと少しの楽しみだけに生

涯を費やせればいいと考えている蟻は、それでもそこにい続けるだろう。だが、

それ以上の何か・・・例えば自由という名の見えない何かや、未来と呼ばれる

不確かな何かを求める者だけが、敢えて外の世界への脱出を求めるのだ。

 私はその敢えて外の世界を求める少数派なのだろう。もう何年も前にチャレ

ンジしては挫折するというシークエンスを繰り返し続けてきた。だが、いつしか

チャレンジ精神は諦めへと変わり、逆にこうしてここに入れるのはいつまでな

のだろうと考えるようになっていた。安穏と暮らしていると、老けるのも早い。

いつの間にか私の頭には白いものが混じり、皮膚には深い皺が刻みつけら

れているのを発見して、私の挑戦心は再びむくむくと起き上った。

 忘れていた冒険心を取り戻したかのように、俄かに脱出活動を始めたのだ

が・・・やはり俄か仕込みではいけない。若い頃のように身体も動かないし、頭

も働かない。ただ長年にわたって身体が覚えてきたスキルと知恵を頼りに、新

たな脱出を試みたのだが・・・やはり、結果は出せなかった。

 政府が密かに公募している秘密諜報部員に応募してみたのだが、あえなく書

類選考で落とされてしまったというわけだ。今をもって終身雇用をベースにして

いるこの国の雇用制度に逆らっての、今の組織からの脱出、そして現在の生

活スタイルからの脱出は、またしても失敗した。自分に残された情熱というエ

ネルギーの残存量を知っている私にとって、もはやこの環境からの脱出は、

断念せざるを得ないのかも知れない。

                                了

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第四百十二話 踊る演芸場。 [脳内譚]

 映画禁止令が出て世の中は禁映時代に突入した。これで四つ目の禁止令が制

定された事になる。最初は禁煙令。それは順当なものには思えたが、何も法律で

禁止することもなかろうにという声は高かった。そして悪名高き禁音令。さらに禁漫

令というとるに足りない法律が出来、そして今回の禁映令だ。

 もともとはポルノ取り締まり条例に端を発している。この条例そのものは古くから

あるものだが、近年インターネットの普及と相まって、児童ポルノやSMポルノなど

かつてはアンダーグラウンドの遥か底にあったものが表に浮上してきて問題化し

た。同時に、投稿ビデオやユーストリウムという手法を得た個人が、それぞれに映

像作家となって、ありとあらゆる映像が世の中に溢れかえった。同時に盗撮マニア

が急増した。スマートフォンやデジタルカメラに搭載されたビデオカメラ機能によっ

て誰もがいとも簡単にビデオ撮影が出来るようになったからだ。このこと自体は問

題にはならないように思えるが、人物のビデオを映しては投稿するという行為が、

世のプライバシー保護法や、肖像権保護法に抵触するということで、これを排除

するためには、ビデオ撮影そのものを禁止するしか方法が編み出せなかったわけ

だ。撮影してはいけないとなると、当然のように映写も禁止された。かくして、世は

禁映時代に入ったのだった。

 禁映法が施行される以前、映画産業は脈々と長い百数年の歴史を刻んできた

とはいえ、決して好調とも言えなかった。閉鎖する映画館も少なくなく、大手経営

によるシネマコンプレックスという形態のみが生き残っていた。制作会社も、そう

滅多やたらにヒット作が生まれるわけでもなく、低予算作品も多くなっていた。そ

んな状況を背景に禁映法が施行されたものだから、映画産業はあっという間に

崩壊した。

 映画がなくなった今、人々は昔ながらの実演パフォーマンスに娯楽を求めた。

つまり、演劇であり、寄席である。映画館は演劇や寄席の小屋として再利用され、

俳優はもちろん、映画制作者たちも演劇や寄席の舞台を職場とするようになった。

映画があった頃は、映画の蔭に隠れていたこれらの演芸は、みるみる活性化した。

映像による記録ができないかわりに、制作者は日々のパフォーマンスを文字に書

き出し、レビューとして、あるいは演芸ドキュメントとして出版された。これがまた、

漫画も音楽も禁止されている世の中であったから、思わぬヒットとなり、活字業界

もまた潤っていったのだ。

 禁映法が施行されて十年ほど過ぎた頃、一人の青年がパフォーマンス業界に

現れた。彼は音も映像もなく地味に公開されていた舞台に新たな表現を持ち込

もうとしていた。踊りと振付だ。音楽がない今、ミュージカルもまた廃れていたの

だが、その方法論を掘り起こそうとしていたのだ。音楽を使わずに、映像もなし

に、地味な演芸に賑やかさを加える。彼は舞台で行われるきわめて日常的な

動作を誇張し、ある種の振付によって今までなかったユニークな動きによる表

現力を考案した。さらに、生活音や心音や呼吸音など、肉体が発する音、動

物の鳴き声、風の音、海の波音、そんなものをサンプリングして編集を加え、

音符には書けないが何かしら音楽にも似た効果を生み出すサウンドを編み

出し、これに合わせたユニークな振付をダンサーに与えた。これが大衆に

受けたのだ。今まで見たことも聞いたこともない新たな舞台パフォーマンス。

そこで彼が使った掛け声が街中に流行した。

「ええやんか、ええやんか、これでもええやんか、おっぺけぺんぎんおっぺ

けぺん!」

 はて、どこかで聞いたことがあるような・・・。彼は二百余年も以前にこの国

にある潮流を生み出した芸術家、川上音二郎の子孫で、川上音三郎という

のが青年の名前であった。

                               了

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