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第四百十五話 ミセス・スランプ。 [日常譚]

 「どうしたんだ?電気も点けないで。」
菅野が仕事から帰ってくると、マンションの部屋は真っ暗で、妻の理子がまだ
帰って来ていないのかと思った。だが、リビングのドアを開くと、ダイニングテ
ーブルに突っ伏してグスグスいっている妻がいた。何事かと驚いた菅野は、
妻の様子を伺いながら、何があったのかを尋ねた。妻はしばらく顔も上げず
に黙っていたが、少し間をおいて、顔を突っ伏したまま答えた。
 「私・・・ダメなの。」
「何が、ダメなんだ?」
何度尋ねても「ダメ」としか言わない妻をなだめながら、腹が減ったなと菅野
は思った。理子も腹が膨れたら機嫌をなおすだろう。
「な、とりあえず、飯でも食いに行こう。」
そう言って菅野は立ち上がってドアに向かった。理子も黙って椅子に張り付
いていた尻を持ち上げて、夫の後ろを追った。
 なんだか食事という気分でもないので、近所の居酒屋に入って、夫婦の話
が出来そうな隅っこの席に陣取った。飲み物と肴を一通り注文した後で、菅
野は理子の顔を覗き込みながらもう一度尋ねた。
「いったい何があったというんだ?会社で何かあったのか?」
理子は黙って首を振るばかりで、また目に涙を溜め始めたので、菅野はまぁ
焦らなくてもいいかと思いながら運ばれてきたグラスビールを持ち上げた。
「ま、とりあえず飲めよ。」
こっくりと頷いて理子もグラスを口に持っていく。
「こないだね、連れてってくれたでしょ?」
やっと理子が口を開いたのはいいのだが、唐突な問いに菅野はとっさに何のこ
とか分からなかった。連れて行った・・・?どこへ?飲み屋か?競馬か?
「なんだよ、急に。どこに行ったっけ?」
「ほら、私の誕生日に、イタリアン食べに行ったじゃない。」
「お、あれか。それが・・・どうしたんだ?」
「いえ・・・なんでも・・・。」
「言えよ。何でもいいから言えよ、理子。」
 理子は料理が大好きだった。習いにこそ行ったことはないのだが、母親の手
料理や、友人から教わった料理など、見よう見まねで何でも作ってしまえた。
必ずしもいつもとは言えないが、おおむね理子が作る料理は美味しかったし、
理子は自分には料理のセンスがあると思っていた。どこか外で食べてきたスー
プも、味わいから推理して似たようなものを作れたし、テレビの料理番組で流
れていたレシピもメモしておいて、そのままじゃぁつまらないからと、自分なりに
アレンジして作ってしまえた。料理のセンスがあるのかどうかは、分からないが、
小器用には違いなかった。
 「私・・・料理が…作れなくなってしまった・・・。」
「はぁ?なんだいそりゃあ?君はあんなに上手に何でも作れるじゃないか。」
「今まではそうだったわ。だけどね・・・。」
ぼちぼちと話し始めた理子の話はざっとこんなことだった。イタリアンなんて、
普段からパスタをゆでたり、ソースを作ったり、とても簡単な部類の料理とし
てかたずけてきた。実際、トマトとチーズと大蒜とオリーブオイルがあれば、
どんな材料でもイタリアン仕立てに作れてしまえた。だが、それは見よう見
まねな素人の手慰みにしか過ぎない。誕生日に連れて行かれた都心にあ
る高級イタリアンで食べたものは、どれもこれも驚くような味わいで、とても
自分が思っていたイタリアンとは違っていた。むしろ、フレンチに近いような、
あるいは和食かと思えるような、さまざまな工夫が凝らされていて、どうやっ
て作っているのか想像はつくのだが、とても真似できそうにないのだ。だが、
理子はそれでもあの日の料理を思い出しながら作ってみようとしたそうだ。
ところが、最初に出てきたサラダですら、そのドレッシングの味が再現でき
ないというのだ。バルサミコ酢に少量の砂糖と塩、白ワイン、出汁、胡椒を
加えてかき混ぜ、味見してみたが、似ているものの程遠いものだった。
 これは違うなと思って少しづつ分量を変えて作ってみたが、やはり違う。
香辛料が違うのかと、家にあったスパイスをいろいろ試したが、ますます
おかしなドレッシングになって行く。理子はやる気を失ってしまった。その
後はスープと肉料理を作るつもりだったのだが、すっかり気力を失って
しまったのだ。
 翌日も、その翌日も、別の料理をしようとするのだが、手が動かない。
味噌汁ひとつ、怖くて作れなくなってしまったという。
「スランプだわ、これは。」
理子はそう言った。理子は自己分析が得意で、これまでも自分や菅野の問題を
さまざまに分析してみせてくれたのだが、今回は自分の料理。
「わたし、これまで自分は料理のセンスがあると思っていた。そりゃぁ、そのへん
の素人の中では気のきいた料理が作れたわよ。でもね、今はそれじゃ満足でき
なくなっちゃったみたい。あのイタリアンくらいのものでなきゃぁ、作りたくないん
だわ、きっと。」
「そんな・・・それは勝手に思い込んでるだけだよ。君は料理人じゃないんだから、
今まで通りに気楽に好きなメシを作ってりゃぁいいんじゃないのか?」
「そうはいかないわ。私、今の自分が嫌だと思ったら、もう戻れない。もう何も作
れない。どうしよう。」
 この日から、菅野は理子の料理にありつけなくなった。理子は料理をしなくな
ったばかりか、よく家を空けるようになった。そう、あのシェフが行っている料理
教室に入り浸っているのだ。人間、一度上への視界が広がってしまったら、もう
現状には満足できなくなってしまう。理子が言った”スランプ”という言葉。あれ
はまさしく今の理子を言い当てている言葉だった。今にとどまっておくことを自ら
拒否したときに、人間は上を目指そうとする。だが、力量がないのに上を目指す
から何も出来なくなってしまう。これがスランプだ。
 主婦にすぎない理子にとっていいことかどうかは分からないが、力を付けた時
には再び理子は家庭料理を作るだろう。プロ並みの技を駆使して。
                                   了
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