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第四〇一話 笑顔リハビリテーション。 [日常譚]

「はぁい、それでは”あー”と長ーく続けて声を出してねー。」

明恵がこの病院のリハビリ医として勤めるようになってもう五年が過ぎよう

としている。もともとは神経内科が専門なのだが、このところ企業を中心に

世の中に広まっているメンタル・ヘルス系の要望に応えるために創設され

た生活診療科という新しい医療部門をサポートして欲しいという要望が医

科大学に向けられ、天童明恵に白羽の矢が立った。

 「はぁい、よくお声が出ていますよー。それじゃね松田さん、今度は同じよ

うに”あー”って言いながら、途中で”あっはっはっはっは”って細かく切るん

ですよ。いいですか?」

「あはっはははあああー。」

「あーおしいなぁ、だいたいいいんだけどね―もう少し落ち着いてゆっくり

やってみましょうか?はい、あっはっはっは・・・」

「アッははアはは・・あれ?」

「うーん。大分疲れましたか?じゃぁ、今日はこの辺にしときますか?お家

で練習しておいてね。」

 この松田さんは大きな会社の重役さんまで勤めたんだが、定年退職で

家でずーっと過すようになってから、家族と上手くやっていけない現状を

知った。四六時中家族といては、息が出来なくなってしまうというのだ。

家族の方もまた苦しんでいて、最初はご夫婦で来院されたのだが、結局

ご主人の方に問題が発見されて、このリハビリを受けるようになった。

 最初は大変だった。顔が固まってしまって動かないのだ。コールドクリー

ム等を使って、顔をマッサージし、顔の筋肉を十分にほぐしてから、頬の

動きを思い出させる訓練に入った。どうしても頬が動かないので、自分の

手で引っ張ったり叩いたりさせながら、頬が盛り上がるようにした。頬が固

まったままだと、どうしても口角が上がらないのだ。

 頬を和らげるのにひと月ほどかかった。通院なので、週に2回来てもらっ

て一か月と言うことは、八回ほどを要したということだ。次の一カ月は、唇の

動きを滑らかにし、その次に瞼の動きを訓練した。

 こうしたリハビリが繰り返されるうちに、松田さんも次第に心を開くようにな

って、下手な冗談さえ出るようにンなった。

 「先生、そろそろ私もお笑い芸人になれますかねぇ?」

「あぁら。山田さん、芸人になるつもり?」

「・・・」

「それだったら、ダジャレのひとつも言えるようにならなきゃぁね。」

「あ、ダジャレなら昔から得意ですよ、わたし。例えば、女子高生を喜ばせ

るギャグを飛ばすおっさんはオヤジ・ギャルなんちて・・・。」

「松田さん・・・無理しない方が・・・いいわ。少しづつね・・・。」

 こんなしょうもない会話でも、ニコニコしながらすればいいのに、松田さん

は顔を引きつらせたまま言うので、なんというか、気持ち悪いというより、怖

い感じだ。しかし、それでもここまで会話が成立するようになってきたのだか

ら、もう少しで回復すると思われた。

 半年の通院を重ねて、ようやく発声するところまでこぎつけた。顔の筋肉を

上手く使うためには、最終的には声も伴わなければならない。もちろん、その

後には手振り身振り等のジェスチャーも必要になってくるのだが。さっき終わ

らせたリハビリは、「あーはっはっはっは」という発声によって、自然に笑う事

を誘発させるためのものだ。健康な人なら、こんなことをしなくてもごく自然に

笑ったり微笑んだり出来るものなのだが。

 松田さんのようなリハビリを必要とする患者さんは、とても多い。会社という

閉じられた社会の中で、とりわけここ数年続く経済低迷によって業績が不振

になると、幹部クラスからは笑顔が消える。毎日苦虫を噛み潰したような顔で

一日を過ごし、難しい顔のまま帰宅する。帰りは遅いから、そんな表情のまま

眠りに就き、翌朝また難しい顔をして出社する。たとえ陽気な人格の人でも、

経営不振の会社の中でニコニコしているわけにはいかない。仮に個人的に

はハッピーだったとしても、会社の中ではむりくり難しい顔をして過ごすのだ

という。

 こんな生活を続けているうちに、いつしか笑顔を忘れてしまう。忘れてしまう

というよりも、出来なくなってしまうのだ。そうして退職して家に帰ると、家人た

ちは途方に暮れてしまうのだ。考えてもごらんなさい。笑わない人間と四六時

中一緒に過さなければならない家族のことを。

 こうして笑顔リハビリというものが必要とされるようになった。今はまだ笑顔

リハビリをやっている病院も少ないのだが、まもなく全国の病院で開設されて

いく予定だそうだ。

 ウチの病院では、笑顔リハビリのほかに、挨拶リハビリ、感謝リハビリ、おしゃ

べりリハビリなども行っている。もし、それらを必要としているのなら、一度外来

に来て相談してみるのも手だと思う。そのような治療を受けることは、もはや、

ずかしい事でもなんでもないのだから。

                                   了


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