SSブログ

第四百二十八話 犬の人。 [妖精譚]

 次郎はとても鼻が効く。鼻が効くというのは、世間の儲け話を見つけるのが

上手いという意味の鼻が効くではなくて、文字どおりに鼻が効くのである。お

昼どきになるとどこからとも流れてくる調理の香りをいち早く嗅ぎ取るし、悪く

なりかけている食品の毒にも人一倍鋭い。誰かの体臭や香水の臭いなど、

誰よりも感じとってしまうので、満員電車やエレベーターの中では思わず鼻を

押さえてしまうのだ。

 それだけではない。次郎は耳もいい。相当遠くから近付いてくる友人の足音

や、家路を近づいてくる家人の足音はもちろん、どこかで誰かが針を落とした

音や隣町の犬の遠吠えまで聞こえてしまう。深夜に眠っている時などは、隣

の家で何かモノ音がしただけで、パッと目覚めてしまうくらいだ。

 次郎の視力はあまり良くない。どちらかというと近眼で、色弱ですらある。

だが動くものには敏感で、少々目が悪くても耳と鼻の良さがカバーして余り

あるのだ。

 ここまで聞くと、次郎はいったい何者なのだ。タイトルにあるように犬なの

か?そう思うだろうが、実は次郎自身は自分を犬だと思っている。いや、犬

だったと思っている。正確に言えば、犬だったのだけれども、本当は人間だ

と思っていて、長い年月を費やしてようやく最近人間になってきたと思ってい

るのだ。ちょっと複雑な説明になるが、元犬だった人間。人間になりたかった

犬。犬なのに人間だと思い続けている。・・・と思っているのだ。

 今ではすっかり人間の姿になっているが、それでも持って生まれた犬として

の痕跡、それが臭覚であり聴覚であるわけだ。そのほかにも外観的な特徴や

生活習慣的な事柄はある。たとえば次郎の身体にはブチ犬だった頃のブチ模

様が薄い痣として残っている。鼻の頭が少し黒いのも犬だった時の名残だ。耳

は人間の耳には違いないが、上部が少し垂れたようになっている。全体的にも

犬顔だと言われればそういう風に見える。電信柱を見ると何かがしたくて立

ち止まってしまうし、猫を見かけると追いかけたくなる。

 次郎のことをそこまで聞くと、完全に犬ではないか。次郎自身もそう自覚し

ている。だが、ことごとく他の人間とは違う犬独特の個性や能力を持ってしま

っている事に、次郎はコンプレックスを感じているし、何よりもいつ本当は人

間ではない事がばれるかと不安で仕方がないのだ。

 トイレで片足を上げそうになるのをこらえる。食事の時に鼻をぴくぴくさせ

て嗅ぎたくなるのを我慢する。後ろ足で耳の後ろを掻くのはやめて前足で

掻く。朝晩のお散歩は健康のためと称してやっている。鏡を覗いては、人

間らしい表情であり続けるように努力してみる。人より多い無駄毛はこま

めに処理する。少しのもの音にピクッと反応してしまうのは・・・これは止

められない。

 これだけ努力していて、周りの人間は誰ひとり次郎のことを犬だなんて思っ

ていないのだけれども、それでも自分が犬だった事は次郎自身がいちばんよ

く知っている。それこそがいちばん辛いことなのだ。時として自分はもともとか

ら人間として生まれたのではなかったかと思うこともある。犬だった事を忘れ

てしまっている事もある。だが、我に帰った時に、なんて自分は浅はかなの

かと自責する。そんな大事なことを忘れてしまって、もし誰かに元犬だという

ことを見破られてしまったらどうするんだと。

 次郎は人間である。自分が元犬だったと思いこんでいる人間である。これ

はある種の病気・・・パラノイアなのかもしれない。だが、非常に温和で誰か

を傷付けるようなこともなく、自分を犬だったと思いこんでいる以外は何の害

ももたらさないので、家族は次郎をそっとしているのだ。

                                  了

続きを読む


読んだよ!オモロー(^o^)(2)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。