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第四百十六話 歌の夢-第一節・甦る記憶。 [脳内譚]

 「ムアー、マー、マー、マー、マー・・・」

いつも最初は、ロングトーンから始める。発声練習だ。たやすいようで、これ

が案外難しい。声の立ち上がりからしっかりと発声し、太いパイプのように安

定した声を八秒ほど続ける。そして半音上の次の音、次の音・・・という具合

に。慣れないうちは、声が揺れるし、途中で途切れたりもする。そうならない

ために腹式呼吸で腹から声を出す。腹からと言っても、本当に腹から声が

出るわけではないが、横隔膜で支えるようにして発声しないと、声が安定し

ないのだ。その上、いわゆる”喉で発声”していると、無理が生じて喉を傷め

たりもする。腹で声を出すための空気を支えて、それこそパイプ状の楽器の

ように、喉を広げてフワーッと空気を外に出す。その際に声帯を振わせると

声が出るわけだ。イメージとしては、腹の底から出た空気に乗せた声を、ま

っすぐに太いまま口から吐き出す感じ。

 発声の原理はそれだけではない。声を出すときの口腔内の大きさによっ

て声は変わってしまう。口腔を大きく広げて、舌が発声の邪魔にならないよ

うに下げて、さらに鼻腔からも空気を漏らすことによって、響きを生み出さな

ければならない。この、鼻腔を響かせるために発声練習の際には「ムアー」

というMの子音を使うのだ。口腔と鼻腔を使って響かせた声は、3メートル

ほど先の壁に当てるイメージで口から繰り出す。これでやっと”いい声”が

生まれるわけだが、横隔膜も、喉も、声帯も、口腔も鼻腔も、すべて肉体

であるから、人によって音声が変わるわけだ。ここに個性が生まれる。

 もともと理想的な肉体をもった人間なら、何の努力もなしにいい声を出

せるだろう。ここにはやはり天性のものが影響すると言わざるを得ない。

たとえばトロンボーンの肉体を持った人間にフルートの音は出せないの

だ。トロンボーンの肉体を持っているのなら、その人固有の低音を響か

せればいいのだが、ただのプラスチックパイプの肉体しか持たない人間、

つまり楽器として機能しないような肉体を持った人間には、歌うことは無

理と言うことになる。

 栗原美里は小さい頃から歌が大好きだった。当時まだモノクロだった

テレビの番組に歌手が出てくると、テレビにかぶりついて見ていた。や

がてその歌を覚えると、歌手と一緒に身ぶりも真似て歌った。そうやっ

て覚えた歌を両親に見せては「上手だねえ」と褒めてもらうのが大好き

だった。ところが神様は皮肉なことをする。背も高く大きく成長した美里

の思春期に待っていたものは、声変わりだった。美里は女の子なのに、

そういうわけか、声変わりした。いや、男性に限らず、女性だってある程

度声変わりはあるものなのだが、美里の場合は予想以上に低くしゃが

れた声しか出せなくなってしまったのだ。何かホルモン異常が起きてい

たのかも知れない。

 声が低くなって、それまでのように人気歌手の歌を歌いにくくなってし

まっても、歌や音楽が好きなことには変わりはない。だが、思い通りに

歌えない事を悟った美里は歌手になる夢を諦めた。その代わりに、高

校でも大学でも合唱部に入って歌い続けたのだ。しかし、ちゃんと声を

出せないというのは歌い手にとって致命的なのは当然で、美里はいつ

も一番低いパートの、しかも補欠扱いでしか参加させてもらえなかった。

 不具合な楽器としての声しか持たない美里は、それでも音感やリズム

感には自信があった。それらは、小さい頃から歌ってきた美里が、知ら

ず知らずのうちに身につけたものだ。音楽性が高いだけに、それを表現

する楽器を持たない事は、美里にとって一層辛いものだったはずだ。大

学の合唱部は、コンサートやコンクール、学祭や交流会と忙しく、勉学に

励むというよりは、部活をしているうちに、あっという間に四年間が過ぎた。

 学校を出てからは、知らず音楽や歌からは遠ざかり、気がつけば美里

も中年どころか初老の域に達している。結婚もし、子供も育て、仕事も続

けて、一通り人並の人生を過して来た。今、定年間際になって、今さらな

がらに自分の半生を振り返る。人間とは面白いことに、一年前の事は忘

れてしまっても、若いころに記憶の中に刻み込まれた事はずっと覚えて

いる。とりわけ情操部分に刻まれた音楽は、美里という一個の人間の

基盤となっているのだ。しばらく音楽からは遠ざかっていたとしても、歌

が好きで音楽が大好きで、本当は歌に生涯をささげたいくらいだったと

いう思いは、昨日の事のように甦ってくるのだ。

 どうして私は歌の道を選ばなかったんだろう。あんなに歌うことが好き

だったのに。ああ、そうだ、この声のせいだ。あの思春期にこんな声に

なってしまったからだ。ああ、神様、私は恨みます。私に歌わせたくない

のなら、音楽という選択肢を与えないで欲しかった。

 もう何十年も前に自分を受け入れて、諦めてしまったはずの事なのに、

私はどうしてまたこんな事を思い出してしまったんだろう。また、あの若い

日の苦い思い出を繰り返さなければならないのだろうか?そう思う美里

だった。

                                     了


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