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第八百六十七話 泣く赤児 [文学譚]

 先程から車両の端っこあたりから赤ん坊の泣き声がしている。それがいつまでも続いているものだから、だんだんとイライラしはじめているところだ。同じ車両に乗っている他の客は、半分くらいは聞こえないことにしておこうと無視することで耐えているようだが、残りの半分くらいの客は、赤ん坊の方を見たり、耳にイヤホンを差し込んだり、なんとかならないのかといった顔をして耐えている。

 赤ん坊は今風のナップサックみたいな背負子というか抱き紐で若い母親の胸あたりに縛り付けられているのだが、生易しい泣き方ではない。母親は一生懸命あやしたり揺らしたりしてなんとか泣き止ませようとしているのだが、一向に功を奏しないようだ。偶然隣に立つことになってしまった老女が一緒になって赤ん坊の顔を覗き込んだり、変な顔をしてあやそうとしたりしているが、なんの効果もないようだ。

 だいたいにおいて赤ん坊が泣いているからには、何らかの理由があるはずだ。お腹がすいているとか、おむつが濡れて気持ち悪いとか、眠いとか、おおむねその3つくらいが泣いている理由であり、母親たるものそれを察して処置してやるのが責務だ。それなのに泣き続けているというのは、母親が我が子の要望に気がつけないでいるということの証拠であり、そんな母親に抱かれている赤ん坊は哀れというよりほかはない。

 まだ言葉を発することのない赤ん坊にとって泣くことが唯一コミュニケーション手段なのに、いちばん分かってほしい母親に伝わらないなんて最低最悪だ。だが、空腹にしろおむつにしろ、眠気にしろ、大抵はしまいに泣き疲れて眠ってしまうものだが、この赤ん坊はいつまでも泣き続けている。ちょっとおかしいんじゃないか。私ですらそう思うのだけれども、当の母親はひたすらあやして揺らすだけ。いったいきょうびの母親はどうなっているのだ。私は教えてやりたい衝動に駆られながらその親子を遠目から凝視した。

 ナップサックのような抱っこ紐はよくできていて、赤ん坊をがっしりと包んで落とすことがない。母親の背中でクロスしている幅広い肩掛け紐が前に回ると赤ん坊を包み込んでいる背板の後ろに回って赤ん坊のお尻の下でガッチリと金具で留められている。赤ん坊の足が背板の下からニョキッとぶら下がるようになっているのだが、その太もものあたりを見てぎょっとした。ぶら下がった足の付け根からももにかけてピンク色に充血している。紐を留めている金具がもものあたりに食い込んでいているのだ。傷こそ付けるに至っていないが、それは痛そうだ。赤ん坊が泣くのも無理はないというものだ。いったいいつからあんなふうに食い込んでしまったのかわからないが、一刻も早くなんとかしてやらないとあれは地獄だ。

 私は座っていたのをわざわざ立ち上がって親子に近づいた。「あの」と声をかけた直後、母親は皆からの視線を不愉快に思っていたのだろうが、声をかけた私きっと睨んで「なによ、迷惑?」とでも言いたげな口元をした。同時に、ふん! と赤ん坊を少し浮かせて抱き直したその反動で、食い込んでいた金具が足からかちゃと外れた。わぁわぁ泣いていた赤ん坊は拍子抜けしたように泣き止み、それと同時に電車が駅で停車した。扉が開いて、泣き止んだ赤ん坊を抱いた若い母親は私をもう一度睨んでから降りていった。私は「あの」と言おうとしたままの形で口を開けたまま親子を見送り、車両に乗ったままの他の乗客たちは、私のその口元を見続けていた。

                                了


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第八百六十六話 変身 [変身譚]

 ある朝、暮郡沙武が気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっているような気がした。甲殻のように固くなった背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓のような筋にわかれてこんもりと盛り上がっている茶色い自分の腹が見えるのではないかと想像したが、そうはなっていなかった。自分が何か忌まわしいものに変わってしまったという思いすごしに過ぎなかった。

「おれは何をかんがえているのだろう?」と彼は思った。夢見が悪すぎたのだろうか。不意に昨日のことが思い出された。そうだ、昨日はあまりいい日ではなかった。職場で揉め事に巻き込まれて、嫌な気持ちのまま家に帰るのが嫌で、帰宅途中で立ち飲み屋で一杯ひっかけたのだが、そこでも隣の酔っ払いに絡まれてますます落ち込んだ。酔いもそこそこに家に帰ったのがまずかった。飲んで帰るなら連絡してちょうだいよ、ご飯の用意をしているのに、と妻になじられ、いやいや飯はちゃんと食うよと言っているのに、ぷりぷりしている妻を前にして冷えた飯を食った。ああ、俺は何をしているんだろう。仕事の憂さを家にまで持ち込んでしまったのか。ますます自己嫌悪に陥るが、妻も妻だ。こんなときこそ夫の気持ちを癒すのが妻の役割だろうと腹立たしくも思った。

 早々に飯をかっ食らって、モノも言わずに風呂に使ってからベッドに入ったのだ。よくない出来事はさらによくない出来事を引き寄せる。いや、ほんとうはそうではない。嫌な出来事によって引き起こされた忌まわしい気持ちが、次の出来事に影響するのだ。つまり、すべては自分自身が引き起こしているのだ。と、これは何かの啓発本に書かれてあったことなのだが、きっと間違ってはいないのだろうと思う。昨日だって、職場での出来事に対する気持ちにけじめをつけて、新たな気持ちで家路につけば、いつもと変わらない平穏な夜を過ごすことができたに違いないのだ。

 だが、人間はどうしても気持ちを引きずる生き物だ。だって仕方がないだろう。嫌な出来事っていつまでも尾をひいてします。それは嫌な出来事であればあるほど脳みそに染み付いてしまっているからだ。つまり、記憶がある限り新しい気持ちに切り替えることは難しいのだ。これをスイッチを入れ替えるみたいにコントロール出来る人間は尊敬に値する。彼はそう思うのだった。

 いずれにしてもその朝目覚めた彼は、何者にも変化してはいなかった。少なくとも変化していないように思われた。だが、実際にはそうではなかった。

 小さな変化というものは、誰しも気づかない。前日よりも十本多く髪の毛が抜けていようが、口の中に小さな出来物が生まれていようが、腕の内側が少しだけ赤くただれていようが、そういうことに気づくのはそれがいよいよ大きな存在感を示し始めるようんいなってからだ。ましてや生き物の体というものは毎日生まれ変わっているともいう。新陳代謝というやつだ。身体を構成しているすべての細胞が日々死んでは生まれ変わっているという。だからこそ皮膚が干からびてしまうこともなく、内蔵も急速に滅びることもなく、常に生命を維持出来ているのだそうだ。

 さて、では今朝目覚めたときの自分は昨日の自分と同じなのだろうか。そんなもの同じに決まっている、という答えが帰ってきそうだが、それは思い込みに過ぎないのではないかな。

 ある哲学者は「人は毎晩死んで、翌朝生まれるのだ」と言った。そう考えることによって前向きに生きていくことができるのだということなのだろうが、一方では形而上だけのことではなく、形而下でも事実なのではないか。

 話は戻るが、暮郡沙武がある朝目覚めたとき、実はほんの少しだけ身体は変化していた。本人さえ気づかぬ程度に。そしてその翌朝も少しだけ変化していた。その翌朝も、またその翌朝も。毎朝少しづつ変化していく。それは彼だけに起きた出来事ではなかったかもしれない。世界中の人間が同じように毎朝少しづつ変化しているのかもしれない。

 ある者はそれを老齢といい、ある者は病だといい、ある者は進化だという。毎日毎日変化し続けて、何年も何十年も小さな変身を重ねていき、百年も経たずしてその変身は止まってしまう。幸か不幸か、最終形に至る前に機能が停止してしまうからだ。だが、暮郡沙武は機能停止より先に最終形に到達出来る数少ない人間の一人かもしれない。そのとき彼は、忌まわしいたくさんの足を持った毒虫に到達するのだ。

                                   了


                                                              参考:フランツ・カフカ「変身」~青空文庫


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第八百六十五話 夢想酒堂 [文学譚]

 昼間のオフィス街は、夜になると別の顔を持っていたりする。会社から地下鉄駅まで毎日歩いている道を、普段はひたすら前ばかり見て歩く。だがこの日は昼間の長すぎる会議に辟易して、なんとなく脱力した気分でぶらぶらと歩いていた。たかだか五分足らずの道のりではあるが、意義を見たり左を見たりして歩いてみると、こんなところにこんな店があったっけ、あれ、いつもランチする店が夜はこんな雰囲気に変わるんだと、意外な発見があった。

 ほどなく駅だというあたりに古いビルが建っているのは知っていたが、その古めかしい入口のところに昼間はなかった立て看板が出されていた。

「地階 夢想酒堂」

 回顧風のレタリング文字でそう書かれた看板に心を捉えられてしまった。急ぐ家路でもない。ちょっとだけ一杯ひっかけて帰るか。古びた入口入ってすぐ左にある大理石の階段をひとり降りていった。

 店は看板の雰囲気と同じく懐古的な、昭和を思わせるしつらえになっていて、入口に貼られた昭和初期のポスターの中で微笑んでいる着物姿の美女の横には「赤玉ワイン」とか「えびすめビール」とか書かれているのだった。店内はだだっ広いフロアに木のテーブルがぽつりぽつりと並べられていて、まだ六時前だというのに会社員風の男たちが何人かビールジョッキを楽しんでいた。

 ほぅ、なんだかいい感じだな。これはくつろげそうだ。そう思いながら空いている席に陣取ると、すぐに黒いチョッキを着たウェイターがメニューを持って来た。私はろくにメニューも見ずに、とりあえずビールを注文し、それを待っている間にゆっくりとメニューに眼をやった。

 串カツ、冷奴、枝豆、おひたし……いわゆる居酒屋によくある一品が並んでいるのだが、驚いたのはその値段だ。信じられずに何度も見直し、どこかに本当の価格が記されているのではないかと探したがそんなものはない。一品の下に記載されている価格は、一円、二円、一円、五円、高いものでも七円とか八円なのだ。どういうことなのだ。価格まで回顧的なのか。それともこの店だけとんでもないデフレになっているのだろうか。目が飛び出るほど高いのならば、慌ててビール一杯を飲み干して店を飛び出すところだが、こんな値段では逃げる必要もない。逆に商売が成り立っているのだろうかと店側の心配をしてしまう。私はビールを運んできたウエイターに、串カツ盛り合わせとポテトサラダを注文して、静かにジョッキに口をつけた。ああ旨い。これで一円だなんて、腰を抜かしてしまうな。

 いつになく一杯のビールで気持ちよくなり、二杯目を注文した頃には、店内はほぼ全席が客で埋められていて、賑やかな声が空間に反響していた。後ろの団体が早くもお開きにするようで、幹事が会費を募っていた。

「ひとり五円。飲まなかった人は三円」

 いったいいつの時代の話なのだ。今更ながらに驚いてしまった。こんな素晴らしい店が会社の近くにあったなんて。今度、いや、明日の晩は誰かを誘ってみよう。

 私はビール三杯ですっかり出来上がってしまい、総額六円を支払って店を出た。振り向くと、昼間には見慣れていた古いビルにオーラのような気配が感じられ、まったく違う建物のようにすら思えた。ほんとうにいい店を発見したものだ。

 翌朝。地下鉄の階段を上がり、いつもの道に出る。昨晩振り返ったビルは、いつもと同じように目の前に立っており、明治か昭和初期かわからないが、そのような存在感を示している。だが、通りがかりに入口を覗き込んでみると、昨夜降りていったはずの地下に続く階段が見えない。はておかしいなと思って一歩入口に踏み込んで中を調べるがやはりない。どういうことなのか。夜だけ地下への階段が現れるのか? そんな馬鹿な。階段があった場所は大理石の壁で塞がれており、そう簡単に階段に変化するとは思えなかった。目線の高さから足元へと視線を移していく。と、床に接するところに径五センチほどの穴を見つけた。漫画などで鼠が逃げ込むような穴だ。腰をかがめて暗くて見えない穴の中に眼を凝らしてみると、手前のあたりしか見えないのだが、どうやら下に向かう階段状の通路になっているように思えるのだった。

                                   了


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第八百六十四話 食肉疑惑 [文学譚]

 久しぶりに出張で海外にやって来たのだが、昨今の国際情勢を見ていると何かと不安なことがいっぱいだ。とりわけ今回はとあるアジアの国で、ここでは反日問題もさることながら、食べ物に関してとても心配なのだ。以前、挽肉の中にダンボール紙が混入していたということがあったのだが、直近でも食肉詐称をした業者が摘発されたというニュースが流れたという国なのだ。何はともあれ、眠ることと食べることだけは安心して臨みたいのだが……。

 到着したその日、現地コーディネーターのクワンに連れて行かれた食堂は、彼がよく使うという清潔で明るい店だった。クワンにはあらかじめ食肉疑惑の話を振っておいたので、まさかそのような店に連れてくるとは思えないが、クワン自身が妙な口ひげを伸ばした怪し気な人物であるのだから、どこまで信用していいものやら。

 牛肉が食べたいというリクエストによって最初に運ばれてきたのは、どう見ても牛肉には見えない代物だった。ステーキか焼肉のようなものを想像していたのだが、深皿に入っているのは、何か黒々とした塊を煮つけたもののようだった。クワンが美味いよと薦めるので、こわごわ口に入れてみるとゴムのように固い。固くて噛み切れない上になんともケミカルな味なのだ。

「な、なんですかこれは。ほんとうに牛肉なのですか?」

「もちろん、これ、牛の肉ね。美味いでしょ?」

 現地人は日本語が上手だが妙な訛りがあるのが特長だ。

「とても美味いとはいえないな。これはモツか何かなのですか?」

「モツ? ああ、内臓ね。違う違う。これは本体」

「本体? いったいどんな牛なんだ?」

「ええーっと。漢字で書くと……そう、海の牛。海牛と書くんだね」

「海牛? 海牛……それってウミウシじゃぁないか」

「そうそう、そう呼ぶね。あなたの国の昭和天皇も食されたことがあるっていう珍味ね」

「おいおい、それって、牛じゃねえぞ」

 私は箸を置いて次の料理を待った。ふた皿目もすぐに運ばれてきた。またしても牛肉には見えない。皿の上にフランス料理のような塩梅でソースがかけられているのは鮑か何か、そのようなものに見えた。こわごわ口に入れてみると不味くはないが、これは……。

「これは貝じゃないのか?」

「貝、そうとも言うのかな。これはカタツムリですね」

「ちょっとぉ、私は牛肉って言ったんだけど」

「これ、牛ですよ。ほら、こう書くでしょ?」

 クワンは懐から取り出したボールペンでペーパーナプキンに”蝸牛”と書いた。

「あのさ、もういいから、詐称じゃないものを頼んでくれるかな?」

「詐称? この店は何も詐称していないね。海牛も、蝸牛も、牛って書いてあるあるね」

「わかったわかった。わかったから牛以外の、豚とか……」

「へへ、豚ね、あるあるよ」

「ちょ、ちょっと待った。どうせまた海豚とか河豚とかが出てくるんでしょ? そんなのもういいわ。肉じゃないのを頼んでもらえますか?」

「へへ、わかりやした」

 クワンは厨房に行って新たな注文をして戻ってきた。

「今度はダイジョブ。間違いないね」

 運ばれてきたのはハンバーグらしき料理。なんでアジアの店でハンバーグなんだと思いながらナイフを入れる。固い。切れない。それになんだかばさばさしている。

「おいおい、これ、なんか固い毛みたいのが生えてるぞ? ウニか?」

「ウニ? あっはっは。面白いこというね。違うよ、それはタワシ」

「タワシ? そ、そんなものが食えるか?」

 不機嫌になった私をなだめるようにクワンが言う。

「これ、この店の名物よ。ほかでは食べれませんよ。そ、そんな怒んないでくださいあるよ」

「詐称はダメだっていったでしょう」

「詐称なんてしてないよ、この店は。これはタワシハンバーグって言うよ。次はダンボール焼きが来るよ」

「ダ、ダンボール焼き? いらないよ、そんなもの」

「気にいらないか? じゃぁ、赤土はどう? 白壁っていうのも名物ね。そうそう泥沼もあるよ、あ、肉がいい? 猿とか犬とか……」

 私はしゃべり続けるクワンを残して店を出た。

                                   了


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第八百六十三話 666は獣の番号 [怪奇譚]

 聞いたことがあるだろうか。これは日本では一般的ではない話ではあるが、西洋すなわちカトリック教会に属する者には有名な話だ。新約聖書にあるヨハネの黙示録によると、666という数字が獣の数字であると書かれているのだ。だが、その意味については、神の子の代理とするラテン語説や、ローマの暴君ネロを指すとする説、凶兆を示すとするエホバの証人説など、はっきりはしていない。だがこの三つの数字を有名にしたのは近年のホラー映画オーメンで、この映画の主人公である少年にはこの3つの数字が刻印されていて、それこそが悪魔の子供である証なのだという話になっている。

 そう、666とはこの世で最も不吉な悪魔の数字なのだ。本来キリスト教国ではない日本において、この数字にまつわる不吉な暗示を信じるモノは少ないと思うけれども、もし自分の身体のどこかに666と読める痣を発見したとしたらどうだろう。それでもそれが単なる痣であると笑って済ますことができるのだろうか。私は笑うことができなかった。

 得てしてこういう証は目につくところにあるものではない。脇の下だとか足の裏だとか、人目につきにくいところに刻印されて生まれてくる。私の場合は頭皮だった。なぜ両親がこれを見つけなかったのか、あるいは知っていたけれどもただの痣だと思っていたのか、それは両親亡きいまではわからない。私は青年の頃パンクに傾倒してモヒカン刈にした時に額の後ろに何か黒い印があることに気がついた。普通は髪に隠れて見えないところなのだが、頭頂に逆立つモヒカンヘアーの付け根のあたりに6の数字が3つくっきりとあったのだ。鏡の前でもう一枚手鏡を操りながら何度も確認して、ようやくそれが3つの数字であることを私は確認した。

 頭の中に三つの6という数字がある。だからどうだというのだ。実はそれはわからない。様々な文献を探しても、だからどうなるとは書かれていないのだ。ただ、あの映画の通りであるとするなら、私は悪魔の子であり、いつか悪魔としての自分に目覚めるのではないか。あるいは、獣の数字というからには、ある年齢に達した約束の日に獣に変身するのではないか……たとえば狼人間のように……こうした妄想ばかりが沸いてくるのだ。

 約束の日とは? それすらわからないが、少なくとも6が三つ並ぶタイミングこそがその比ではないかと、毎年六月六日の六時になる瞬間を凍りついて過ごしてきた。そして今日がその日なのだ。

 六月六日午前六時。私は昨夜から眠ることも出来ずにこのタイミングを待ち続けた。一時、二時、三時……五時を回るともはや時間の経過が長いのだか短いのだか、寝不足で朦朧とした時間が過ぎていく。昨年までは何ごとも起きなかったのだが、今年はどうなんだ。

 時計の針が五時五十九分を過ぎ、三十秒前、二十秒前、五秒前……ついにその時刻になったその時。今年こそは全身から血の気が引く感覚に襲われた。遂に約束の日に遭遇してしまったのか。いまやモヒカンではなく、通常の髪型である私の頭部に緊張が集まる。私は獣に返信するのだろうか。よろめきながら洗面の鏡の前に移動した。震えながら鏡の前に立つ。そこには青白い私の顔が見えている。狼に変身しつつある私の顔は…………なにも変わっていない。だが、頭頂部の髪がさわさわと立ち上がり、あたかもモヒカンのように逆だって立ち上がっていた。恐ろしい三つの数字は、どうやらモヒカンを促す数字であったらしい。

                                             了


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第八百六十二話 株式ゲーム [日常譚]

 上がったり下がったりと、このところ何かと騒がしい株式とかいうやつ。数字にはめっぽう弱い私は、今まで株とかファイナンスとか、そういう面倒くさいものには手を出すまいと思い続けていたのだが。

 先月あたり、株を買うならいま! などと世間で言われていた時にすらまだその気にならなかったのに、数日前、株が大暴落! というニュースを聞いて遂にその気になった。私はとても天邪鬼なのだ。

 とはいえ、株のかの字も知らない私が、なんの知識もなしに株式をはじめられるわけがない。そんなときに知人からスマホのアプリで勉強できるよと教えられ、ひとまずそういうのをやってみることにした。いわゆるヴァーチャル株式ゲームっていうやつだ。

「ザ・株ファイナンス」という名のゲームアプリはよくできていて、本物の取引さながらの体験ができるようだ。出来高だの新安値だの、最初はわけのわからない用語に辟易していたが、わからないなりに、適当に見つけた銘柄っていう奴を数株買ってみたり、売ってみたりして遊びはじめた。もちろんゲーム上でヴァーチャルにだ。何回か売り買いを重ねてみると、案外シンプルなんだなとわかってきた。ヴァーチャルだから元手もいらないし、ゲーム上でも信用取引という現ナマのいらないシステムを使っている格好だ。要は気に入った銘柄を指定して、必要な数だけ買う。ある程度値が上がったら売る。その繰り返しで元手はどんどん増えていく。これが逆に回りだしたらたいへんなことになるわけだ、現実では。

「あれ、なにしてるの? それ、もしかしたら株?」

 会社から帰ってきた旦那がスマホ相手に格闘しているわたしの手元を覗き込んできた。

「そうよ、ちょっと株の勉強でもして、儲けたいって思って」

「いいねぇ。で、もうさっそく?」

「ううん。これはね、ゲーム。ヴァーチャルなの」

「そんなゲームがあるのか、ふぅん」

 旦那は私からスマホを取り上げて本格的にさわりはじめた。これがこうで、ほぉ、なるほど。そういうことか。旦那はすこしだけれども株をやったことがあるそうで、基本的なことはわかっているみたい。

「おい、これ、儲かってるじゃないか。すごいぞ」

「そうでしょ。この一週間ほどで、ずいぶん増えたわ」

「随分って、お前これ……」

「最初はね、下手こいてさ、何十万どころか百万単位でマイナスになったりしてたのよ」

 旦那の顔色が変わる。

「でもさ、そこで勉強できたから、いまやほら、もはや億万長者でしょ!」

 わたしはけたけた笑いながらスマホの数字を指さした。

「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……おく……」

 旦那が数字を数える。

「でもさ、ヴァーチャルだからね。これがリアルだったらなぁ……」

 旦那が手をふるわせながらスマホを返してきた。

「お前、なに言ってるんだ? これって、これって……」

「そうよ、ヴァーチャルゲームだからリアルじゃないの」

「ここ、見てみ……」

 旦那が指差すスマホの画面を見た。virtual⇔realと書いてあるところ。

「お前な、これって……ヴァーチャルじゃなく、リアルの設定になってるぞ」

 このスマホゲームは、ヴァーチャルシミュレーションもできるけれども、本当の取引もネットを通じてできてしまうアプリらしい。私はそれを知らずにリアル設定のまま使っていたのだ。もし、これがマイナスのまま今日まで来てしまっていたら……急に私の手までふるえて来た。

「早く、早くそれを!」

「早く何を?」

「下がる前に売ってしまえ!」

 画面上のレイトを見ると、掴んでいる銘柄が下がりはじめているようだった。

「ど、どうしたら……どうやったらいいの?」

「知るか! それはお前が勉強してきたんだろう?」

 私はウロが来てしまって、頭の中は真っ白。この一週間で身につけたアプリの使い方がすっ飛んでしまっていた。画面上の数字はみるみる下落しはじめているのに。

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第八百六十一話 侵略者 [文学譚]

 引越しをして二日目の夜だった。リビングダイニングの隣にある寝室で眠っていると、静まり返った部屋の片隅でなにかの気配を感じた。風に揺れて窓に擦れる樹木の葉? いやいやここは六階。窓外に樹木などない。それに気配は窓の方ではなく、壁側だ。隣室の住人が起きているのかしら? それにしてもなんだか嫌な感じがした。

 朝になると昨夜のことは忘れていたが、再び日が暮れてベッドに入る段になって思い出した。また今夜もがさごそされたのではかなわないな。早く眠りについてしまうにこしたことはないと眼をつぶったが、深夜になってまた気配に起こされてしまった。今度はかさこそいう音ではなく、何か話し声のようだった。だがくぐもった上に小さな超えなので、誰が何を言っているのかはよくわからなかった。

 翌朝、出勤時にマンションの管理人と出くわしたので、隣の住人について訊ねてみた。すると、意外なことに俺の部屋の隣は空家になっているという。では、あの壁の向こうから聞こえてくる声は? 気持ち悪くなったが、そんなことを管理人に言えば変人扱いされるだけだろうから、そうなんですかと答えてマンションを後にした。

 それから毎晩、寝室の隣の壁から聞こえてくる物音が消えることはなく、消えるどころか一層明確な声として聞こえるようになった。

 はじめは「……が……したので……しようか……」という感じでところどころしかわからなかったのだが、日を重ねるごとに、声が明確になってきたのか、あるいはわたしの耳が冴えてきたからかわからないが、壁から聞こえる声がわかるようになった。

「なんだか感づいてるようだぜ、どうする?」

「どうするも何も、まだ何も起きちゃいないぜ。心配するな」

 ひとりではない。ふたり、いやそれ以上の人物がこの家の中のことを話している。侵入者だ。泥棒だろうか。いや、泥棒なら毎晩やって来はしない。まるでこの家に住んでいるような気配だ。だが、隣は空家だというし。もしかして誰かが勝手に隣の空き室に侵入して住んでいるのでは? まさか。こんなオートロックもあるような、管理のしっかりしたマンションでそんなことがあるわけがない。映画でみたことのあるような幽霊である可能性も考えてみたが、現実主義者の私にとってそれは有り得ないことだった。仮に幽霊だとして、話し声以外には不可解なことは起きていないし、何か悪さをされているわけでもない。ポルターガイスト現象もない。やっぱりこれは、物理現象に違いない。

 数日のうちに、気配は話し声だけではなくなった。まるで隣室で誰かが暮らしているような生活音と共に声が聞こえるのだ。食器が触れ合う音、食事の気配、掃除機の音。その合間に話し声がする。

「ねぇ、とうとう居着いてしまったんじゃないの?」

「そうだなぁ、管理人に相談するか?」

「そうは言っても信じてもらえるかしら?」

 まるで夫婦のやり取りのような会話。そこに子どもらしい声も挟み込まれる。

「ねぇパパ。今度の休みは遊べる?」

「あ、ああ、たぶんな」

「たぶんだなんて……いつもそう」

「あのな、いまはちょっと忙しいんだ。この問題が解決したらな」

「わかった……」

 なにか問題を抱えているのか? しかし、これはどういうことなのだ。居着いてしまったとは、誰が、どこに? 壁の向こうの不可解な声をどう理解したらいいのだろう。そういえば向こうは家族がいる様子だが、こっちはひとりだ。こっちの声も向こうに聞こえるのだろうか。疑問に思ったわたしは、声を出してみた。

「ああ、眠い。ほんっとうにきょうは疲れた!」

 壁の向こうの気配が消える。まるで耳を澄ませているように。しばらくすると気配が戻った。

「おい、聞こえたか? なんだ、今のは?」

「ええ、気味が悪い。やっぱり人がいるのよ。住み着いてるんだわ」

「住み着いてるってどこに? 壁の中にか?」

「そうよ、壁よ。壁の中に違いないわ」

「しかし、この壁、そんなに分厚くないぜ」

 俺は思わず口をはさんだ。

「おい! 壁の中はそっちだろうが!」

「……」

 向こうで誰かが息を呑むのがわかった。

「し、侵略者だ」

 そう言ったきり、気配が消えた。それからしばらくは声も聞こえなくなり、もう消えたのかなと思ったが、そうではなかった。ときどき音や声が聞こえてくるのだ。だが、向こうは静かに気配を感じさせないように生活しているといった感じがした。

「別に害があるわけじゃなし、しばらく様子をみよう。そのうち消えるかもしれないからな」

 まるで私が消え去るべき者と思われている気がして嫌な気持ちになったが、そのとおりだ、こっちもそうしよう、別に害があるわけでもなし、様子をみようと考え直した。

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第八百六十話 屋根裏の卵 [文学譚]

 


 数日前からおかしな気配がしていた。古い戸建だからちょっとした風で窓が揺れたり、柱が軋んだりするのはわかっているが、そうした自然現象ではない何かが感じられた。さほど広くもない家の中でひとりで暮らしていると、とりわけ深夜の物音には敏感になる。

 かさこそかさこそ。

 鼠だろうか。いやだなぁ。家の中に鼠なんて。しかしここ何年も鼠など見かけたこともないのに。こうした深夜の物音ほど不気味なものはない。たとえ相手が小動物だと想像できても、自分以外の見知らぬ生き物が同じ屋根の下にいるのかもしれないと想像することは恐怖ですらある。

 かさこそかさこそ。

 耳を澄ませて気配の出処を探ってみると、どうやら頭の上であるらしい。

 おおい、誰? 何してるの?

 人間じゃないなら言っても通じないのはわかっているけれど、声を出さずにはいられない。しかし声を出すと気配が消えることを思うと、向こうも何かしらこちらを意識しているのだろう。もしや人間? そう考えることは一層不気味であるので、考えないようにした。「おおい」と声をかけて「なんだ?」とか返事が返ってきたら恐ろしすぎる。

 翌日、勇気を出してテーブルの上に椅子を重ねて屋根裏を覗いてみることにした。この家に住むようになって、屋根裏を覗くのははじめてだ。アンテナ工事を頼んだときに業者が屋根裏に配線を行ったので、どこから屋根裏を覗けるのかはわかっていた。気配を感じたあたりに最も近いところに狙いを定めて、懐中電灯を手に恐る恐る天上板をずらして屋根裏を覗き込む。

 屋根裏は思ったほど気持ち悪くはなかった。懐中電灯が照らし出すのは誇りが積もったただの空間。気味悪い蜘蛛の巣も、恐ろしげな人形も、悪魔の古文書もないようだった。戸建を構成する建材と断熱材とアンテナ線以外にはなにも怪しいモノはないように思えたが、ぐるりと見渡した懐中電灯の光の中に、ひとつだけ異物を発見した。つるりとした白いなにか。もう少しで手が届きそうなあたりにぽつりと存在しているそれは、丸く白いピンポン玉のように見えた。だれかがピンポン玉を置いたのだろうか。眼を凝らして白い玉を観察すると、ピンポン玉にしては少しこぶりな感じ。

 卵? そうだ、あれは卵だ。小動物の卵だ。鼠の卵? 一瞬そう思ったが、よく考えると哺乳類で卵を産むのはカモノハシだけだ。鼠が卵を産むはずがない。ではなんだ?   考えつくのは鳥しかいない。こんなところに鰐やコモドドラゴンなんて爬虫類が迷い込むわけがないからだ。鳩? それがいちばんありそうな話だが、この屋根裏に鳩が入り込むような出入り口は見当たらない。

 丸い卵を取り除くことを考えてみたが、ものの本で鳥類の卵は鳥獣保護法という法律で守られているという記事を読んだことがある。たとえ自分の家中であっても、生まれた卵を撤去すれば法律に違反することになるのだ。

 鳥という具体的な存在を確認できただけでもよかったと思い、しばらく様子をみることにした。それに、屋根裏にあった気配も、そのうち消えてしまったので、忘れてしまっていた。

 ひと月ほど過ぎたある日、急に卵のことを思い出し、その後孵化したのなら、掃除をしておかなければと思って再び屋根裏を覗き込んだ。天上板をずらして屋根裏に頭をつっこみ、懐中電灯で件の場所を照らすと、もう孵化して消えているはずの卵が、依然あった。しかも大きくなっていた。前に見たときにはピンポン玉よりも少し小さいと思っていたのだが、改めて見えたものは、野球のボールよりも少し小さいくらいに成長していた。

 卵って成長するものなんだたっけ? 不思議に思ったが、事実そうなっているのだから仕方がない。あるいは前のとは違う卵が置かれているのか? 可能性を考えてみたが、それは考えにくいと打ち消した。

 天上板を閉じてから、「成長する卵」をネットで検索してみた。生物は卵の中で成長していくという内容のものはあったが、卵そのものが大きく成長する話はどこを探しても見当たらない。うーむと頭をひねったが、それ以上調べるすべも、相談する相手も考えつかなかった。

 気にはなったが、二、三日するとまた卵のことは頭から消えていたが、ときどきは屋根裏の卵を確認するようになった。ひと月後、卵はさらに少し大きくなっているような気がしたが、計測したわけではないのでそれは定かではなかった。それに鳥の卵ならいくらなんでももう孵化しているはずだとも考えた。死産? いや、卵そのものが多少なりとも変化しているのだから生きているに違いない。

 半年後、思い出して屋根裏を見ると、卵は依然そこにあって、また少しだけ大きくなっているような気がした。それに、この不可解な卵の存在を、わたしは意識的に忘れようと思った。なぜなら、これはもはや自然界の話ではないような気がしたから。だからといって、なにか困ったことが起きているわけでもなく、できればこのままそっとしておこうと思ったのだ。

 その後、屋根裏を覗いたことがないまま三年ほどが過ぎたが、いまのところ何も悪いことは起きていない。屋根裏を見たい気もするが、もし、サッカーボール程に成長してたらと思うと、気が進まない。できれば自然消滅してくれていることを願うばかりだ。

                                      了


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第八百五十九話 忘れ物 [文学譚]

 住居は手狭で押入れも数箇所しかないと思っているのに、押し入れの奥には案外いろいろなモノがしまい込まれているものだ。

 季節が移ろって衣替えなどをする度にそう思う。人間の記憶なんて曖昧なもので、たかだか一年前のことなのに、去年の夏に着ていた衣類や、流行に乗せられて買ってしまった日用品なんかが、押し入れの奥深く押し込められたダンボール箱の中から出てきて驚くことがある。

 あ、これこれ。探していたんだ。こんなところにしまいこんでいたんだな。

 これくらいのことは毎回あることだが、自分で驚いてしまうのは、こんなもの着てたっけ? とか、これほんとうに自分が買ったものなのだろうかなどと、まったく記憶にないような衣類や道具が出てくることがあるってことだ。そういう意味では、衣替えは宝探しのようで楽しくもあるのだが。

 快適な春は短く、季節は俄かに初夏の様相になってきたので、六月になるのを待たずに押入れの引き戸を全開にした。押入れ収納だけでは間に合わず、奥の方にはダンボール箱に入れた衣類などがあって、季節物の入れ替えはとても面倒くさい。半日がかりで春夏モノを引っ張り出し、さらに半日がかりで冬物をまた箱の中に閉じ込めるわけだが、その合間に発掘される品物が、一層時間を引き伸ばす。

 どの箱に何が入っているのかを箱の表にきちんと記載しておけばいいなと毎回思うのだが、なぜかそうしていない。一つ目の箱を開けた時点で、すでに発見があった。これは整理されたないままの写真類が突っ込まれていた。整理するためにはアルバムを買ってくる必要があり、じゃぁ、今度買ってくるまではこのままにしておこうということでまた箱の中にしまい込まれる。どんな写真があったっけと調べると、上の方には八年前に亡くなった母の想い出。あんなに悲しみにくれていたのに、今となっては墓参りのときくらいにしか母のことを思い出さない自分に驚いた。在りし日の母と並んだ自分の姿は若々しく、これはもう十年も前のことだったのかと感慨に耽る。あと何年でわたしも母の年齢に到達するのだろう。しっかりしなさいよ! 不意に母の声が聞こえたような気がした。

 同じダンボール箱の底からは、小学校の卒業文集が出てきた。懐かしく思い頁をめくる。真ん中あたりに自分の名前と「夢」と書かれたタイトルを発見する。はて、こんなことを書いたのだっけ? 記憶から消えてしまっている幼い頃の作文を目で追う。

 わたしは世界の子供たちに夢をわけあうのが夢です。

 そんな書き出しではじまるその作文には、童話作家になりたいというわたしの夢が記されていた。そうだった。わたしは童話作家になりたいと思っていたことがあったんだ。今のわたしにはかけらほどもないこの無謀な夢。だけど、どうして諦めたのだろう。小学生の夢などたわいのないものかもしれないが、世の中には小さいときの夢を遂に実現したという人はたくさんいる。覚えてすらいない幼いわたしの夢は、所詮その程度のものだったのだろう。でも。そうだ。わたしはなにか書くという仕事がしたかったのだった。それなのに普通に会社に入って、事務をして。いつの間にか歳を重ねてしまって。今からでも遅くはないかもしれない。忘れていた夢を、わたしは発掘したようだ。

 次の箱を開けると、衣類のあいだから袋に入った金髪のウィッグが現れた。なんだこれは? そうそう、パーティで使ったやつ。友人と騒いだクリスマスの夜。あれはもう十何年前だったか。うちにみんなが集まって、深夜まで騒いだんだっけ。一度だけ? いやいや二、三年はそういうことをしたなぁ。引越しをしてからあの頃の友人たちとは縁遠くなってしまって、いまでは年賀状のやり取りをしているのも数人だけ。みんなどうしているのだろう。あんなにたくさん集まってくれたのに、わたしは実は交際下手だった。今人なっては親友と呼べる友は一人もいない。わたしは友情というものを忘れてしまっていたようだ。

 最後の箱から出てきたのは、ガラス製のボールに閉じ込められた小さな街に白い雪が降り注ぐスノーボール。出会った頃のわたしたちの記念碑。あの人がはじめてくれた贈り物は、こんなに愛らしいものだったんだ。結婚して二十年、お互いに苦労を支えああって、これからというときにあの人は急逝した。それが一年前。思いがけない病だった。家もお金も残してくれたが、わたしはなにもかも失ったような気持ちになった。もう生きていく希望も失った。悲しみを誘発する思い出の品物は全てこの箱に詰め込んで押し入れの奥に押し込んだ。あれかたもう一年もたってしまったのか。いや、まだ一年しか過ぎていないんだわ。あの頃はあんなに泣いたのに、不思議なことに今はもう涙は出なかった。ガラス玉を逆さにすると白い雪が舞い上がり、元に戻すと夜の街に雪がちらほらと降り注ぐ。中年になった姿ではなく、若々しいあなたが思い出される。雪が積もる街の中に立っている。わたしがそこに駆け寄ってハグをする。服の上からお互いの身体を感じながら未来を予感した日が甦る。

 気がつくと部屋の中に一人。窓から差し込む光は午後のものに変わっていて、朝から何もできていない自分がいた。ガラス玉を手に持ったまま床に座り込んでいるわたしは、スノーボールを光の方にかざしてみる。夜の街が俄かに明るくなって雪がキラキラと輝いて見える。

 希望。

 なんとなく呟いてみたが、だからといって何がかわるわけでもなかった。わたしはやっぱり散らかった部屋の中でひとりっきりだった。

                                    了


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第八百五十八話 鍵 [文学譚]

 

 パート仕事が終わった帰り道、もうすぐ家に着くというあたりでふと鍵がないことに気がついた。マンションのエントランスでバッグをごそごそ探すのは格好悪いので、いつも少し手前から鍵を用意する習慣だ。

 いつも鍵を入れているバッグのポケットに手を突っ込んでみて、そこが空であることに気づいたのだ。ポケットからこぼれたのかなと思って立ち止まり、バッグの隅々を探したがない。おかしいな、今朝、家を出るときはどうだっただろう。思い返してみると、そうだ、今朝はわたしの方が先に家を出た。ゴミ出しとかあったから、先に行くわよと夫に声をかけて出たのだった。出がけに自分で鍵をかけなかった場合、鍵を持ち忘れていることはこれまでもよくあった。だけど、今朝はそうではない。確かに鍵を掴んだ手の感触を覚えている。おまけにまだ夫がいる家の玄関に鍵をかけそうになったことも。

 ポケットに入れたかなぁ。腰にぴったりフィットしているジーンズのポケットを探るが、そんなところに入っているはずもない。困ったなぁ。家に入れない。夫が帰るのを待つしかないか。でも、出来ればこの失態を夫に知られたくない。先週も夫と口喧嘩したばかりだからだ。ビールが切れているので買っておくように言われていたのを、つい忘れてしまっていたのだ。

「俺は仕事のあとのビールを楽しみにしているのを知ってるくせに、忘れただなんて。お前は呑気でいいや」

 やんわり嫌味をいうので、つい「それなら自分で買ってくればいいのよ」と言ってしまった。夫は愚図なわたしにイラつくことがよくあるらしい。わたしは夫のそれに対してイラつく。

 鍵、どこにやったのかなぁ。もう一度バッグの中をまさぐる。バッグの中には化粧ポーチや膨れた財布、携帯電話、iPod……そのほかにもさまざまなものがごちゃごちゃっと入っているので、小さなものはよく隠れてしまうのだ。でも、ない。どう探してもない。ポケットにもない。上着のポケットにもない。職場? 職場でバッグを開けるとしたら……トイレかお昼時か。でも、鍵に触れた記憶もないし。どこか通勤途中で落としてに違いない。わたしは腹をくくって夫に電話を入れた。残業などされたら、待ちきれないから。

「もしもし、あなた? あのね、鍵をなくしちゃったらしいの」

 どこで ? なんで? とつついてくる夫にどこで失くしたかわかるくらいなら電話なんてしないとこっちも少しキレ気味。

「とにかく無くしたんだから、しかたないでしょ? だから家に入れないの」

「鍵屋を呼ぶ?」

「それ、いくらかかると思ってるの?」

「そうだなぁ」

「あなたの帰りを待つから、早く帰って」

「わかった。しかしバカだなぁ。お前、これで二度目じゃないか? 鍵無くすの」

「言わないで。わたしはバカよ。だから、今回はきっと見つかるわ」

「見つかるって何が?」

「落とした鍵よ。前は出てこなかったけれど、今度はきっと出てくる」

「なんでそんなことがわかるんだい?」

「なんでって、前に落とした時に反省したの。ちゃんと名前書いとけばよかったって」

「名前を?」

「そう、鍵にね、ネームプレートのキーホルダーつけてね、住所と名前を書いてるの」

「……お前……」

「ね、だからきっと拾った人が……」

「バッカ! お前それって最低最悪だろ?」

「なによ、なにがよ」

「鍵に住所をつけるなんて」

「それがなにか?」

「通帳に印鑑をつけて落とすようなもんだろうが」

「え? ……そ、そぅお……?」

 そんなこと考えもしなかった。なんでも落し物に連絡先があれば誰だって届けてくれるものと思ってた。電話を切ってから、わたしはしばらくマンションの前にいた。こんなところで夫を待ってても仕方ないとは思いながら。しばらくしてロックがかかっているエントランスの扉が開いて人が出てきたのに乗じて中に入ることができた。エントランスホールで少し考えてから、部屋に行ってみることにした。中に入れないのはわかっているけれども。十階に上がるエレベーターがじれったい。七階、八階、九階。部屋の前に立って考えた。もし、玄関扉が開いたりなんかしたら……それは幸運? それとも不幸のはじまり? 扉のハンドルに手をかける。「バッカ!」と言う夫の顔が浮かぶ。

                                     了


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