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第七百一話 余震 [文学譚]

 十二月七日、海沿いのホテルで漁業組合の忘年会が開かれようとしていた。

ホテル従業員は会場設営で大わらわ。組合の幹事とスタッフたちは、宴会で披

露する余興のリハーサルに取り掛かっていた。六時開場にしているから、そろ

そろ気の早い人が現れはじめていて、設営スタッフの気持ちが焦る。

 私は余興のメインイベントとして歌を披露するために招待された、デビューした

ての演歌歌手だ。この街では最初で最後のステージがこの宴会場のスポットの

中なのだ。売れない新人歌手のステージ。ようやく地方で探し当てた数少ない舞

台。だがこうしたことの積み重ねこそが、華やかな未来に続くものだと信じている。

 午後五時十八分、リハーサルをしている最中に震度五弱の地震が来た。声出

しに集中していた私はその大きな揺れにまったく気づかなかった。マイクスタンド

が揺れているのは自分の声量のせいだと思っていた。安物の舞台の床張りはミ

シミシと揺れるものだからだ。

「地震だ!」

「津波が来るぞ」

「みんな、テーブルの下だ」

 客席で準備をしていたスタッフたちの声でようやく地震であることに気がつい

た。大きな揺れだった。昨年、この地域では大きな地震があった。その際に想

定外とされる規模の津波が押し寄せた。巨大な海水の塊は防波堤を大きく上

回り、町全体を飲み込み、このホテルは三階までが海とつながってしまった。

恐怖の思い出が染み付いた町。一面更地ばかりになっているこの町にサイ

ンが鳴り響く。

「避難勧告です。避難してください!」

 ホテルの館内放送に促され、全員がついこの間の記憶を思い出しながら、階

段を使って五階に避難した。廊下にまで人があふれる。すべての表情に、もう

何度この恐怖を味わったのだろうという異様な不安が浮かぶ。窓の外は暗闇。

かtsてすべてを流されてしまった町にアナウンスが響く。

「津波注意報! ただちに高台に避難してください」

 不安が渦巻く三十分が過ぎて、津波が到達した。幸い二十センチ足らずの波。

大きな被害は何もなかった。二時間ほどして避難勧告が解除されると、あちこ

ちで聞こえる安堵のため息が広がる。全員が気を取り直して階下の会場に戻り、

二時間遅れでステージがはじまった。

 私の歌は喜びに満ちた。すわ、また悲劇が起きるのかという恐怖感を乗り越

えた後には、世の中の全てのものが美しくなる。全てのものが愛おしくなる。人

間とはそういうふうに単純に出来ているらしい。私の歌は、荒々しい海を称え、

その海と闘う漁師の心を込めた歌なのに、たったいま海の脅威に晒されかけて

いた人々が耳を研ぎ澄ます。海と暮らす人間にとって、海は脅威であると同時

に愛すべき故郷なのだ。私の海洋賛歌は喝采を浴びて、他のどこよりも多くの

聴衆が涙を流してCDを買い求めた。

 この地での、この舞台は、私にとって記念すべき思い出のステージとなった。

                                 了


 

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