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第六百八十八話 青い鳥 [文学譚]

 青い鳥が逃げた。あんなに探して、国中を探して、ようやく見つけたのが家

の中だったという、あの青い鳥。メーテルリンクが描いた童話の千瑠と満兄

も、いろいろな国を探しまわって、結局自分の家にいた鳩が青い鳥だと知

ったというあの青い鳥。兄妹も、結局その青い鳥に逃げられてしまったという。

 私の家にいた青い鳥は、ほんとうの鳥ではない。心の中に描いた幻想み

たいな存在だ。私が自分で創り出したものだから、逃げるはずはないと信じ

ていた。だが、私の心の中からほんとうにいなくなってしまったのだ。

 まるでぽっかりと空洞ができてしまった心の中は誰にも見せることができな

けれども、その空虚さは次第に身の周りで具現化しつつある。たとえば、部

の片隅にある空っぽの鳥かご。鳥など飼った覚えもないのに。キッチンシン

は猫用の食器が汚れたまま。おいで、ご飯だよ。つい口に出してみるが、

もとりここはペット禁止のマンションなのだ。玄関には男の人の大きな靴。い

った誰が置き忘れていったのだろうか。

 父と母は、どうしているのだろう。田舎でしあわせに暮らしているのだろうか。

私の田舎は……どこだっけ。四国? 九州? 中国? そのどこの記憶もある

が、そのどこでもないような。両親は、いまどこにいるのだっけ? 私は健

忘症? いや、そうだ、もう田舎などない。両親はとっくに亡くなってしまったはず

だ。その証拠に、整理箪笥の上には遺影を飾っているではないか。 そういえば

妹はいつからいなくなったのだっけ。ずーっと、大人になってからも一緒に住んで

いた。三つ離れた妹は、私とは正反対の明るい性格の女の子。いつ出て行った

のか、この部屋には気配すらない。いや、待って。私には兄妹などいたんだっけ?

 そうだ、兄妹が欲しかった。一人っ子は寂しいと何度も母に言ったっけ。だけど

もうこの歳ではねえと母は笑っていた、中学三年の夏。従姉妹の真利江を妹の

ように思えたこともあった。だけど、あの子は大学のときに事故で亡くなってしま

った。

 私の部屋にはさまざまな思い出が抜け殻のように散らばっている。願えば叶う

自分に言い聞かせて夢を追い続けた若い頃。恋人も出来なくて、遂には婚期

も逸してしまって、それでもしあわせを願い続けて老いていた私。赤ん坊を産む

こともなく、子育ても知らず、生活のために安月給な仕事を定年まで続けるしか

なかった。これといって何をやり遂げることもなく、まもなく年金を受けるような歳

になって。

 もはやこの歳で、女で、ひとりで。手に職もなく、財産もなく。なんとかパート

で食いつないでいるけれども、しあわせなんて。

 まもなく年金が下りる歳になって、せめてそれが小さなしあわせと思いたかった

のに。なんとかいう名の大臣が宣言する。年金制度が来年から変わります。

 私にただひとつ残されたしあわせ、青い鳥が逃げていく。

                        了


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