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第六百八十一話 最後の一文 [文学譚]

 ……あのときだった。お前たちのことが、とても愛おしく思えたのは。そう、
この世でいちばん何が大切なのかを知った瞬間だった。しかしまだたっぷりと
時間があると思っていたのだ。

 僕はしっかりと鉛筆を握りしめるようにして書き続けた。止まらない。僕の中
から溢れ出すように湧いてくる言葉たちは、とどまることを知らず、炭素の粒
が次々と白い紙の上に刻み込まれていく。紙はすでに二百枚近くが小さな机
の上に重ねられていった。
 もはや時間の感覚などない。いったい最後に目覚めたのはいつだったのか、
飯を食ったのはどのくらい前だったのか、なぜ喉が乾かないのか、トイレには
行かなくて大丈夫なのか。そんな瑣末な事柄は一切脳裏にうかばないほど、
夢中で書き続けている。
「おい、お前、まだなのか?」
「いったい、いつ書き終わるんだ?」
 男たちが思い出したように声をかけてくるが、そんなことは知るものか。あん
たらが書けと言うから、書きはじめたんだ。勝手なことを言うんじゃない。
 何日か前だったと思う。
「心を清らかにして償いなさい。そうすれば、あなたのすべての罪は贖われ、
あなたが行くところでは、安らかで幸せに暮らすことができるでしょう」
 黒い服を着た男が呪文のような言葉を並べてから、このような言葉で締めく
くった後に、制服を着た別の男が言ったのだ。
「何か書き遺すことはないですか?」
 黙っていると、ご家族に何か書き遺しなさいと、紙と鉛筆を渡してきたのだ。
 僕はほんの少しだけ考えた後、鉛筆を手に取り、白い紙に向かった。にわか
に言葉が溢れはじめる。何故こんな。どうして今まで。そう思いつつも、細かい
文字の連なりはあっという間に一枚目の紙を埋め尽くした。紙をくれた男に目
で合図をすると、男は黙ってもう一人の男の方を見たが、その男が軽く頷くの
を確認してから、新しい紙を与えてくれた。
 二枚、三枚、十枚、五十枚、百枚……いったいいつ終わるとも知れぬこの遺
書を、僕が書き終えるまで、どうやら待っていてくれるようだ。これはこの国に
おいて刑の執行を直前にした死刑囚に許された権利なのだ。
                                                           了

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