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第六百九十九話 イブ [文学譚]

 マッチを一本擦った。薄暗い部屋にぽっと一瞬明るさが灯り、顔の周りが暖
かくなる。そういえばこんな素朴な火を見るのはどのくらいぶりなのだろう。
六歳の誕生日に、おばあちゃんがこんな風にマッチを擦ってろうそくに火を
灯してくれた。小さな炎の向こうにおばあちゃんの微笑みがぽっと灯って、
何にも替え難い贈り物として記憶の中に刻まれている。そのおばあちゃんも
いまは空の上。
 寂しくなんてない。おばあちゃんの愛情がいまでも胸の中で生きているから。
ふと窓の外に目をやると、小さな星がこぼれるのが目にうつる。
「流れ星は誰かの命が消えようとしているってことよ」
 おばあちゃんの言葉が甦る。あれは誰の流れ星なのだろう。どこかで最後の
夜を終えようとしている人がいるのだろうか。その人は一人ぼっちなのだろ
うか。家族に囲まれているのだろうか。みんなに囲まれて微笑みながら最後
の時間を過ごせていたらいいな、そう思いながら燃え尽きて行く炎をじっと
見つめる。この火が消える前に私は。
 炎は軸の先から黒い背骨を作り上げながら指先に迫っている。すべてが灰
に変わる前に机の上のろうそくに炎を移す。消えかけた炎がろうそくの白い
軸に乗り移り、再び明るさを取り戻す。一本のマッチから一本の小さなろう
そくにバトンが渡されて、もうしばらくは暖かい時間が約束される。この炎
以外にはぬくもりのない部屋の中で、小さな炎に両手をかざして暖をとる。
 今日はクリスマスイブ。もうサンタクロースを待つ歳でもないけれども、
身体のどこかで何かが届くのではないかというかすかな期待がくすぶってい
て、まぁ、まだそんな子供じみた夢が眠っていたのだわとおかしくなってひ
とり笑い声を漏らす。他の屋根の下では、今ごろ温かいスープと、七面鳥と、
可愛らしいケーキを囲んでいる家族が笑いあっているのだろうな。そんなこ
とを頭に思い浮かべると、まるで自分のことのようにしあわせな気持ちが胸
の中に満たされていく。父母がいて、兄も一緒だったときには、それは私の
家の中の光景だった。あの頃の思い出があるだけでもありがたいことではな
いかと、感謝の気持ちが浮かび上がってくる。いや、いまが満たされていな
いということではない。いまだってこうして明るい光とぬくもりを分けてく
れている小さな炎の姿を、死ぬまで胸の中に留めておきたいと思っている。
 どんなことだってありがたい。何も足りないものなどない。すべては自分
の心の中で作り出すもの。すべては自らが生み出しているもの。不幸だと
思う気持ちも、幸福だと感謝する気持ちも。
 私はろうそくが燃え尽きるまでこうして炎を眺め続けた。やがて小さな炎
は背丈をも小さくし、じゅうという最後の断末魔の声と共に消え去った。

 静かに立ち上がって部屋のスイッチを入れる。空調の電源もオンにする。
ぼんやりと夢を見ていたかのような家族の顔を明るさが映し出す。
 ろうそくの素朴な炎は、どうだった? 幻想を見た? それとも何か別の?
誰もが黙っている。だが不満に思っているのではないようだ。それぞれが
しばし現れた異空間に酔っているのだ。
 ね、イブの夜には、こうして炎ひとつで過ごしてみるのも悪くないでしょ?
こういう幸せの感じ方もあるんだって、わかったでしょ?私はそう言って、
みんなのグラスに順番にワインを注いだ。
                                           了


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